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2016/05/18
少し前に泊めていただいた家で、ダイニングルームの壁にあった猫の絵に目が釘付けになっていました。



腕組みをして、こちらを睨みつけている猫は、何を言いたいのか気になる。

この絵を「理想郷のようなところにあった農家」にちらりと入れたら、これはトミー・ウンゲラーの童話『キスなんか だいきらい』の絵だ、と教えてくださるコメントをいただきました。

何らかの主張があるように感じて、それが何なのかを探りたくなるような絵が好きです。というか、本来の音楽や絵画は訴えるものがあるべきだと思っています。

本当を言って、この類いの現代アートを私は好きではないのです。でも、これだけ気になった絵だったのですから、もしかしたら特別な作家なのかもしれない。それで、トミー・ウンゲラーとは誰なのかを調べてみました。

名前からは想像できなかったのですが、フランスの作家だったので、ネットで検索すると情報はいくらでも出てきたのでした。


『キスなんか だいきらい』と題されたトミー・ウンゲラーの童話

生意気そうな猫の絵は、日本語で『キスなんか だいきらい』と題された童話の表紙になっていました。1973年に発表された作品で、フランス語の題名は『Pas de baiser pour maman』。

猫の家族のお話しで、ママがベタベタに優しいのが気に入らない男の子が主人公。フランスの家庭では普通にありそうなお話しで、たわいもないストーリーなのだけれど、ユーモラスな語り口が楽しい。

主人公の子猫に、自分の好きなことしかしない身勝手な猫の習性がうまく重なっている。何よりも、子どもの立場から描いており、教訓じみたことは何もないのが気に入りました。

※フランス語と英語のアマゾンでは、一部分を覗くことができます。

題名は、フランス語と英語は同じ。日本語は、ちょっと違う。ママが息子を猫かわいがりしていて、キスを浴びせてくるのが耐えきれないと反発している男の子の話しなのですが、日本語の題名からは、なぜかママの文字が消えています。

フランス語と英語のタイトルを普通に訳したら、「ママにキスなんかしてあげないよ」とかになるのではないかと思うのですが、日本では親子がキスの挨拶をする家庭は例外的だから変えたのかな?...

フランス情報では、7歳から10歳向けの本となっていました。

インターネット情報だけでは、『キスなんか だいきらい』と題された日本語バージョンは読書感想で垣間見る程度でした。

でもフランス語版の方は、効果音入りの朗読で聞くことができました。一部は欠けているようでしたが、20分くらいの朗読。

※ 朗読をきけるサイトをリンクしておこうかと思ったのですが、クリックすると変なページが開いたり、ブラウザが危険信号を出してきたりするので止めておきます。


その他、フランスの学校の授業で使えるような教師用のマニュアルもありました。英語版についても、書籍販売ネットの中身拝見などで少し垣間見ることができたし、要約も読むことができました。

インターネット情報だけしか得ていないのですが、この本をいつか手にすることができたときのために調べたことをメモしておきます。

このお話しはトミー・ウンゲラーの自伝でもありました。彼の人生を知ると、このストーリーとの重なりが見えてきて興味深かったのです。しかも、擬人化した猫で表現しているので、かえって人間の家庭で描くよりよく表現されている。



トミー・ウンゲラーには自分の国というものがない?

レジオンドヌール勲章を受賞したパーティーで撮影された写真のようですトミー・ウンゲラーTomi Ungerer)は、イラストレーター、児童文学作家など、色々な肩書を持っていました。

1931年、ドイツと国境を接するアルザス地方の州都ストラスブールで生まれています。

父親は、彼が3歳半のときに病気で他界。

国際アンデルセン賞を受賞しているけれど、普通の、当たり障りのない「子ども向け」というお話しを書いているわけではないようです。

しかも、かなりエロチックな絵も描いている。彼がどんな人であるかは、ひとことでは言い表せないようです。

彼は3か国語で本を出しているそうですが、日本では児童文学が翻訳されているようです:
アマゾンで「トミー・ウンゲラー」を検索


トミー・ウンゲラーの故郷アルザスは、ドイツとの国境に位置し、フランスの中ではかなり特殊な地方です。

アルザス地方が神聖ローマ帝国からフランスに割譲されたのは17世紀半ば。普仏戦争がおこり、1870年にはアルザス地方はロレーヌ地方と共にドイツの領土になります。そして、第一次世界大戦の後に、再びフランスに併合される。


1940年、トミーが8歳のときに第二次世界大戦が勃発し、アルザスは再びドイツに占領されます。

彼は名前を変え、ドイツ語を話すことが強制されます。ウンゲラー家族では、多くのアルザス人たちと同様に、家も会社もドイツに没収されました。

学校ではナチスの教育を受けます。初めて出された宿題は、ユダヤ人の絵を描くことだったと語っていました。

家庭ではフランス人、学校ではドイツ人、友達とはアルザス人というカメレオンのような生活をしました。でも、優しくて賢い母親が家族を守り、笑いが絶えない生活をすることに努めてくれたそうです。

1945年、戦争が終わると、トミーは再びフランス人になりました。ところが、フランス語を上手に話せない。通うことになったフランスの学校では、アルザス語を話すことが禁止されている。

というわけで、フランスにも馴染めなかったようです。

1951年には、バカロレア(大学入学資格試験)に不合格。ストラスブールの装飾学校に入りますが、不服従ということで学校から追い出される。

彼はお坊ちゃん育ちではなくて、気骨のある男の子だったようです。15歳のときに自転車でフランス各地を旅行したのを皮切りに、ヒッチハイク、貨物船に乗ったりして、世界各地を貧乏旅行していました。

1956年というので、25歳の時ですか。描いた絵と、ポケットに60ドルを入れただけという持ち物でアメリカに渡っています。何でも可能なアメリカだったために、たちまちイラストレーターとして成功。

アメリカは永住の地とはなりませんでした。ベトナム戦争に反対したり、エロチックな絵も書いたりもしたので批判があり、自由の国というのは表面的なことだけだと感じて居心地は悪くなったようです。1971年にはカナダのノバスコシア州、さらに妻の故郷のアイルランドに移住します。

そんな人生を歩んだからでしょう。トミー・ウンゲラーにはどこかの国に所属しているという意識がないようです。「自分の国旗は自分のハンカチーフだ」と発言しています。

彼にとっては、やはり心のよりどころは幼い時代を過ごしたアルザスのようです。でもアルザス地方はフランスとは違う国。もちろん、彼の故郷はドイツでもない。1980年代からは、ドイツとフランスの関係を良くすることや、アルザス地方の2カ国併用運動などに尽力しているようです。

彼の働きのせいとも言えないでしょうが、フランス語を公用語にすることを強制してきたフランスですが、最近は地方の言語を学校教育で行っても良いという柔軟性を出してきました。

昔は国が違っていて、言語体系も全く異なる言葉があった地域も合併した国は、ヨーロッパではフランスだけに限りません。こういう言語の問題は、私などには理解できない面です。


親から受け継いだもの

トミー・ウンゲラーがアメリカに行ってすぐに仕事を得られたのは、ユダヤ人コミュニティーでの助け合いがあったから、という記述がありました。ということは、彼はユダヤ人だったということになりますよね。そうだとすると、戦時中に強制収容所に入れられずに済んだのは不思議です。母親がゲシュタボに捕まったときもうまく切り抜けたほど賢い人でもあったせいなのかもしれません。

トミーの母親は、アレクサンドラン(12音節詩句)を書くのが好きだったとのこと。ドイツに占領された時期にも、トミーが絵を描き、フランス語で日記を書き続けることを励ましました。トミーの子ども時代に描いたデッサン、学校の宿題、日記など、すべてのものを彼女は死ぬまで保管していたそうです。

母親のアリスは、末っ子のトミーを溺愛するのは自分に似ているからだと言っていたのだそう。かなりの美人でした。彼のオフィシャルサイトに親子の写真が入っています。

http://www.tomiungerer.com/biography/
Biography | Tomi Ungerer

トミーは4人兄弟の末っ子(兄1人、姉2人)。でも、兄弟とは年がかなり離れていました。下の作品に描かれている赤ん坊が自分を描いたものなのだそう。


Weihnachtslieder: Spielbuch Gitarre, Flöte und Gesang. 20 bekannte Weihnachtslieder

姉たちは絵を描くことを教えたくれたけれど、トミーは生きたお人形だったとも語っています。


トミーの父親の家系では、曾祖父の代から時計技師でした。トミーの祖父が1858年に設立し、1989年まであったウンゲラー社の広告です。

Ungerer

会社は時計の製造と修理が主体で作られたようなのですが、20世紀前半には自動車修理もしていたのだそう。時計と自動車のメカニズムは似ていましたか...。

ストラスブール大聖堂には、とてつもなく立派な天文時計があるのですが、その維持を担っていたのもウンゲラー社だったそうです。

Strasbourg Cathedral Astronomical Clock Cathedrale de Strasbourg - Horloge Astronomique
Horloge astronomique de Strasbourg, Cathédrale Notre-Dame de Strasbourg 


Cathédrale de Strasbourg : Horloge astronomique


シチリア島にあるメッシーナ大聖堂の天文時計は、トミーの父親Théodore Ungerer(1894-1935年)の設計によるものでした(1933年)。

トミーが3歳半のとき、父親は病気で亡くなっています。祖父も、その2年前に亡くなっています。

父親のことは、家族や親戚の人たちが語ることを通してしか知らなかったトミー。父親は、優れた業績を残し、人格的にも完璧だったというイメージだったそうです。

時計のメカニズムを知り、デザインをする技師には、絵を描く才能も必要だったのでしょう。トミーの祖父も父親も、見事な絵画やデッサンを残していました。

祖父、特に父親の絵を見せながら、トミー・ウンゲラーが自分が描いたものとを並べて見せている映像がありました:


De père en fils(2002年)


トミーの父親が描いた絵の中にも、少しエロチックなものもあります。妻がソファーで横たわっている姿なども、かなり官能的。

そんな父親の絵を才能を受け継いだことが、とても誇りのようです。

『De père en fils (2002年)』の中で、彼の父親は「死ぬときに全ての才能を私に引き継いでくれた」と書いています。


『キスなんか だいきらい』は、賛否両論の作品?

モノクロの絵ばかりで、子ども向けの本としては可愛くない絵が描かれていました。

お話しの始めには、主人公のジョーが目覚まし時計を壊してしまう話しが出てきます。



先祖代々、時計技師だった家系。トミー・ウンゲラーが子どものときには、きっと時計のメカニズムはどうなっているのかと分解してみたことがあったでしょうね。台所に忍び込んで缶切りを持ち出して時計を分解したら、バネが飛び出したので捨てたというのが愉快。

時計はチクタクとやるのが良いのであって、目覚ましなんかはして欲しくないと思ったようです。私は、チクタクやるのも煩いと思いますけど。


アメリカで出版するにあたって、トミー・ウンゲラーは表紙に「この本は子ども向けで、ママたちのためではない」という注意書きを付けたがったのだけれど、出版社に拒否されたとのこと。

それがなかったせいというわけでもないでしょうが、アメリカで発表されたときには批判が殺到したようです。かなりショックを受けた親たちもいたそうで、今年出版された「最悪の児童書」という賞までもらったとのこと。

批判の対象となったのは、描かれた家族関係、主人公の子猫の暴力。彼が歯を磨いているふりをして、トイレの便座に座って本を読んでいるという絵がひどい、などが問題にされたようです。

発表されたのは1973年。この時代のことを考えないといけないかもしれない。まだ昔風の子育てがなされていた時代だろうと思うのです。今のフランスだったら、男の子がキスは嫌いだという主張は人格として認められて、かえってママが息子の頬に平手打ちをすることの方が批判されるかもしれない。

ネットで拾った日本人の感想文では、貶している人たちがチラホラといました。絵が可愛くない、「つぶしねずみ」なんていう食べ物が出てくるのが気持ち悪い、など。


登場人物の名前

日本語で出版された童話『キスなんか だいきらい』は、英語版を訳したようです。英語のテキストは作家自身が書いているらしく、自由に英語圏の人向けの言葉遣いにしている感じがしました。

まず、登場人物の名前がフランス語版とは違う。

主人公の男の子の名前は、フランス語版ではJo(ジョー)という名前になっています。フランスではファーストネームから愛称を作る習慣があるので、ジョスランとかなんとかいう名前が本名なのかもしれませんが、それは出てきませんでした。

英語版では、主人公の男の子の名前はPiper Pawで、日本語版でも パイパー・ポー。

以下、主人公の子猫の名前はフランス語に従って「ジョー」としておきます。

英語版では、この一家にPaw(猫の肉球のこと?)という苗字を与えているようです。それで、ママの名前はMrs. Velvet Paw。

フランス語版では、ママはMadame Chattemite(マダム・シャットミット)になっています。

chatteはメス猫のこと。それにmiteを付けたchattemiteは、やたらにへつらってくる、つまりママがジョーにしているようなことをする人のことを指します。シャットミットを日本語に訳すと「猫かぶり」なので、ぴったりなのですけどね。

英語ではベルベット、つまりビロードになりますか。まあ、軟らかくてベタベタのママの雰囲気にはなりますけど。


ジョーのパパの名前は、英語では何なのかは分かりませんでした。Mr. Pawでしょうか?

フランス語では、パパはMonsieur Matou(ムッシュー・マトゥー)。時には、ムッシューの代わりに、父親を付けていることもありました。

matouというのは、去勢していない大きな雄猫のことです。食卓で口をきくことは少ないので存在感は薄いけれど、父親としてするべきことの最低限はしている父親として描かれている感じを受けました。つまり、トミー・ウンゲラーにとっての父親像が出ている?


子どもを呼ぶときの愛称

ママは息子のジョーを色々な愛情を込めたあだ名で呼んでいます。

中でも、ジョーが大嫌いなのは「Mon petit chou au miel」と呼ばれること。

chouというのはキャベツの意味があるので、ハチミツで煮てトロトロになったキャベツのイメージで呼んでいるのかと思ったら、そうではなかった。

日本でいうシュークリームは、chou à la crême。そのクリーム(à la crême)を、蜂蜜(au miel)に置き換えたようです。

私の蜂蜜入りシュークリームちゃん、という感じ。ベッタベタの甘さを感じますね。

キャベツではなくてシュークリームなのだろうと分かったのは、ジョーが怒っている場面があったからです。

ママに教えてあげるけど、chou au mielなんで存在しないんだ。パン屋のマスパンさんはケーキにも詳しいから聞いてご覧よ。シュー・オ・ミエルなんてのは存在しないんだ。

ー Ne me chéris pas tant Maman, ça me coupe l’appétit! Je ne suis pas non plus ton petit chou au miel. On m’aurait éjecté de l’équipe si je jouais comme un chéri ou si je ressemblais à un petit chou au miel. Et puis, j’ai l’honneur de te faire savoir, chère Maman, que les choux au miel, ça n’existe pas. Vas demander à Monsieur Massepain, le boulanger ; il s’y connaît en gâteaux. Les choux au miel, ça n’existe pas.

そんなことを気にする必要はないのですが、蜂蜜を入れたシュークリームというのは、あっても良さそうなスイーツではないですか? 本当に無いのかと思ってレシピを検索してみたら、1つだけ出てきました:
☆ レシピ(動画入り): Choux au miel

とても甘いけれど美味しいと言っています。フランスで「甘い」と言ったら、日本人には「甘すぎる」だろうと思って、作ってみる気にはなりませんけど。

ところで、この蜂蜜入りシュークリームという呼び名は、英語版では「honey pie」になっているようです。英語圏での代表的なデザートはアップルパイなので、リンゴの代わりにハチミツを入れたパイというところでしょうか? 主人公の名前を英語版ではPiper(パイパー)にしたのも、ここでパイをあだ名にしたからの命名なのかもしれません。

日本語バージョンでは、単に「パイちゃん」みたいですね。そもそも、日本のママは、いくら子どもにメロメロでも、色々なあだ名で呼んだりはしないので、そんなところに凝ってみても意味がないからなのかもしれません。


フランス語版では、登場する料理が美味しそうに感じる

日本人の感想文としては、絵が可愛くないというのと、登場する食べ物がグロテスクという批判がありました。

「つぶしねずみ」というのがあったのですが、何のことなのでしょう? 英語版の紹介文には「mice mush」という単語が登場していたので、それの訳なのだろうと思いましたけれど、どんな料理なのか私には想像できません。

フランス語版に登場する料理名は面白いです。

例えば、この朝食の場面。


Viens et assieds-toi, mon doux trésor. Prends un peu de ce pâté de souris, de ces filets de harengs, de cette friture de gésiers de pinsons. Je les ai préparés exprès pour toi, mon chéri.

ママが、「あなたのために作ったのだから、お食べなさいな」とトミーに言っているのですが、その料理とは、ネズミのパテ、ニシンのフィレ、小鳥の砂肝のフライ。

朝食なのに、すごい料理を並べているところで、ママが愛情の現れなのでしょうね。

小鳥とは、pinsonになっていました。フランスでは、ピーチクしゃべる陽気な人の例えに持ち出される鳥です。

庭でさえずっている鳥について、ブログで書いたことがあります:
華やかにさえずっているのは何の鳥? 2013/05/24

美味しいのかどうかは知りませんが、スズメのように小さな鳥なのに砂肝を取り出したところがすごい。ママの努力が見えるではないですか?!

猫はネズミが大好き。でも、自分で捕まえたいのだから、ママがパテにまで料理してくれたら面白くないと思うだろうな...。

ところで、この朝食テーブルの絵に、Schnaps(シュナップス)という酒がのっていることも、作品が発表されたときにケシカランという批判もあったのだとか。これは、ジャガイモや穀類からつくる蒸留酒で、ドイツやアルザス地方では飲まれる酒なのだそう。こんなところにも、作家はアルザス色を出しているようです。


お話しのクライマックスでは、ママが買い物に出かけるついでにジョーを学校でピックアップして、昼ごはんを食べにレストランに連れて行こうという展開になります。

ママは息子が好きなピンク色でコーディネートでおめかしをして出かける。この日に連れて行こうとした町一番のレストランでは、日替わり料理がジョーが大好きな料理だから。

で、その料理とは「tripes en cocotte」というもの。

トライプを、ココットという厚手の鍋でコトコト煮た料理。

色々な臓物の煮込み料理なわけですが、手間をかけて煮れば美味しい田舎料理になります。

どんな感じの料理かと検索すれば、こんな画像が出てきます

でも、人間さまが食べる食材ではなくて、さすが猫のお話しなので、材料はモグラになっていました。

モグラは美味しいのでしょうかね?

この料理名で、トミー・ウンゲラーは都会の人ではないかなと思いました。フランスの田舎の人がお話しを書くとしたら、hérisson(ハリネズミ)にしたと思います。フランスにいる放牧の民の人たちの大好物で、実際に食べた人たちもすごく美味しいのだと言っていましたから。


ともかく、息子の好物のモグラのトライプのココット煮込みを食べさせてあげようと張り切ってでかけたママは、学校から出てきた愛する息子が大怪我をしていたのでパニックになり、息子を抱きしめてキスの雨を降らせてしまう。

キスをされるのが嫌で仕方なかったジョーは、なんだかんだとキスばかりされるのはたまらないのだ、と思いのたけを並べました。すると、レストランに行くために呼んでいたタクシーの運転手さんが、「ママに対してそんな言い方はないだろう」とジョーをたしなめる。

これも、フランス的だと思いました。日本ではお客様は神様、同様に、子どもも神様。よそ様の子どもがいくら悪いことをしたって、咎めたりする権利はないと黙っているではないですか?

タクシーの運転手さんの注意で、この子は悪いのだと思ったママは、つい、愛する息子に平手打ちをしてしまう。


Elle s’avance , et, pif-paf, elle gifle son fils...

この後、二人は予定通りレストランに行きます。でも、二人は気まずい思いでいる。ジョーは好物のココット料理に鼻面を突っ込んだ程度。ママの方は紅茶しか注文しなかった...。

その後にどうなったかは書かないでおきます。

ジョーは、チヤホヤしすぎのママを煙たがっているのですが、本当はママが大好きなのですよね。こんな仏頂面でいるのも、ママが自分を愛してくれているという確信があるからできるだけのこと。もしも、ママから嫌われる子だったら、自分の方からシャットミットになっていたかもしれない。

下は、ほとんど最後の画面のはず。



仏頂面だったジョーのタッチと全く変わっています。見事な表現だと思いました。この童話は、絵が語っていることに言葉で少し説明を付けた、という感じなのではないでしょうか?


フランス人の子どもへの愛情表現


名前とは全く関係ないあだ名で呼ぶのはフランス人は好きらしくて、夫婦でもそうだし、子どもに対しても普通に使います。

特に、子どもを呼ぶときのあだ名は1つに決めずに、色々な表現をしているように思います。

子猫のジョーを呼ぶママの呼び名には、「蜂蜜シュークリーム」のほかに「Mon doux trésor」というのも出てきていました。

「Mon trésor(私の宝物)」と親が子どもを呼ぶのは非常にありふれています。でも、そこに「doux(甘い、優しい、心地よい)」を付けてしまっているのがママのメロメロぶりを現しているのでしょうね。

でも、ちょっとヒネリが足りない。蜂蜜シュークリーム(Mon petit chou au miel)も、ハチミツなしにして「Mon petit chou」だったら、男女間でも使う、ごくありふれた愛称です。

人間の場合には、「私の猫ちゃん」という感じの愛称でバラエティーがあるのですが、さすがに猫のお話しなのでそれは使えなかったらしい。ジョーに対しては、「砂糖でできたタイガー」みたいなのがありました。

タイガーに例えるのは、トミー・ウンゲラーの母親も使っていたようです。彼がどう呼ばれていたかというリストアップもありました。太陽の光、スズメちゃん、金のスカラベ、ウンコちゃんなどですが、アルザス語に翻訳がついただけなので音の響きが面白いのかどうか私には分かりません。でも、このお話しよりは遥かにバラエティーに富んでいるし、そんなに甘いものばかりに例えているわけでもありませんでした。


フランスに初めて留学して、家族のように親しくなった家庭には、10歳と13歳の男の子がいたので、彼らがどういう風に母親から扱われているかを観察したものでした。

この童話に出てくるジョーもそのくらいの年齢という想定だと思うのですが、私が観察した家族もジョーと同じような感じで母親からメロメロに可愛がられていると思いました。ついでに私も彼らのママからキスの雨を浴びていましたけど、言葉がろくにできないときにスキンシップで愛情表現してくれるのは悪くないと思いました。

13歳の男の子に対して、別に愛情表現する必要もない場合なのに、ただの呼びかけとして「私の宝物」とママが言っているのを見て、よくそんな言葉を息子に言えるものだと感心したのを覚えています。でも、観察していて思ったことがありました。

子どもを叱るときには、非常に怖いママになるのです。言うこともきつい。私だったら、一回でもそう言われたら家出を考えると思うようなことまで言って、冷たく突き放しているのです。ところが、優しいときはメロメロの愛称で呼んでキスを浴びせている。

そういうコントラストがあるのがフランスの躾なのだろうな、と思ったのでした。つまり、きつい叱り方をしても、後で愛情表現があるから子どもは正常に育つ。怖いだけだと、やはり子どもの心は傷づいてしまうはず。また、メロメロばかりしていて、叱ったりしなかったら、やはり片手落ちの教育になって、子どもは自分の存在感がなくなってしまうのでは?...

ところで、怪我をした子猫のジョーが、迎えに来たママにキスを浴びせられたら激しく怒ってしまった場面について、フランス人に解説を求めてみました。クラスメートにママからベタベタと可愛がられているのを見られてしまうのは、男の子としては最大の屈辱なのだそう。だから、ジョーのママがやってしまったのは絶対に許せない行為だ、と断言していました。つまり、そんなことがあった後では、仲間から散々バカにされるということらしい。

男の子にはメンツがあるということ? 人が見ていようが、平気でキスの挨拶をするフランス人なのですけど、そういうものですか。私が親しくなったフランス人の家族で見ていたのは、家庭内での母親のメロメロぶりであって、あの子たちが外に出ているときには、ママは態度を変えていたのかなと思いました。



トミー・ウンゲラーと猫

トミー・ウンゲラーは、動物を観察して、それを絵にするのが好き。そして、動物の中でも猫が一番のお気に入りです。

彼は語っています:
猫は利口だ。そして、自分でもそれが分かっている。

猫は、犬と違って、かなり好き勝手なのです。ウンゲラーは自分の奔放な生き方を猫の中に見出しているのだろうと思いました。

彼は数多くの作品を残しましたが、猫はかなりの頻度で登場しているようです。




トミー・ウンゲラーはフランスの国境から10キロくらいの所にあるドイツのカールスルーエ市(Karlsruhe)に作られた幼稚園をデザインしていました。「国境のないヨーロッパ」プロジェクトの1つとして実現されたのだそうです。


Une maternelle en forme de chat en Allemagne - Helloo Designer

こういう建物は往々にしてバカバカしくなるのですが、実に見事なデザインだと思いました。楽しそう。猫の口から建物に入ると、猫の体の中にいる気分になるデザインになっています。

トミー・ウンゲラーが好きか嫌いかは別にしても、並々ならぬ才能を持った人だろうと感じます。


何かにつけてキスをするんだから! と息巻いた子猫。そういう風習なしに育った私にとっても、キスをするフランス式挨拶は気になるところです。

続きを書きました:
どちら側からキスの挨拶をすべきなのか?




ブログ内リンク:
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビ番組
複数の公用語がある国ベルギー: 言語戦争?! 2009/05/26
★ 目次: フランス式挨拶、親しさの表現
★ 目次: フランスに結婚に関する風習、夫婦・家族関係、生き方

外部リンク:
☆ オフィシャルサイト(英語): Tomi Ungerer - Official Website
☆ Musées de Strasbourg: Abécédaire Tomi Ungerer
☆ Wikipédia: Tomi Ungerer
L’œuvre satirique de Tomi Ungerer (2007)
L'oeuvre graphique de Tomi Ungerer, par Therese Wller
☆ Libération: Pour adultes et enfants seulement (1998)
☆ INA: 「Tomi Ungerer」をキーワードにして記録映像を検索
☆ YouTube: トミー・ウンゲラー
絵本作家トミー・アンゲラーTomi Ungerer
天才トミー・アンゲラーの「政治」展

Pas de baiser pour maman USEP Garazi Baigorri
Tomi Ungerer 7 à 10 ans - l'école des max
No Kiss for Mother  Tomi Ungerer
☆ Booktopia: No Kiss for Mother by Tomi Ungerer.
絵本レビュー『キスなんてだいきらい』
キスなんてだいきらい

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Les Petits Noms d'Amour - French Love Nicknames


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カテゴリー: 文学、映画 | Comment (7) | Top
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2015/01/06

シリーズ記事目次 【赤ずきんちゃんのガレットとは?】 目次へ
その1


前回の日記「本場ブルターニュのガレットのレシピを探してみた」を書きながら、蕎麦粉で作るガレットについてインターネットで調べていたら、ほんと? と驚く記述に出会いました。

『赤ずきんちゃん』にガレットが登場している、という日本語情報があったのです。

フランスで市販されているコスプレ。日本からの輸出品のようですが、間違いではないかと思ってしまうほど高額!
この童話を読んだのは遥か昔ですが、アウトラインは覚えています。

病気のお婆さんの見舞いに行くようにお母さんから言われた赤ずきんちゃん。ところが、行ってみたらオオカミがお婆さんになりすましていた、というお話しですよね?

たしか、赤ずきんちゃんはバスケットを持って家を出た。

でも、何をバスケットに入れて持っていったのか? 私の記憶の中は空っぽでした。

フランス語で書かれた物語では、赤ずきんちゃんはお見舞いとしてガレットを持って行った、ということになっているのだそうなのです。


赤ずきんちゃんが持って行ったガレットとは?

日本の子どもが読む本に「ガレット」などとは書かないだろうと思ったので、ペローの『Le Petit Chaperon rouge赤ずきんちゃん)』の文章をインターネットで探しだして眺めてみました。お話しの冒頭で、確かにお母さんは「galetteガレット)」を持っていくように、と赤ずきんちゃんに言っていたのでした。

ガレットでしたか...。

でも、ガレットって、どのガレットのこと?...

フランス語で「ガレット」と言われただけでは、どんなものなのか分からないのです。思い浮かぶのは、ガレット・デ・ロワという名のケーキ、クッキー、そば粉のクレープ。丸い形をしているという共通点はありますが、全く違った食べ物です。


右に入れた蕎麦粉で作るガレットは、前回の日記でレシピを紹介したブルターニュの郷土料理です。でも、近年になるまで広い地域で食べられていたわけではないと思うので、このガレットではないことだけは確かだろうと思いました。

でも、この3つ以外にも「ガレット」と呼ぶものがあるのかも知れない。


どんなガレットだったのか、画像で確認

赤ずきんちゃんが持っていったのが何かを知るには、画像で見るのが手っ取り早い。

パリから35Kmくらいのところにあるブルトゥイユ城(Château de Breteuil)を見学したとき、赤ずきんちゃんのお話しを再現された部屋があったことを思い出しました。

写真アルバムから写真を探し出してみると、赤ずきんちゃんの人形は大きな丸いものを持っていました!

ブログに入れようと写真加工をしたのですが、ガラス窓越しに部屋の中を見たので画面が不鮮明。Wikipediaに良い写真が入っていたので、そちらをリンクします。

Chaperon Rouge

この女の子が持っている丸いものが「ガレット」なのでしょうね。

これを見た私が、この大きな丸いものに注目したのかどうか思い出しません。でも、どうしてこんな大きなものを持っているのだろう、と不思議だったようにも思えてきます。この城は蝋人形や猫人形などで有名な話しの場面などを再現しているので気に入ったのですが、なぜか赤ずきんちゃんの部屋は時間をかけて眺めたように記憶しているのです。

一緒に見学した友達に、この大きな丸いものが何であるか聞いていたかもしれない...。でも、おとぎ話が好きなような人ではなかったので、これをガレットと呼ぶとは教えてくれなかったのではないかな?... この城を見学したときのことをブログに書き留めておかなかったのが残念...。



ガレット・デ・ロワ
この写真を見て、真っ先に思い浮かべたのは、今の時期に食べるガレット・デ・ロワというお菓子です。

お正月の時期だったら、これを病人のお見舞いに持っていくのは最高のプレゼントだったはず!

ガレット・デ・ロワというケーキについては、すでに紹介しているので省略:
フランスの正月: 3. ガレット・デ・ロワを食べる 2006/01/04

でも、ガレット・デ・ロワはパイ菓子ですから、この人形のように抱えて持って歩くなんてことはできません。

紙袋に入れるとか、布で包むとかしないと、皮がパラパラはがれてしまいますから。

それに、『赤ずきんちゃん』は新年のお話しだったわけでもないように思います。

それで、ガレット・デ・ロワではなかっただろうと思いました。でも、大きさと形は似ているのだろうと想像します。

『赤ずきんちゃん』の挿絵などを見ても、持ち物がよくわかるものは大きな丸いものを持っていました。

Gustave Doré (1867)- フランス

Albert Anker (1883) - スイス

何なのだろう? 気になります...。

こういう風に抱えて持つとしたら、ケーキのガレットではなくて、パンではないですか?...

検索してみたら、平べったいパンが存在していて、「Galette de pain(パンのガレット)」と呼ばれていました。

「Galette de pain」をキーワードにしてGoogleで画像検索

フランスでは珍しくて、アルジェリアなどに平べったい伝統的なパンがあるらしい。

パンのガレットなどというのがあったの?!...

昨年、といっても少し前のことですが、紛らわしいお菓子の呼び名があると書いたばかりで、そこにガレットも入っていました。

以前にも紛らわしくて混乱すると書いていたので、目次まで作ってしまいました:
★ 目次: ゴーフル、ゴーフレット、ガレットなど紛らわしい菓子の名前

それで頭の中を整理したつもりになっていたのに、パンのガレットなどというのまで飛び出してくると、またまた気になりだしてしまう...。


『赤ずきんちゃん』の3つのバージョンで比較

『赤ずきんちゃん』といえば、フランスのペローが出版した童話(1698年)、ドイツのグリム兄弟の童話(1812年)があります。でもヨーロッパに古くから口伝えに語り継がれてきた民話なので、ペロー以前のお話しも残っているそうです。

フランスには30ほどのバージョンが確認されているそうですが、有名な3つのバージョンから、赤ずきんちゃんがお母さんに持たされた食べ物について書いてある部分を拾い出して、比較してみます。

 日本語フランス語(下段に英語訳)





昔あるところに一人の女の人が住んでいました。その女の人はパンを焼いて、娘に言いました。「この焼きたてのパンミルクをおばあさんのところに届けてちょうだい」。
- 鈴木晶 『グリム童話/メルヘンの深層』
熱々の菓子パン1個(注②)、ミルク1瓶

C'était un femme qui avait fait du pain. Elle dit à sa fille :
– Tu vas porter une époigne toute chaude et une bouteille de lait à ta grand.
There was a woman who had made some bread. She said to her daughter, "Go and carry a hot loaf and a bottle of milk to your grandmother."





ある日、おかあさんはパンのついでに焼き菓子(ガレット)を焼いてから、赤ずきんちゃんに言いました。
「おばあちゃんが、ご病気だそうよ。どんな具合だか見ておいで。ガレットとこのバターの壼をもってお行きなさい」
- 新倉朗子訳
ガレット1個、バターの小瓶

Un jour, sa mère, ayant cuit et fait des galettes, lui dit : Va voir comme se porte ta mère-grand, car on m’a dit qu’elle était malade. Porte-lui une galette et ce petit pot de beurre.
One day her mother, having made some cakes, said to her, "Go, my dear, and see how your grandmother is doing, for I hear she has been very ill. Take her a cake, and this little pot of butter."




ある日、おかあさんは、この子をよんでいいました。
「さあ、ちょいといらっしゃい、赤ずきんちゃん、ここに菓子がひとつと、ぶどう酒がひとびんあります。これを赤ずきんちゃん、おばあさんのところへもっていらっしゃい。おばあさんは、ご病気でよわっていらっしゃるが、これをあげると、きっと元気になるでしょう。
- 楠山正雄訳

ある日のこと、お母さんが赤ずきんちゃんに言った。
「おいで、赤ずきんちゃん。ここに大きな上等のお菓子が一つ葡萄酒が一瓶あるからね。これを、おばあさんのところへ持っておいで。おばあさんは病気で具合が悪いから、これを食べたらきっと元気になるよ。
- 金田鬼一 訳
ガレット1切れ、ワイン1本

Un jour, sa mère lui dit :
- Tiens, Petit Chaperon rouge, voici un morceau de galette et une bouteille de vin : tu iras les porter à ta grand-mère ; elle est malade et affaiblie, et elle va bien se régaler.
One day her mother said to her, "Come Little Red Cap. Here is a piece of cake and a bottle of wine. Take them to your grandmother. She is sick and weak, and they will do her well.

 

注①: Millien版「Le Conte de la mère-grand」。1870年代、フランスのニヴェルネ地方での収録した民話。
 

注②: 日本語訳ではお母さんが焼いたパンを持たせたように受け取れますが、フランス語では焼いたのは「pain(パン)」で、持たせたのは 「époigne」でした。「époigne」は 辞書に入っていない単語なので、「菓子パン」と訳してみました。どんなものであるかについて見つかった説明は以下の通り:
  • 小さなパン、ガレット、丸い菓子。古い言葉だが、今日でもブレス地域やドンブ地域の農家では、バターを入れた丸い小麦粉のパンを「époigne」と呼ぶ(情報、Dictionnaire historique de l'ancien langage françois)。
  • パンを焼くときの生地の切れ端で作った小さなパンで、たいていは子どものために作る(情報
  • 英語訳で「époigne」の代わりに使われている「loaf」は古い英語で、意味は、① パン1個(四角。丸・長細い形などに焼いたもの)、② 菓子パン、(比較的大きい)ケーキ(情報)。
赤ずきんちゃんが持っていったのは、古い民話では一種のパン。ペロー版とグリム版では、ガレット(英語版ではケーキ)で、グリム版では丸ごと1個ではなくて1切れ。パンだとしても、菓子パン風のものだろうと想像します。

それと一緒に持っていくものが、3つのバージョンでは異なるのですけれど、それは気にしない。


赤ずきんちゃんのガレットのレシピを探してみる

そんなものがあるとは思っていなかったのですが、存在するのでした!

やはりフランス人は食いしん坊なのでしょうか? おとぎ話に登場する食べ物のレシピ本が幾つも出版されているし、赤ずきんちゃんのガレットのレシピを紹介するページはインターネットにもたくさんありました。

おとぎ話を聞いた子どもは、そこに登場するものを食べたくなるものなのでしょうか?

フランスで出版されている、おとぎ話のレシピ本:



「読むと食べたくなる赤ずきんちゃんのガレット」などと言ってレシピを載せているブログもありました。私にとって、怖いオオカミが出てくる赤ずきんちゃんの話しは、むしろ食欲を減退させるものだと思うのですが...。

日本のみなさんは、どうなのでしょう? 日本でも赤ずきんちゃんのガレットを再現しようとする人がいるのだろうかと思って、インターネットで探してみました。


ガレットはスコーン?!

クックパッドで「赤ずきんちゃん」をキーワードにして検索してみたら、色々出てきたのですが、赤い頭巾をかぶった女の子に見えるお弁当ばかり...。

幼稚園に行く子に赤ずきんちゃんのキャラ弁を作ってあげるのは優しいお母さんですが、私が探しているのは赤い頭巾ではなくて、持っていった食べ物です。

童話に登場する食べ物を作れるレシピ本は日本にも存在していましたが、インターネットで赤ずきんちゃんが持って行ったお菓子のレシピを紹介しているのはごく少数でした。.

驚いたことに、赤ずきんちゃんが持っていったガレットは、どうやら日本では、イギリスのお菓子である「スコーン」を連想するらしいです。

こちらもレシピを紹介しているのですが、スコーンです:
『赤ずきんちゃんのバスケット』

ひょっとして、英語圏ではガレットをスコーンと訳すのだろうかという疑問がわいてきます。でも、英語に訳されたペロー版もグリム版も「cake(ケーキ)」という単語が使われているのです。

どうして日本だけスコーンにしてしまうのだろう?...

童話に登場するお菓子をレシピとともに紹介した書籍があって、それの影響なのだろうと思えました。


童話の中のお菓子たち 時事通信出版局 (2005/11)

この本では、赤ずきんちゃんは何を持っていっただろうか?... と始めていました。

この書籍はGoogleブックに入っていたので、レシピまで読めてしまったのです:
☆ Google ブックス: 童話の中のお菓子たち

Googleブックスはみなそうなのか、この書籍の部分がおかしいのか、買うようなふりをして無料サンプルを見たりすると、はじめの数ページしか開かないこともあるし、最後まで出てきてしまったりもしました。なんだかキツネにつままわた気分...。

それはともかく、この本では、香りも良いスコーンを持っていってお婆さんを喜ばせたい、と書いてありますので、歴史的に検証して赤ずきんちゃんはスコーンを持っていったはずだ、という判断ではないようです。

昔のお話しだから、シンプルなお菓子を選んだというのは適切だと思いました。でも、赤ずきんちゃんがスコーンを持っていったとすると、問題があると思うのです。

フランス語の文章にあるガレットもパンも、英語版のケーキも1個だけ持っていくことになっています。

私たちが普通に見るスコーンを1個持っていくのは変です、
でも、スコーンも大きな形に作れるのでしょうか?

あるいは、日本人は単数か複数かを気にしないから、スコーンを連想しただけなのかな?...

検索してみたら、小麦粉26キロ使った重さ50キロの巨大スコーンの画像が出てきました。大きく作ろうと思えば、できるのですね。

赤ずきんちゃんのガレットは、お正月に食べるガレット・デ・ロワと同じくらいの大きさだと思うのですが、スコーンをそのくらいの大きさにしたらどうなるのかな?...


スコーンの祖先は、ガレットみたいなパンだった

日本では最近、スコーンscone)が流行っているように感じるのですが、私は食べたことがないように思います。それで、スコーンとはどういうお菓子なのか調べてみました。

Wikipediaの英語ページの「Scone」には歴史の項目があって、驚くことが書いてありました。スコーンの原型は、丸くて平たくて、中皿くらいの大きさだった、というのです。

だったら、始めに画像を入れた赤ずきんちゃんたちが持っていたものと同じではないですか?!

そのスコーンの原型は、今日ではbannockと呼ばれていたのだそう。

スコットランド、オークニーの伝統的な六条大麦(beremeal)のバノック。切り分けられた一片はスコーンと呼ばれる。

これなら抱えて持って歩けそうですね。

Wikipediaの「bannock」からフランス語ページへのリンクでは、さっき書いた「Galette de pain(パンのガレット)」にリンクしているだろう、と期待を高めました。

から喜び! Banniqueにリンクされていました。詳しく書いていないので、画像検索をしたら、カッコ付きでpain amérindien(インディアンのパン)というのが圧倒的に多いので混乱...。フランスでは、これはアメリカ大陸に入ったヨーロッパの人たちが食べていたパンとして知られているらしい。

なんのことはない。Wikipediaの日本語ページ「バノック」を先に見ればよかった。詳しく説明されているのです。

赤ずきんちゃんが持っていったのは、パンのガレットと呼べそうなバノックでも良いのではないかと思いました。グリム版では「ガレット1切れ」と言っているのです。バノックを切ったものを「スコーン」と呼ぶそうだし。

でも、です。

バノックは膨れそこなったパンみたいではないですか? グリム版のフランス語訳では、お母さんは「病気で弱っているお婆さんは、このガレットに舌鼓を打って喜ぶだろう」と言っているのです。

このバノックをもらって、お婆さんはそんなに喜ぶだろうか?... 食いしん坊のフランス人たちは、もっとおいしそうなお菓子を想像するようです。

次に、フランスで定番になっているように見える「赤ずきんちゃんのガレット」のレシピをご紹介します。
赤ずきんちゃんが持っていったガレットのレシピ(フランス版)

 シリーズ記事: 赤ずきんちゃんのガレットとは? 【目次




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★ 目次: レシピ、調理法、テーブルウエアについて書いた記事
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外部リンク:
童話「赤ずきんちゃん」に関するリンク集 (シリーズ日記目次内に記載)
BnF: Contes de fées » Petit Chaperon rouge
  ※エンコードは中央ヨーロッパ言語(ISO)に設定して読む
 赤ずきんちゃん ー 赤ずきんちゃんのあれこれ
Mise en parallèle des trois versions


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2014/12/23
もしも無人島に行くとしたら、何を持っていきますか?
そういうのが昔にありましたね。

今でも言われたりするのでしょうか? インターネットで「無人島 持っていく」をキーワードにして検索してみたら、たくさんヒットしてきました。これを考えるのは面白いという人気は衰えていないということでしょうか?

サバイバルの道具には興味がないので、持て余すであろう時間を使うために何を持っていくかが知りたいので少し調べてみました。


本まで出版されていた

有名人18人に何を持っていくかを聞いた結果を書いた本もありました。今年の秋に出版されているので、この少しバカバカしいような質問はまだ廃れていないようです。

質問をした18人は、なぜか男性のみ。この本がヒットしたら、女性18人の本を出すつもりだったのか?...
ともかく、誰が選ばれていたかだけは、本の紹介を読めば分かります ↓


無人島セレクション Desert Island Selection

「もしも、無人島でひとりぼっちになるとしたら」ということで、持って行くレコード1枚、映画1本、本1冊を挙げてもらったのだそうです。何を選ぶかで、その人の生き方などが分かるので、面白いかもしれませんね。


アンケート調査というのは、そのままでは受け取れない結果が出ますが、少しは傾向が分かるかと思って探してみました。


そうかな?...

アンケート結果を出しているページもありました:
無人島に1つだけ持ち込むとしたら…上位は「本」「テレビ」「釣り道具」 アンケート結果



こちらのアンケートは、生命維持のための最低必要条件(水・パン・薬)や電源設備、通信環境は整っており、気候も温暖な無人島という前提で行っていました。そうなると、本来の無人島という空間が色あせると思うけど...。

電源と通信環境が整っているのなら、私ならパソコンでインターネットを見ることを考えます。でも、それが上位には入らなかった様子。不思議です。インターネットなら本も読めるし、音楽も聞けるし、映画も見れますから、退屈しないではないですか?

でも、よく読んだら、編集部からのコメントで、パソコンは「万能機器ゆえにあえて選択肢から抜いた」と書いてありました。パソコンもOKとしても、100%にはならないと思うけれど、どのくらいの人が選んだかな?...

それでも、通話専用の携帯電話はOKとしていて、かなりの人が選んでいました。でも、持っていくことができるのは1つだけですよ。私なら、無人島にまで行っても誰かとおしゃべりしたいというのは未練がましいと思ってしまうけど...。

でも、これまたよく読めば、無人島で一人暮らしをするのは1カ月くらいという条件になっていました。そのくらいの期間だったら、退屈しのぎをしていれば良いか...。

テレビを持って行きたい人はもっと多くて、第2位になっていました。クラシック音楽を1日中流しているチャンネルがあるフランスのなら良いけれど、さもなかったら、私ならイライラしてしまうけどな...。普通に見れる環境にあっても、見たくないもの...。最近の日本のテレビは、どうなっているのか不思議になるほど、宣伝ばかり見せられると感じます。

釣りの道具を持って行くというのが上位に入っていたのは賢いな、と感心しました。私は全く思いついていなかった!


1冊の本を選ぶとしたら?

無人島に持って行くものを本に限定したアンケート調査もありました:
無人島に持っていくならこの一冊 結果発表!



第1位になった『ONE PIECE』というのは、私は存在さえ知らなかった漫画。海洋冒険コミックなのだそう。なるほどね...。無人島に持って行くにはもってこいですか。...と言われても、子どものときから漫画にはアレルギー症状があった私は、アドバイスに従うつもりはありませんが...。

第2位が聖書というのは良い選択ではないかと思いました。時間がたっぷりあるとき、何回も読み直して、色々と考えたら退屈しないでしょうから。

でも、不思議なのです。そういう意味で選ぶとしたら、仏教の偉人の書いた難解な本も良いのではないかと思ったのですが、そういうのが見えない。『歎異抄』とか、『正法眼蔵』とかは、日本人の原点を探るうえで、じっくり読む価値があるのではないですか? かろうじて、『般若心経』が86位に入っていました。

聖書が第2位になるほど日本にクリスチャンがいるとは思えません。仏教の教えよりキリスト教の方がとっつきやすいのかもしれない...。私自身もそう感じるので。

第3位は広辞苑。上位30位の中に辞書は4冊入っていました。みなさん、お勉強家なのですね...。

上位10位には、サバイバルや冒険のお話しの本が目立ちます。生き残りたい、というのが第一の関心事になると思うからなのでしょうかね...。


実は、私は昔、1冊だけ持って行く本を選んだことがありました。3カ月くらい幽閉されるような環境になるときに持っていく本を選んだのです。荷物になるから、本は1冊だけにしました。

フィリピンに住まわせてもらうことになったのですが、当時は治安が悪かったので、一人でウロウロしてはいけないと言われたので、長編小説を1冊持っていこうと思ったのでした。

当時の私は長編小説が好きで、ドストエフスキーなどは愛読書でした。

それで選んだのは、少し毛色を変えて、スタンダールの『パルムの僧院』。

精神分析がみごとな作家なので、じっくり読んだら面白いだろうと思ったのが理由。

当時の私はフランスなんて全く興味がなかったのに、大切な1冊を選んだ時にフランス人作家の本を選んだというのは不思議なご縁、という気がします...。

もちろん、読んだのは翻訳本。原題は『La Chartreuse de Parme』でしたが、当時の私はカルトジオ会と聞いても何の意味も持っていなかった...。

暑い国に行くので、衣服はがさばりませんでした。小さなスーツケースの中に、本が1冊。結局、そのくらいの荷物で生きられるのだ... と、妙に感心したのを覚えています。このあたりから、私の風来坊精神が形成されたのかもしれない!


無人島でどう行動するかも性格判断になる

無人島で検索していたら、無人島に行ったときにどういう行動をとるかで判断する性格テストがありました。
もし、無人島に漂着したら?無人島占い

さっそく私もテストしてみたら、愉快な結果が出てきました。

私は、「無人島を開拓して王様になるタイプ」なのですって。私しかいない島なのだから、王様になったって、それと同時に、唯一の平民でもあるわけですから、喜ぶには値しないですけど!

私の性格には、一人ぽっちでも平気で、どんな場所でも自分が住みやすいようにしていく強さがあるのだそう。それは言えているな...。文句を言っているよりは、何とか工夫して急場しのぎをする傾向があるし、物に対する執着はゼロですから。

「狭い日本でゴミゴミとしたところに住むくらいなら、ひょっとすると無人島暮らしのほうが性にあっているのかもしれませんね」なんて書いてありました。日本には無人島がたくさんあるのだから、移住してしまったら? などとまで書いてある!

無人島と言われたら、私は南国の小さな島を思い浮かべます。一人で住むのも悪くないかもしれないな...。

パラオの無人島

すでに住人はいたけれど、憧れてしまった小さな島について書いた日記:
ガルダ湖の孤島 2009/12/27


ところが、世界で最も大きな無人島は、カナダの北極海に浮かぶデヴォン島(Devon Island)で、九州の1.5倍もの大きさがあるのですって。

寒いのは嫌ですね...。それに、そんなに広かったら、誰も島にはいないのだと分かって諦めがつくまでに、相当な時間をかけて歩きまわってしまうではないですか?! そういう空しいことに時間は費やしたくない...。



無人島に何を持って行くかのしを書いたのは、音楽を聴くのが1曲だけと制限されたら何を選ぶかという問題を出されたら、私には躊躇せずに答えられる曲があるな、と思ったからでした。

続き:  音楽を1曲しか聞いてはいけないと言われたら、迷わず選ぶ曲


 

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2013/06/26

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その5


ノーベル賞作家ロマン・ロランRomain Rolland: 1866~1944年)は、ブルゴーニュ出身。

クラムシー町(ブルゴーニュ地方ニエーヴル県)で生まれています。14歳からはパリ市に移り住みますが、1903年から1912年をかけて大作『ジャン・クリストフ』を執筆したあと、また故郷ブルゴーニュに戻っています。

その後、スイスに亡命したりもしますが、1937年にはヴェズレー村(ブルゴーニュ地方ヨーヌ県)にある家を購入。亡くなるまでの日々を「永遠の丘」と呼ばれるヴェズレーで過ごしました。

私が子どもの頃は長編小説がやたらに好きだったので、『ジャン・クリストフ』を読んだ記憶はあるのですが、その他の彼の作品も読んだことがあるかどうか覚えていません。

昔の私はフランスとは無関係だったし、ましてやブルゴーニュなどというのは頭の片隅にもなかったはず。いま読んだら、ブルゴーニュとの関係で興味深く読める作品もあるのではないかと思うのですが...。

例えば、カバレフスキーがオペラにした『コラ・ブルニョン(Colas Breugnon)』は、ロマン・ロランの人生観を表したもので、クラムシーの町が舞台なのだそう。


晩年を過ごしたヴェズレーの家

ロマン・ローランがヴェズレーに住むようになった当時、フランスの半分はドイツに占領されていたので、ヴェズレー村も当然その中に入っていました。

人口を見ると、現在とほとんど変わらず500人くらい。でも、当時は世界遺産の観光地としての賑わいはなかったでしょうから(登録は1979年)、本当の住民だけが住む静かな村だっただろうと想像します。

ロマン・ロランが晩年の7年間を過ごした家は残っていて、 現在ではゼルヴォス美術館(Musée Zervos)になっています。ヴェズレーの丘を登り始めてすぐ、右手にあります。

http://www.vezelaytourisme.com/art221-les-musees 

ミュージアムは、ヴェズレーに居を構えていた美術批評家のChristian Zervos(クリスチャン・ゼルヴォス)がヴェズレー村に遺贈したコレクションを展示しています。

ゼルヴォスが住んでいた家からの眺めの写真を入れた日記:
永遠の丘ヴェズレーを色々な角度から眺める 2013/06/23

ヴェズレー村には昔をほうふつさせる古い家が軒を連ねているのに、ロマン・ロランの家は変に現代風な家構えに修復して、味気ない姿になっています。ここは銀行かと思ってしまう鉄格子のようなドアがついた入口で、全く魅力的に見えない!

いちおう写真は撮っていますが、わざわざ挿入する気にもならないので、Wikipediaに入っている写真をご覧ください。 現代美術のコレクションを入れたミュージアムには価値の高い現代美術の作品が入っているそうなので、泥棒が入れない玄関にしたのでしょうね。

現代美術には興味がない私なので、一度も入ったことがありませんでした。でも、今回の滞在では行ってみることにしていました。ヴェズレーにあるものは何でも見てしまおうと決めていたからです。

とりあえず、丘の上に並ぶ集落の外側の道を散歩したら、目抜き通りとは反対側からロマン・ロランが住んでいた家が見えました。



表通りから見ていたら小さな家の構えだったのですが、奥に広がっていて、かなりの広さがある家なののだと分かりました。この位置だと、緑が広がる大地の眺めも良いはず。

美術館となっているロマン・ロランの家に入場すると、内部では撮影禁止でした。それで、大目に見てくれると言われたテラスに出たときの写真だけ撮影。



テラスの柵から覗き込むと、丘の上にある大聖堂が少し見えました。

このテラスの下にも庭があって、そこに面した道路の向こうにある土地も、ロマン・ロランの死後にはこの家と一緒にパリ大学に寄贈されていました。彼が住んでいた時代には、かなり広い地所の邸宅だったようです。

もしも私がこの邸宅を買えるような身分だったら、このテラスを少し張り出させてサント・マドレーヌ大聖堂を見ながら食事ができるように改造したけれど、ロマン・ロランがしなかったところを見ると、彼は大聖堂を毎日眺めたら幸せを感じるという人ではなかったのだろうと想像しました。調べてみると、彼は宗教には普遍的な考えを持っていたらしい。

ミュージアムは、かなりお金をかけて作ったと見えました。ここまで現代風に修復されてしまうと、ロマン・ロランが静かに暮らした雰囲気を味わえないので、私には残念なので、不平タラタラになってしまうのですけれど...。

ロマン・ロランが住んでいた時期を保存していたのは、書斎と寝室だけしかありませんでした。

でも、窓からの眺めがすばらしく、部屋には見事な暖炉やピアノがあるので、少しは当時をしのばせてくれました。でも、ロマン・ロランだけに惹かれて行った私には物足りない。地下のセラーは広くて素晴らしいので、彼が住んでいたときのままにしておいてくれたら、魅力的な家だったのだろうと想像してみるだけ...。


生家があるクラムシー町

ロマン・ロランが生まれたクラムシー(Clamecy)には、Musée d'art et d'histoire Romain Rollandという、ロマン・ロランの名前を付けたミュージアムがあります。

同じブルゴーニュ地方とはいえ、ヴェズレー村はヨーヌ県(Yonne)であるのに対して、クラムシー市はニエーヴル県(Nièvre)にあります。でも、車で30分くらいで行けてしまう近さなので、今回のヴェズレー滞在中にも2回行っていました。

クラムシーの博物館は、ロマン・ロランの名前は掲げているものの、「芸術と歴史ミュージアム」と名がつけられている通り、こちらもロマン・ロランのためだけの博物館ではありません。

でも、地元ニエーヴルの陶芸や、昔は地元を繁栄させた木材をパリに運ぶ地場産業、故大統領ミッテランのコレクションなども展示しているそうなので、行ってみました。地域の博物館を見学していたら、入場割引券もくれた、というのも理由。
 
クラムシーに行ったときの過去の日記:
フランスの筏(いかだ)師 2008/01/21

ロマン・ロランの生家と彼の祖父の家も使っているミュージアムだと説明があったのことですが、雨が降っていたので外観は眺めずにミュージアムに入りました。近代的な大きな建物で、どこがロマン・ロランの生家だったのか全く分からず。というか、最近になってミュージアムの展示室をリニューアルしたときに、生家の部分は使わないようになったのではないかとも思いました。

ロマン・ロラン関係の展示は、現代的なスペースに、関係するものを少し並べただけという、かなり味気ないものでした。



ロマン・ロランの書斎の再現スペースです。壁には彼が平和主義者であったことを示すためらしく、ガンジーと会っている場面の写真が飾られていました。
 
機能的で、シンプルな書斎...。こういう感じで並べてくれたって、文学作品のインスピレーションが湧くというのは全く体感できません!

日本で出版された書物も展示されていました。読んだことがあるような気もしました...。




墓地のあるブレーヴ村

クラムシーの町から10キロくらいなので、ロマン・ロランの墓地があるブレーヴ村(Brèves)にも足をのばしてみました。ここもニエーヴル県。家族の出身地で、 彼自身も住んだことがある村なのだそうです。

墓地の入口にはロマン・ロランの墓があることを示すプレートがあったのですが、中に入ってみると何処だか分らない。しばし、墓石に書かれている名前を読みながら探しまわりました。

教会の壁のところに、墓石を発見!

 

薄いピンクのバラが墓石を飾っています。ロマン・ ロランは、自分が死んだら、その墓の傍らには日の照る一本のオリーヴの木がほしい、と書いたそうですが、ブルゴーニュではオリーブの木なんかは育ちません...。

仰々しい墓石ではないのが気に入りました。でも、石が汚れていて、文字がかろうじて読める程度...。

 

墓石にシミがついていたのは、今年は雨が多いので石が痛めつけられたのかもしれません。ピカピカの大理石風の墓石は大嫌いなのですが、最近のフランスでは非常に人気があるらしいのは、ツルツルだと風雨に強いからなのだろうな... などと思ったり...。


ロマン・ロランを偲ぶ博物館が欲しかった...

墓がある村の名前に間違いがなかったかをインターネットで検索したら、ロマン・ロランの墓が損傷しているという記事が出てきました。墓石に刻まれている文字が、何者かによって、きっかき傷をつけられているとのこと。ロマン・ロランは反ファシズムの作家だったので、憎む人がいるのでしょうか?...
 
出てきたのは1年前のニュースでした。その記事に入っている写真に見える墓石は灰色で、私が見たものはベージュ色になっているので、その後に損傷を直したのだろうと思います。

それにしても、これだけ世界的に有名で、偉大な作家なのに、故郷でさえロマン・ロランだけのための博物館ができていないのは気の毒になりました。

ジュール・ロワが使っていた当時の姿を残した書斎彼に比べたら、ずっと知名度が低い作家ジュール・ロワ(Jules Roy: 1907~2000年)が残したヴェズレーの家のような博物館があったら良かったのに...。

過去の日記:
ヴェズレーにあるジュール・ロワの家 2013/04/30

ジュール・ロワの方は、自分の書斎をそのままの姿で残し、家は文学者たちの出会いの場とするようにと遺言を残していました。

今回の滞在では、夜にジュール・ロワの家に明かりが灯っているのが見えたのですが、博物館で聞いてみたら、文学者が泊まっていたからだとのこと。そんな風にも利用されているのでした。

ロマン・ロランも、ヴェズレーで済んでいた家をパリ大学に寄贈しているのですが、ジュール・ロワのように文学発展の貢献をする施設にはしなかった。2人の亡くなった時期は半世紀もの差があるので、時代の違いもあるのかな?...

ロマン・ロランは、フランスではどの程度評価されているのだろうか? ロマン・ロランはコスモポリタン。フランスでは、ヴィクトール・ユーゴーなどのような英雄的作家としては認められていないのではないかな?...

祖国で評価されるか、外国での方が評価されるかといのには差があると思うのです、ヴィクトール・ユーゴーなどは、日本では『レ・ミゼラブル』の著者として知られていて、それはベートーベンの代表作は『エリーゼのために』だと言ってのけるくらいに大きな認識の違いだと思う。

ロマン・ロランは日本の方がファンが多いのかも知れない、という気もします。フランスの友人に『ジャン・クリストフ』を読んだと言ったら、あんな長編小説を読んだの? という顔で驚かれたのです。日本人なら誰でも読む小説で、驚くには全く値しないと思うのですけど!

日本アマゾンでロマン・ロランの作品を検索 (人気度順)


今回の旅行で辿った地点:

大きな地図で見る

ブログ内リンク:
ロマン・ロランの生まれた町にある建物 2008/01/17
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
★ シリーズ日記目次: 不思議なクラムシーの町 2008/01/16
日本人が来てくれるから賑わうフランスの観光地もある 2006/03/23

外部リンク:
ロマン・ロラン研究所
Association Romain Rolland
Musée Zervos
Musée d’Art et d’Histoire Romain Rolland à Clamecy
Romain Rolland & Claude Tillier à Clamecy
☆ 1945年の映像: Deux hommes sont morts : Romain Rolland et le Colonel Fabien
☆ 島野盛郎/人類愛と芸術に生きたロマン・ロラン: (I)  (Ⅱ)
カバレフスキー:歌劇「コラ=ブルニョン」作品90
ロマン・ロラン『どこから見ても美しい顔』


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2013/06/01
そう頻繁に行くこともなかったビュッシー・ラブュタン城。1ヵ月前に行ったばかりなのに、朗読会のイベントがあったので、また行ってきました。


Bussy Rabutin.juillet 2010 par vision2000production


ビュッシー・ラビュタン城を有名にした伯爵

ビュッシー・ラブュタン城Château de Bussy-Rabutin)は、ブルゴーニュ地方のコート・ド―ル県ビュッシー・ル・グラン村(Bussy-le-Grand)にあります。

フランスでもそれほど有名ではない観光地でしょうし、ましてや日本人観光客は少ないのではないでしょうか? 城について説明するのを横着しようと思って、詳しく紹介している日本語サイトを探したのですが、見つかりませんでした。

城が建築されたのは12世紀ですが、14世紀に建てなおされ、その後も改築されて今日に至っています。

美しい城なのですが、ビュッシー・ラブュタン城見学のハイライトは、城の中に残る17世紀の絵画です。



Roger de Bussy-Rabutin
ルイ14世時代、宮廷から排斥されて住んだ城主Roger de Bussy-Rabutin(ロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタン: 1618~1693年) 伯爵が描かせた絵画です。

ロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタンは軍人として活躍した貴族なのですが、libertin(リベルタン) と呼ばれる思想の持ち主。

女性たちとの恋愛体験は豊富。彼の肖像画を見ると、女性にもてるタイプなのかな?... と思ってしまうのですが...。

彼は、アカデミー・フランセーズのメンバーにもなっています(1665年)。

ルイ14世からブルゴーニュの外には出てはいけないというお咎めを受けた理由は、次の2つが原因だと言われています。

1659年の聖週間(キリストの受難から復活するまでの厳粛な期間)、秘儀の酒神祭(orgi)に参加したこと。

彼が書いた小説『Histoire amoureuse des Gaules』のコピーが出回り(改ざんされたとの説もある)、それが国王を誹謗するものだと批判されたこと。彼の弁明は聞いてもらえなかった。

バスティーユに入獄されてしまいますが、翌年には病気のために故郷に引退すれば良いということになります。かくしてビュッシー伯爵は、この城で晩年の17年間を過ごすことになりました。

伯爵は執筆活動をしながら、城の内部に、皮肉を込めた言葉を入れた絵、女性たち、一緒に戦った戦争仲間、歴史に残る人々の肖像画などを描かせました。 


日本語でビュッシー・ラブュタン城についての紹介が見つからなかったのと同様に、ロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタンについての記載もインターネットでは見つかりませんでした。ひょっとすると、日本語には翻訳されていないのかもしれない。

日本のアマゾンでRoger de Rabutinの著書を検索

もっとも、フランスでも長いこと忘れられていた作家だそうです。書簡文学で有名なセヴィニエ夫人(Marie de Rabutin-Chantal / Marquise de Sévigné)と非常に親しい関係があった従妹関係にあることから、当然ながらロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタンとの往復書簡も残っており、そこから浮上して研究されるようになったそうです。


Devises et emblèmes

残されている絵画は17世紀の作品。城の絵などは、今日では姿が残っていないものをあるので、歴史的資料としても重視されています。

ただし、宮廷を追われた貴族なので、立派な画家を雇って描かせる予算はなかったのでしょう。地元の無名な画家を使ったようです。

何も意味が分からなかったら、全く価値を認められない絵画ばかりです。

例えば下の絵。何か変なのに気がつかれますか?



日時計が立っているのですが、太陽に背を向けています。なのに、影は後ろ側にできています。あり得ない場面ですよね?

書かれている文字は「Si me mira me miran」。スペイン語でしょうか? フランス語に訳すと「S'il me regarde, on me regarde」となるそうです。

日時計の後ろに輝く太陽は、太陽王と呼ばれたルイ14世を象徴。太陽に目をかけてもらえない伯爵は、宮廷人たちからも 背を向けられてしまっている、ということのようです。


かなり下手、と言いたくなる作品も数々あります。

下はカタツムリがいる絵。


…In me me involgo  (Je me renferme en moi-même)

変に首をのばしているのには意味があるのかな?...
カタツムリは伯爵。宮廷を追われた彼は、自分の殻の中に入る。


裏切られたMme de Montglas(モングラ夫人)に対する風刺画も非常に辛辣で面白いです。風刺画が並んでいる部屋に夫人を皮肉った絵が飾ってあるのですが、それは19世紀にリフォームされたときに移されただけのことなのだそう。ラビュタン伯爵の時代には、プライベートルームの壁に飾ってあったとのこと。

大恋愛だったのに、バスティーユに入れられたときに捨てた女性ということで恨みは深いのでしょうが、ラビュタン伯爵はかなり執念深い人だったのだろうな、と思ってしまう...。

宮廷から排斥された屈辱は理解できますが、威圧されるほど大きくはなくて、むしろ自然に恵まれた環境のアットホームな城で、明日の食べ物の心配もしないで引退生活ができた。知的な感性を満たすためには、従姉のセヴィニエ夫人がいた(本気で愛し続けたのは彼女だと言われます)。私から見れば羨ましい人生なのですけど...。


日本ではほとんど作品が読まれないロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタンですが、名言としては伝わっているようです。

有名なのは、『Histoire amoureuse des Gaules』の中にある次の言葉:
L'absence est à l'amour, ce qu'est au feu le vent ; il éteint le petit, il allume le grand.

恋愛にとっての不在は、火にとっての風。小さいものは消し去り、大きなものは燃え上がらせる。 


朗読会

風刺画は、何度見てもあきません。

この日のイベントは、ロジェ・ド・ビュッシー=ラビュタンの作品をMarcel Bozonnet という俳優さんが朗読するのを聞きながら城を見学する、という趣向でした。



フランス人がみな、俳優さんのようにきれいにフランス語を話してくれたら嬉しいのにな...。

ガイドさんから書いてある言葉の意味だけではなくて、彼が書き残した書簡などに書かれてあることも聞くと、ラビュタン伯爵に対する親しみがさらにわいてきました。

ブログ内リンク:
ロウソクで城を照らし出すイベント 2011/09/03
★ 目次: 城について書いた記事ピックアップ
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
★ 目次: 画家、彫刻家、建築家の足跡を追って

外部リンク (ビュッシー・ラビュタン城について):
☆ Centre des monuments nationaux: Château de Bussy-Rabutin

Château de Bussy-Rabutin
 ⇒ Un décor d’une beauté singulière
 ⇒ Les collections de Bussy:
Oeuvres et citations de Roger de RABUTIN, Comte de Bussy, dit BUSSY-RABUTIN
Bussy-le-Grand : lectures de Bussy-Rabutin


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カテゴリー: 文学、映画 | Comment (2) | Top
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2013/05/26
雨ばかり降るので、天気予報が気になってきた」で、フランスのおふざけ天気予報の動画を入れながら、そこに映っているフランス語圏ベルギーの作家Amelie Nothombの存在を思い出しました。

彼女が東京の新宿にある大手企業で1年間働いた体験をもとにして書いた小説『Stupeur et tremblements(畏れ慄いて)』の映画化されたものを、テレビで見たことがあるのですが、その後は全く無視していたのです。

日本との関係が深い人気作家の作品だから、と勧められて映画を見たのですが、日本の会社にある体質を茶化している、と不快感を持ったくらいしか覚えていません。

フランスにいると、時々会うのです。日本にほんの少し滞在しただけで、「日本は、こうなんだ」と日本人の私がいる前で演説する人たち。

友人たちから後で、「なんで、あんな高飛車な人にしゃべらせていたのか」と責められるのですが、あんなに確信を持って言われるとバカバカしくて反論する気にもならない...。

フランスのことを読みかじったとか、団体旅行で回ったとかの経験がある日本人からも「フランスは、こうなんだ」と言われるのも聞き流している私だし...。


Amelie Nothomb 14 mars 2009そもそも黒い服と大きな帽子という彼女のいでたちと、楽しくない顔を見ると、私は好きになれない。

それでも、久しぶりに彼女の姿を見たら、彼女と日本の関係がどういうものなのかを知りたくなりました。

本を買って読む気にはならないので、インターネットに動画として入っているたくさんの彼女のインタビューの中から、日本について語っているものを見ました。

それから、映画『畏れ慄いて』の動画をつなぎ合わせて鑑賞。さらに、また彼女が語っていることを聞く... を繰り返しをしました。

日本社会の歪みを面白おかしく描いているだけと思っていた『畏れ慄いて』が、全く別のものに見えてきました。

もっと奥深いものがある。根無し草のような育ち方をさせられた彼女の苦しみ、そこから生まれた自分の母国は日本にあると信じたい思い、その葛藤が形成した彼女の個性...。

共感さえ覚えてきました。


Amelie Nothomb

 
本名は Fabienne Nothomb 。

1967年8月13日、神戸に生まれる。
※Wikipediaの記載とは異なるのですが、こちらの方が正しいように思う。

ペンネームにしたAmelie Nothombは、彼女の作品が日本語に翻訳されたときの表記で、アメリー・ノートンとされるのが日本では一般化されていました。

フランス語の発音規則によればアメリー・ノトンになります。

でも、語尾の子音を発音するか否かは、地名や人名には例外もある。本人が自分の名前を言うときはアメリー・ノトンブと言っており、それを尊重しているためか、フランス人でもそう発音する人たちがいました。

彼女が日本語でサインするときには、「雨里」と書いていました。

17歳のときから小説を書始め、20代半ばで『Hygiene de l'assassin(殺人者の健康法)』で文壇にデビュー(1992年)。

小説を年に平均3.7本書くのが彼女のリズムで、そのうち1冊を公開する計算になる、と本人が語っていました。

フランスでも大変な人気作家で、文学賞も数々受けています。ただし、作品を絶賛する人と、変わった主張をするのは売名行為だと批判する人とに大きく分かれている作家のようです。

日本での評判は、日本企業で働いた経験を描いた『Stupeur et tremblements(畏れ慄いて)』が日本を貶すものだ、として批判する人が多いようでした。

この小説を映画にした作品の方は、日本では映画祭などでは上映されたものの、一般公開もされていないし、日本語版のDVDも作られていません。

とはいえ、インターネット上ではかなり話題になっていました。

好きか嫌いかは別にして、個性が強いために騒がれる作家のようです。

若くして『悲しみよこんにちは』でデビューしたフランソワーズ・サガン、奇抜さが話題を呼ぶ点からはサルバドール・ダリを私は連想しました。

でも、彼女の発言を聞いていると、ゴーストライターを10人も雇って小説を書いているような人気作家とは全く違う。彼女は、根無し草の苦しみをを乗り越えるために小説を書いている、としか思えない...。


アメリー・ノートンと日本との関係

ベルギー人の外交官の娘として神戸に生まれ、5歳まで日本で育ちました。

西尾さんという名の日本人の乳母に育てられています。

幼いアメリーは、西尾さんとおしゃべりできるようになっていたのに、両親の方はまだ娘は話しができないと思っていたのだそう。この日記の最後に入れる動画に、別れた後に初めてアメリーが再会した西尾さんが映っているのですが、美しくて穏やかな人柄を思わせる女性でした。

幼いアメリーは、自分の世話をしてくれる西尾さんを母親として慕って暮らしたのでしょう。アメリーが「ずっと自分は日本人だったと思っていた」と言うのも納得できます。

幼稚園時代、体の全部が白いのかを確かめるために公園で裸にされて身体検査されたこともあったそうですが、日本では幸せな子ども時代を過ごした、とアメリーは懐かしんでいます。

外交官だった父親の経歴を見ると、彼女が幼少期を過ごしたときには大阪の領事。

アメリー・ノートンは、こんなエピソードを語っていました。

能を鑑賞した感想を聞かれた父親は、能のことなど分からないのでトンチンカンは返事をする。通訳がそれでは返事にならないと言って、適当な答えを相手に伝えてくれた。すると、人間国宝の能役者は、言葉も分らないベルギー人が能の神髄をくみ取ったのは素晴らしいと感激して、弟子にしてくれてしまったのだそう。

彼女の表現によると、「美の国」日本から、「醜の国」中国に移り住みます。中国の文化大革命(1966~1977年)の時期ですね。日本でのびやかに過ごした子ども時代から、監視付きの窮屈な生活になったわけですから、カルチャーショックは大きかったはず。

その後も、父親の転勤によって、ニューヨーク、ラオス、バングラデシュ、ビルマを転々とします。

アメリーは、バングラデシュでの思い出を語っていました。

キリストが海の上を歩いたという話しが頭に焼き付いていたのは、海を見ると足を踏み入れたくなったのだそう。ある日、海で泳いでいたら、いつの間にか男性たちが近づいてきたらしい。12歳のときだったのですが、イスラム教徒の男性たちには水着でいる女性だった...。

男たちの姿は見えず、体に触ったり、水着を剥がそうとする無数の手の触覚があるだけ。これが、後に「自分の体内に宿る敵」という恐怖を形成した、と語っています。彼女がキリストの真似をして海に入るのは、このときが最後でした。

文化が違う国を転々とすることによって、どんな精神的ダメージを子どもが受けるかを考えてくれない親が多い...。幼少期に身に着けた日本の文化に憧れながらも、両親から植えつけられたキリスト教が染みついているアメリーが、エキセントリックになったのは理解できてきます。

アメリーが祖国ベルギーに住むようになったのは17歳の時(1984年)。初めて会った祖母(母方)から、こう言われたそうでうです。
「あなたは頭が良いといいわね。こんなに醜いんだから」

これは大変なショックだったけれど、小説家になってから様々な批判を受けても立ち向かえることに役立った、と語っています。祖母から言われたことに比べれば、なんでもないから。

大きな黒い帽子をトレードマークにして人前に現れるのは、怖れから逃れるため、とエミリーは語っています。美しい顔でもないのに作品の表紙に自分の写真を入れたり、やたらに赤い口紅をつけて美人でなくしているのも、貶されたことを逆手にとる抵抗と見えてきます。

祖国であるはずのベルギーで、エメリーはベルギー人とは違うことを痛感させられます。幼少期を過ごした日本へのノスタルジーと憧れは膨らんでいったはず。

ブリュッセルの大学を卒業してから、長年の夢だった日本へ行くことになります。日本の大手企業に、1年契約の通訳として採用されたのです。

東京で働いた体験をもとにして『Stupeur et tremblements(畏れ慄いて)』を発表し(1999年)、権威あるアカデミー・フランセーズ文学大賞を獲得。この作品で彼女の作家としての地位は確立され、2003年に映画化されました。

 
翌2000年には、日本で過ごした幼少期のことを書いた『Metaphysique des tubes(チューブな形而上学)』を上梓。

内容紹介、書評:
「わたし、呑み込んではまた空になるチューブなの」。 ヨーロッパの人気No1の女性作家による、日本での0~3歳の自伝小説。日本で生まれ育った記憶を、抱腹絶倒、奇想天外に描いた傑作小説! 欧米で大ベストセラー!

「わたしは、パパが駐日ベルギー大使だったので、日本の神戸で生まれた。そして、自分は日本人だと固く信じていた……」。 現在、ヨーロッパで人気ナンバー1の作家アメリー・ノートンの原点は、日本にあった。自分を日本人だと信じていた彼女の幼い青い目に映った、日本の言葉、水、季節、時間、家政婦さん、庭での幸せな時間、池の鯉……。それは、どれも魅力的であり、面白おかしく、奇妙奇天烈なものばかりだった。そして……

アメリーは日本生まれ育ったが、3歳にして、その人生はすでに小説だった!(L'Express)

赤ん坊の脳内に焼き付けられた日本の記憶を、面白おかしく、しかも詩的に表現した、驚くべき小説。(New York Times)


私は、幼児期の記憶など、断片的なものしか残っていません。幼稚園でバカバカしい遊び(つまりは子どもじみた遊び)をさせられて不愉快だったとか...。でも、アメリーは驚くほどの記憶力がある人なのだそうです。パリの書籍展では、一度会っただけのファンのことを名前などもしっかり覚えているので、関係者を驚かせたことが話題になっていました。


Stupeur et tremblements(畏れ慄いて)

 
Stupeur et tremblements
私が興味を持ったのは、日本企業で働いた体験を描いたくアメリーの作品です。

「Stupeur et tremblements」とは奇妙な題名...。

tremblement de terre(地震)は日本のイメージですから、それから取ったのかと思ってしまうではないですか?

日本語では「畏れ慄いて(おそれおののいて)」と訳されています。

天皇に謁見を許された者は「畏れ慄いて」地にひれ伏すことになっていることから付けられた題名だ、という説明を聞くと納得。

主人公アメリーは、日本の会社で上司たちにひれ伏す生活を送ることになったのでした。




アメリーは通訳として日本の商社に入ったのですが、母国語であるフランス語の他に、英語や日本語もできる能力を活かす仕事は与えられず、上司たちから叱られているばかりの無能なOLとなりました。

まともな仕事は与えてくれない。お茶くみ、コピーとりなどをやらされる。

これは、日本の会社を経験した私からみると、ごく自然。アメリーがやったように、お茶を配る人たちの好みを覚えるというのは、私もやったものでした。私が学生時代にアルバイトで入った会社では、あからさまに「仕事なんかしなくて良いから、みんなとおしゃべりしたりしなさい」と言われました。若い私が入ってきたことで、みんなは楽しくなることを期待していたのだそう。当時の私は内気で、男性たちを相手に芸者役なんかできないのに...。

会社で役にたちたいと燃えているアメリーは、カレンダーの日めくり、郵便配りなど、頼まれもしないことを始めますが、それで怒鳴られる。一生懸命努力しても、仕事のできが悪いと拒否される。

ベルギーはどうか知りませんが、フランスでは高度な教育を受けたエリートが会社に就職すると、いきなり管理職になります。実際のアメリーは大学でアグレジェ(教授資格者)をとっているのですから、プライドが傷つきそうなのに、めげる様子はなく、つまらない仕事もこなしていました。

アメリーの直接の上司は、能面のような顔をしたモリ・フブキという名の女性。初めて会ったときから彼女はその美しさに見惚れています。男性の上司たち怒鳴られる毎日の中、吹雪だけは自分の味方だと思っていました。 ところが、アメリーが能力を発揮できる仕事をしてしまったために、彼女からも苛めを受けるようになりました。

電卓なんか使えないのに経理をやらされ、アメリーの無能ぶりは頂点へ押し上げられました。そして、知恵遅れの彼女に適した仕事だといって、トイレ掃除係りにされてしまいます。実際のアメリーは、働いた最後の7か月間をトイレ掃除人として過ごしたそうです。

日本の会社の体質を誇張してしまっているけれど、そういう話しはあり得るだろうな... とは思う。この映画をは初めて見たとき不愉快になったのは、ありえるな... と思いながら、日本の企業の体質を思い出したからでもあります。

作者アメリーは、このストーリーは名前などを変えているだけで、すべて実話だと言っています。でも、実際の彼女の体験をもとにして再構成している、としか思えない。奇妙に感じる点が多いのです。

映画を見ただけで、小説の方は読んでいないので、この作品について感想を書くのは間違っていますが、気になったことを書きだしてみます。


アメリーは、なぜ日本の会社で虐めにあったのか?

主人公アメリーは、出勤した初日から、上司のサイトウ氏(課長?)から嫌がらせを受けます。

ゴルフのコンペに参加するという返事を英語で書くように指示されたのですが、何度書き直してもOKはもらえません。そもそも、どんな関係の相手なのかによって手紙の書き方は異なるのですが、相手が誰であるかは教えてくれないのです。

ダメと拒否された彼女は、何度も手紙を書きなおして持っていきます。
私だったら、親しい関係にある人なら、この文章、大事なお得意さんなら、この文章、という風に一覧にして、その中から選んでください、というのを作りますけど...。

結局のところ、サイトウ氏は何を書いたって拒否しようと腹をくくっていたらしい。後には、アメリーは分厚い書類(私的な書類)のコピーをさせられるのですが、印刷が曲がっていると言われて何度もやりなおしさせられています。

つまりは、アメリーは始めから虐めの対象になっている。ストーリーの途中から、日本人には嫌われることをやってしまったために叱られ始められるのではありますが、出社した日からいびられるのは奇妙です。

作者が日本に来た時期を調べると、彼女の父親はベルギー大使を務めていたはず (1988~1997年) 。この小説『畏れ慄いて(1999年)』は日本の会社を批判しているので、父親の立場が悪くならないように任期が済んでから発表したそうです。

そういうコネでアメリーを押しつけられたことを、商社の人たちは不快だったから虐めたのだろうか?

でも、そういうお嬢さんだったら、気に入らなくても、うわべだけは丁重に扱うのが自然だと思うのです。ぞんざいに扱われたと告げ口されたら、自分の立場が危うくなりますから。日本の大手企業に勤める友人は、天皇の親族が会社に就職してくる風習があって、そういう人を部下に持たされると扱いにくくて困るのだ、と話していました。そうだろうと思う。

まして、アメリーが勤めたのは商社。ベルギーとの取引もあるでしょうから、大使のお嬢さんにトイレ掃除なんかさせたら大事件ではないですか? 奇妙...。


(1) 外国人らしからぬ外人だったから嫌われた?

実際のアメリーも、この小説を書いているからにはイジメにあったのだと思います。まず決定的に大きな問題があった、と私は思いました。不自然だと思うのは、初日から嫌がらせを受けているという点だけ。

映画の冒頭で、日本に来ることができたアメリーの喜びが語られます。「私は本当の日本人になる!」とはりきっています。これが日本で彼女が受け入れられなかった最大の原因ではないでしょうか? 

日本人は、外国人、特に白人には非常に親切です。でも、外国人らしくしているときは好かれるけれど、日本人になろうとすると認めてくれない、と、日本に住む外国人からよく聞かされます。

日本語を流暢に話して、私は日本人なんだなどと思っている態度をする白人がいたら、拒絶反応を示される確率の方が高いのではないでしょうか?

若い方がご存じかどうか知りませんが、フランス人のタレント、フランソワーズ・モレシャンはガイジンらしさを出す知恵がある人だったと思います。強い外国人訛りで日本語を流暢に話すのですが、あれはフランス人が日本語を話すときの訛りとは全く違うのです。

一度だけ、彼女が日本について書いた本を出版したとき、フランスのお堅い番組に出演してインタビューを受けているのをテレビで見たことがありました。日本語をしゃべるときと同じ抑揚でフランス語を話すので、とても奇妙。だから、あれは訛りというものではなくて、彼女が自分のために築いたキャラクターの表現なのだと思う。

日本はこうすべきなのだという例を挙げたとき、「あなた、ちょっとネクタイが曲がっておりますわよ~」などと言って、相手に触ったりしていました。そうしてもらえたら、日本人男性は鼻の下をのばすでしょうけど、フランスでそれを見ると、ぞっとしてしまいました。フランス人だって驚いたと思う。彼女は、フランス人であることの特権を最大限に活かせる人だと思いました。

作家アメリー・ノートンは、いくら日本人になりたいと思っても、自分のアイデンティティーを捨てることはできなかった...。

商社で働くアメリーは、数々の虐待を受けながら耐え、自分にできることがないかと見つけ出したりして、明るく振舞おうとします。仕事をくれないので、皆の日めくりカレンダーを直したり、郵便を配ったりすると、余計なことはするな、と叱られる。

会議室でお茶を出すときに「どうぞ」などと余計なことを言うので顰蹙をかう。日本語を話すな、と言われています。ここで彼女は、日本人にはなろうとしたら嫌われるということを悟ったのだろうか?...


(2) 実際のアメリーは可愛い女の子ではなかったから?

映画に出演しているアメリーは愛らしい女の子なのですが、現実のアメリーの方は、頭が良くて、個性もひと一倍強いし、美人ではない。オフィスにいて、皆から可愛がられるタイプではないと思うのです。

映画のアメリーによく似た感じのフランス人の友達が日本に長期滞在していたことがありました。片言の日本語を話し、美人ではないのですが、小柄で、ひょうきんなところがあるのが可愛くて、誰からも好かれていました。フランスだったら絶対にしないヒッチハイクまでして、東京から北海道まで行ってしまいました。車が止まって行先を告げると、Uターンしてまで連れていってくれたことが何度もあったのだそう。

しかし、ストーリーの中にはお茶くみやコピー焼きをやらされているアメリーに同情して、彼女の能力を与える男性が登場しています。それがアメリーの直接の上司であるモリ・フブキ女史の怒りをかうことになってしまったのですけれど。

映画のアメリーを見ていて不思議だったのは、会社の中だけの話しなこと。日本のフランス語圏の人たちのコミュニティーに入ることを拒否していた可能性はある。でも、父親の関係で、面倒をみてくれる日本人がいたと思うのですけど、そんなのは全く出てこない。

実際のアメリーは、この期間にルックスの良い日本人の青年と同棲していたのですけれど、小説の方では出てくるのでしょうか? あるいは、私は映画を途切れ途切れに見たので登場しないだけだったのか?

いずれにしても『畏れ慄いて』では、日本企業の話しをテーマにしているので、脱線はしなかったと思います。

ストーリーを追っていると、日本のことを全く知らないフランス人でも、日本の社会はこんな風になっていると分かるように描かれています。不自然だと思ったのは、登場する日本人が意思表示を言葉で出していることでした。日本人が意地悪をするとしたら、もっと陰険にやると思う。

叱ってなんかくれないですよ。現実のアメリーは、日本にいるフランス語圏の人たちや、紹介されて面倒をみてくれた日本人たちから、自分がどんなヘマをしたのかを教えてもらって理解したのではないでしょうか? でも、そうすると小説が長くなってしまうし、面白くもない。 ノンフィクションではないのですから、それはどうでも良いことではあります。

たぶん、イジメは陰湿なだけに心を傷つけられるものだったのではないかと想像します。おそらく、彼女がしたことがなぜ会社で咎められたのかを説明してくれた親しい人もいたはず。

ただし、舞台が商社(あるいは大企業の輸出入部門?)なので、そこにいる日本人たちは外国語ができて、そういう影響を受けた、つまり生粋の日本人ではない人も多かったかな、という気はします。 特に、アメリーが美しさに憧れた、直接の上司の女性。こんなに外国人と言い合いができるような日本人は珍しいと思うけれど、日本の外資系企業ではよくいるタイプではあります!




ところで、実際のアメリーが同棲していた日本人男性からは、結婚を申し込まれています。「結婚はしたくなかった」というアメリー。日本人にはなりきれないと悟っていたのか? その男性は夫にしたくなかったのか? ずるずると答えを引き延ばせなくなったとき、ベルギーに蒸発するという手段をとりました。「また来るから」と言って立ち去っりながら、二度と会っていないようです。

本当の日本人になりたいなら、会社勤めなんかをするより、日本人男性と結婚した方が簡単だったと思うのですが、彼女は強い意志の女性なのでしょうね。


(3) 殉教者になる欲求?

アメリーが数々の嫌がらせに耐えているのを見て、働かなければ食べていけないわけでもないのに、なんでそんなに頑張ってしまったのか不思議でした。

日本人には我慢強いという美徳があるので、彼女もそうしたのかもしれない。でも、学校のいじめも同じだと思うけれど、いじめられて耐えていたら、ますます虐められるものだと思うのです。

虐待はエスカレートしていくのですが、アメリーはがんぱっている...。

まず、彼女がベルギー人であることを感じさせられました。素朴で、お人よしで、優しいと感じるフランス語圏ベルギー人。そういうベルギー人気質を、フランス人たちは「私たちの友達、ベルギー人」と言いながら(同じようにフランス語を話すから)、ちゃかすのです。

でも、それだけではないらしい。

作家アメリーの対談では、宗教の話しがよく出てきます。カトリックの教育を受けたので、その思想は根強く持っている。でも、キリスト教に浸透しているわけではなくて、神が一人であることに抵抗を感じている。日本では、神は一人ではなく、人間のひとり一人が神、という思想なのが好きなのだと言っていました。

キリスト教と、幼少期に植えつけられた日本文化への憧れが葛藤しているのを感じます。

耐えることによって殉教者になると同時に、禅の修行だとも感じる...。

日本に憧れていて、本当の日本人になりたかったアメリーには可愛そうな結末でした...。 でも、祖母から醜い女の子だと言われたのを逆手にとったように、彼女が一段と強い人格を持てる結果にもなったと考えられます。


アメリーは日本社会の特殊性の中から何をくみ取ったのか?

(1) 階級制度

これは冒頭から語られます。

― ハネダ氏はオーモチ氏の上司で、オーモチ氏はサイトー氏の上司で、サイトー氏はモリさんの上司で、モリさんは私の上司だった。そして私は誰の上司でもなかった。

でも、これは日本独特の企業体質ではないと思います。私の経験から、トップダウンで決定するフランスに比べれば、日本は平社員でも重要な役割を担えます。

日本の企業では、末端が頑張って仕事をしていて、トップはゴルフのことなんかを考えている。フランスの場合は、平社員は時間になったらさっさと退社してしまうので、ちゃんと仕事をしようと思うトップが残業をして仕事をこなしています。

アメリーが勤めることになった会社の上下関係を冒頭で語られることから、これが大きな主張かと見えるのですが、そうではないと思う。
 
実際、日本を去ったアメリーは、作家になることを目指し始めました。彼女は、日本社会に馴染めないと悟っただけではなくて、企業のようなところでは働けない人間なのだと自覚したのだと思う。


(2) 日本社会の構造は、「出る釘は打たれる」にある

虐めがエスカレートしていく節目になったのは、いつも彼女が出すぎたことをしたからでした。

何とか会社の役に立ちたいと、アメリーは指示されない仕事を自分で考えだしてやってしまいます。カレンダーの日めくり、ゴミ収集、お愛想を言いながら会議室でコーヒーを出すなど。さらに、苦手な経理の仕事を任されたときには、徹夜までしてしまう。

働きすぎるのは、日本の企業では調和を乱すのでするべきではない、と私の会社勤め経験で痛感しました。アメリーに共感を覚えるのですが、私も働くのが好き。でも、浮いてしまうのはいけないのですよね。フリーで働くようになったのは、それが理由でした。フリーで働く限りは、いくら頑張っても、時給に換算して考えたら微々たるものだというだけで、それは自分の問題として満足できるのですから。

日本でフランス語を勉強していたころ、フランス人の先生から出された宿題を絶賛されたことがありました。

何かのテーマについて書けというものだったので、たまたま思いついた「出る釘は打たれる」という日本の諺について書いたのです。先生が、つたない私のフランス語の文章に高い評価をくれたのが不思議だったのですが、「ずっと疑問だったことが理解できた」と感謝されたのでした。

小柄で、控えめで、優しさがあふれた若いフランス人女性。大和撫子でも、こんなに愛らしい人はいないと思うような女性。日本人と結婚していました。日本社会に溶け込もうとしても、何かうまくいかないところがあったのだろうと想像しました。

そんな日本でも、突拍子もなく飛び出た釘になったら、カナヅチに変身できる社会だと思うのだけれど...。


(3) 日本の会社で女性が良い仕事につけるのは難しい

これは、作者が最も強調したかった点ではないでしょうか?

アメリーは、おそらく彼女に同情した男性から、彼女の能力を発揮できる仕事を任されて、はりきって仕事をして成果をあげたことを喜びます。

私はまともに日本の企業で働いたことがないので、立派に仕事をしている女性の友人たちを尊敬しています。

日本の大手企業で重要なポストについていた女性の友達が、能力や努力よりも、能力を見せるチャンスが到来するというのが、女性が成功できる かどうかの最も大きなポイントなのだ、と言っていたのを思い出しました。彼女の場合は、ラッキーにもその機会があったのだそう。


でも、アメリーが実力を発揮した仕事は、彼女の面倒を見ていた女性の上司の反感をかってしまいました。

彼女は、大変な努力をして今の地位についた女性。その立場をアメリーが奪ってしまうと嫉妬したわけです。アメリーは彼女の気持ちを理解して、和解を試みますがうまくいかない。徹底的ないじめを受けることになりました。

でも、アメリーは、日本でなくても同じ体験をしたかもしれないと思います。日本の会社の体制は確かに変なところがたくさんありますが、フランス人の上司だって陰湿ないじめをやりますから。

私が勤めていた在日フランスのグループ企業では、トップの秘書をしていた女性がフランス人社長から追い出し作戦をかけられていました。

名門の家柄の家庭で育ち、若いときには大勢の人の中でも目立つほどだったろうなと思う美人。まだ大学に行く女性は少なかった時代の人なのですが、有名なお嬢様学校の英文科を卒業していました。でも、彼女を先代の社長から引き継いだフランス人は、煙ったくて嫌だったらしい。優秀な人なのに、郵便係りにさせられてたのですが、独身の彼女は生活がかかっているので退職しません。そんな無理をしていると病気になってしまうと思っていたら、本当に癌になってしまった...。


『畏れ慄いて』は、私も嫌なタイプの男性上司を茶化して描いています。でも、アメリーが最も心を痛めたのは、会社における女性の地位ではないでしょうか?  バカな男性の上司は馬鹿にしていれば良いだけ。でも、最も酷いいじめをしたモリ・フブキ女史に対しては、彼女の立場が分かるのでそういう気持ちにはなれません。

少し前に知り合った日本のビジネスで成功した人に、話しを聞いたときに聞いた言葉が印象に残っています。
― 私たち世代は、男性の100倍頑張って、ようやく一人前として認められました。

美しい40代の女性なのですが、性格の良さが顔に現れていて愛らしく、初めて会った時から誰でも好感をもってしまうような人。なので、苦労なんかしていないと思ったので、意外な答えでした。
 


根無し草の辛さ

アメリー・ノートンは、生まれてから5歳までを過ごした日本を離れてから、ずっと日本文化への憧れをはぐくんできたのだろうと想像します。

『畏れ慄いて』の映画を改めて見てた後は、日本人社会への恨みを書いたのではないと思いました。映画では漫画のような上司たちが登場していますから。

そんな日本での辛い思いをした後でも、彼女の心の中では自分の考え方の根底には日本があると思い続けています。 アメリー・ノートンが、日本ではなくてフランスに生まれていたら、フランスで生まれたという理由だけでフランス国籍を取得できたのに、お気の毒...。ベルギーもフランスと同様に2重国籍を持てるのかは知らないのですが。

外交官の父を持ったおかげで世界の各地に住めたことは幸せそうにみえるけれど、感受性の強い子どもだったら辛いでしょうね。言葉も文化も全く違う国に次々と放り込まれるのですから。

17歳で母国ベルギーに初めて足を踏み入れて住むことになったけれど、彼女はベルギー人らしくないと周りから見られてしまう。日本で「帰国子女」と呼ばれる子どもたちも、同じような苦しみを味わっているのでしょうね。


パリ症候群も、逆手に取れば克服できる

アメリーは幼い時に別れた日本に憧れていて、成人してから日本社会に溶け込もうとしたのですが、そうはいかなかった。

日本人が陥るパリ症候群を想起させますが、全く違う。

フランスに憧れてやって来た日本人は、ろくにフランス語ができなくてフランス人から受け入れてもらえないのでパリ症候群になる。でも、アメリーは言葉ができても、というより日本語を話せてしまったために、日本では受け入れてもらえなかった...。

それでも、彼女は挫折したようには見えません。痛めつけられれば、ダルマのように起き上がる人なのでしょう。ただ起き上がるだけではなくて、さらに強くなっていく...。

アメリーが久しぶりに日本を訪問したときの映像を入れたドキュメンタリーがテレビで放映されていました。2012年、東北大震災の1年後の春のことです。

神戸の幼稚園、働いた会社があった新宿、被災地、母として慕った乳母の西尾さんとの再会などを映し出しながら、アメリーは日本への熱い思いを語っています。

※ 入れていた動画が削除されていたので、それと同じと思われる動画を入れなおします。


Reportage Amélie Nothomb, une vie entre deux eaux Saison 6

乳母の西尾さんとの出会いの場面は40分くらい経過したところで出てきます。

ドキュメンタリーの最後で、アメリーは語っています。
「書いていることは全部でっちあげだ!」という痛烈な批判をたくさんもらうので、自分の頭の中でも記憶が現実なのか分からなくなってきていた。日本を再び訪れて、自分の昔が確かに存在したことを確認できて嬉しかった。

彼女は朝4時に起床して、4時間は執筆するのを日課にしているそうです。空腹に苦いお茶を注ぎ込む。この習慣は、日本で働いていたときにできたと言います。出勤するために午前8時に家を出るので、4時に起きる。ということは、こんな苛めにあった会社に通っていた時代にも、出勤前に小説を書いていた、ということ?!

毎日おびただしい数の読者から手紙が届くのを、彼女は全部読み、全てに返事を書くことにしているのだそうです。ファンの嬉しい手紙もあるでしょうが、痛烈な批判もあるでしょうに...。

つくづく、強い意志を持った女性だと感じました。

インターネットで拾ったことを書いてしまいましたが、彼女の作品を読んでみたいと思います。日本への彼女の思いよりも、彼女の考え方について知りたいからです。



Amélie Nothomb - La nostalgie heureuse



Testimonial of Ayahuasca Retreat at Temple - Amélie Nothomb

外部リンク:
☆ Wikipedia: アメリー・ノートン
『畏れ慄いて 』アメリー・ノートン著、藤田真利子訳
Amelie Nothomb : Stupeur et Tremblements (日本人のブログ)
畏れ慄いて:フランス製国辱映画?
故アラン・コルノー監督の手によるフランス製国辱映画!?『畏れ慄いて』
【映画】外国人が見た日本 「畏れ慄いて」日本語字幕 (ほぼ全編が動画で見える)
☆ YouTube: Stupeur et tremblements
☆ YouTube : Ame?lie le tube !
Amelie Nothomb et la culture japonaise, le 28 janvier 2010 a paris 3eme
Interview Amelie Nothomb (Ardisson - 25/03/2000)
Who is talking about Amelie Nothomb on YOUTUBE
Amélie Nothomb Stupeur et tremblement
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2013/04/30

シリーズ記事目次 【世界遺産ヴェズレーを中心とした旅行記】 目次へ


ブルゴーニュのヴェズレー村(Vézelay)に行ったら、前回の日記に書いた聖マリー・マドレーヌ聖堂に行くのは当然のこと。

でも、最近の私はヴェズレーに行ったときに必ず訪れる場所ができました。

世界遺産にも登録されているロマネスク様式の美しいマリー・マドレーヌ聖堂の正面から2歩のところにある民家です。2歩というのはフランス的表現! 100メートルくらい歩くかな?...


Maison de Jules Royメゾン・ド・ジュール・ロワ

特に美しさに見とれるほどの家ではないのですが、しっかりとした大きな家。素晴らしいのは広い庭園です。


Maison de Jules Roy - Clos du Couvent

ジュール・ロワJules Roy: 1907~2000年)という作家が住んでいた家です。彼の死が迫った時にヨーヌ県に寄贈され、2002年から一般に公開されています。

作家の家としてミュージアムになっているのですが、入場は無料♪ それで何度でも入れるわけです。

ヴェズレーは、ロマン・ロラン(Romain Rolland)が晩年を過ごしたことの方がよく知られています。

ロマン・ロランの家も美術館になっているのですが(Musée Zervos)、家が密集しているところにあります。しかも、現代美術の展示を見るのには興味がないので、1回入場したか、入ったことがないか、という程度(こちらは有料なので)。


ジュール・ロワというアルジェリア生まれの作家について、私は何も知りません。フランスでもそれほど知られていない作家なのですが、日本では何冊か翻訳がでていました

JosephLeRoy Chats MuséePiscineRoubaix初めて名前を聞いたときには、どこかで聞いたことがあると思いました。

猫の絵を多く描いたフランスの画家にJules Le Roy (1853~1922年)がいたので、それと勘違いしたのかもしれない。

ヴェズレーに住んだ作家はJules Royなので、ちょっと違うのですけれど。

でも、知り合いにいてもおかしくないような、ありそうな名前...。

彼は晩年の20年くらいを、この素晴らしい環境で生きたのでした。

生前に寄贈を決めて、文学のための活動を行うセンターとして使うように指示したのだそう。

彼が生活していた当時の姿を残すことも条件でした。なので、彼が書斎として使っていた部屋がそのまま残っています。飲みかけのボトルまである...。



この作家の作品を読んでいたら感慨を覚えてしまうところだろうと思います。作家や哲学者の家がミュージアムになっているところには何カ所も行っていますが、こんなに雰囲気を残しているところは珍しい。

亡くなったのがつい最近だからなのでしょうね。デカルト(René: 1596~1650年)の家などというのは酷かった...。昔の人と言っても、16世紀を生きたラブレー(François Rabelais)の生家は気に入ったのですが。



素晴らしい立地の家

ヴェズレー村が所有していたこの家を、1978年にジュール・ロワが入手しています。

どうしてこんな家を購入できる人がいるのかと思ってしまう...。

だって、すごい立地なのです!

広い庭があるのですが、あの美しい聖マリー・マドレーヌ聖堂もこんなに近くに見える。



庭の反対側からは、素晴らしく見晴らしの良い景色が見えます。丘の斜面なので、段差のある庭が続いています。



ジュール・ロワの奥様(ロシア人)は、夫の死後は家を明け渡して別のところに住んだのですが、昨年亡くなったのだそうです。私が妻だったら、最後まで住みたかったな...。

この家の様子が映されている1979年の映像がありました。ジュール・ロワが愛犬との関係について感動的な話しを語っているのですが、この家が今日見学するのと同じ姿だったことが分かります。
☆ INA: La passion tragique de Jules Roy

ブログ内リンク:
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
★ 目次: フランスの美しい村々について書いた記事

外部リンク:
☆ INA: Jules Roy (1989年、ジュール・ロワ82歳のときのインタビュー)
☆ 記録映像: Jules Roy à Vézelay (1968)
☆ Wikipédia: Jules Roy
☆ La Maison des écrivains et de la littérature: Maison Jules-Roy
Maison Jules-Roy à Vézelay


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2012/06/17

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その4


前回の日記(フランス映画『黄色い星の子供たち(La Rafle)』)に続いて、同じく1942年におきたヴェル・ディーヴの一斉検挙(この事件について書いた日記)を扱い、さらに同じく2010年に公開された映画について書きます。

映画「サラの鍵(Elle s'appelait Sarah)」

サラの鍵 [DVD]Elle s'appelait Sarah
日本公開: 1011年フランス公開: 2010年


タチアナ・ド・ロネが、2006年に出版した小説「サラの鍵Elle s'appelait Sarah)」を映画化したものです。

2009年末で発行数200万部というベストセラーでした。

英語版では、映画も小説も「Sarah's Key」。

この小説は英語で書いたのだそうです。タチアナ・ド・ロネはイギリス人の家系で、完璧なバイリンガルなのです。

その後に出たフランス語版は、翻訳者によって訳されたのだそう。

なぜ彼女がフランス語で書きなおさずに翻訳させたのか、またフランス語版の題名が「彼女の名はサラだった」となったのか、不思議です...。

邦題は英語の題名からとっているのですね。ユダヤ人の少女サラが持っていた鍵が重要な役割を果たしているので、こちらの題名の方が良いとも思えます。

映画『サラの鍵』公式サイト
☆  Movie Walker: サラの鍵
☆ Goo映画: サラの鍵
☆ 監督・キャスト(写真付き): Casting Elle s'appelait Sarah(AlloCin�・)




この映画は、飛行機の中という悪条件で見ました。ビデオ画面は小さいし、騒音で良く聞こえない。それでも感動を与えられた映画でした。

命を救ってあげようとする行為だったのに、仲良しの弟を殺してしまった少女サラ。その苦しみが痛いほど伝わってきました。

ユダヤ人迫害という問題を抜きにしてもありうる話しだし、サスペンスもあって、良くできたストーリーです。

ヴェル・ディヴの一斉検挙という事件とサラについて取材する主人公のアメリカ人ジャーナリストの女性が、自分の生き方まで変えていくというのも並行して進行します。でも、私はサラの悲劇の方ばかりを見てしまいました。

「サラの鍵」予告編:


2本立てで映画の抜粋を見せる動画:
1.
2.



監督はジル・パケ=ブレネール(Gilles Paquet-Brenner)

ジル・パケ=ブレネール(Gilles Paquet-Brenner)監督にはユダヤ系のルーツがあり、迫害で命を落とした親族も何人かいるそうです。ユダヤ系ドイツ人の音楽家だった祖父は、フランス人たちに密告されたために強制収容所で死んでいます。小説を読んで、これを映画化したいと強く願ったのだそう。

監督が最も難しいと思ったシーンの一つは、子どもたちが両親と切り離されて電車に乗せられる場面だったそうです。撮影開始の数日前、この場面を体験した生存者のAnnette Muller(1991年に出版されたLa petite fille du Vel'd'Hiv'の著者)に会っていたためのプレッシャーもありました。



監督は語っています。
映画を見た人々が、自分にも関係することだ、と受け取ってくれる映画になっていることを期待する。


原作者はタチアナ・ド・ロネ(Tatiana de Rosnay)

彼女は小説の主人公であるジャーナリストのジュリアのように、ヴェル・ディーヴの一斉検挙について知りたいとのめり込んだようです。

インスピレーションを受けたのは『La Mémoire des murs(2003年)』を書いていたとき。ヴェル・ディヴの跡地に行ってみて、大きなショックを受けたのだそうです。余りにも寂しげな道で、そばには内務省の別館があるのも強いショックを受けた。

それから、フランス人にはよく知られていないこの事件について調べ始め、そのときの自分の驚きと心情を主人公のジャーナリストであるジュリアに重ねて書いたそうです。サラは娘さんの姿から。

タチアナ・ド・ロネが「サラの鍵」を書きたいと思った動機などを語る:

Tatiana de Rosnay: "Elle s'appelait Sarah" et le Vel' d'Hiv'

ポケット版が出版されるときのタチアナ・ド・ロネ:


☆ タチアナ・ド・ロネが作家になった経緯を語る: Tatiana de Rosnay : comment j'ai été publiée ?(動画)

彼女についての情報を眺めていたら、びっくりするようなエピソードがありました。次の次の日記で書こうとしているテーマにつながるので、後日ご紹介することにします。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙を扱った2つの映画

「黄色い星の子供たち」は事実をもとにして作られたのですが、「サラの鍵」の方はフィクション。 それなのに、フィクションの方が現実に即して描かれたような印象を受けました。

両方の映画がテーマとしてヴェル・ディーヴ事件についても、「サラの鍵」の方が迫害を受けたユダヤ人たちの苦しみが伝わってきました。

私の感想は一般的ではない可能性もあるので、データを並べて比較してみます。

映画の題名黄色い星の子供たちサラの鍵
入場者数258万人82万人
製作費2,000万 ユーロ1,000万 ユーロ
受賞   セザール賞(主演女優賞)
評価(5点満点):
 マスコミ
 観客

2.8
3.6

3.3
3.9
映画初公開日2010/10/102010/10/13
出所:AlloCiné  Cinéma (2012/06/19現在)

製作費も倍だし、映画公開PRも大々的にしたと思える「黄色い星の子供たち」は、入場者数が「サラの鍵」の3倍くらいになっています。でも、評判としては「サラの鍵」の方が上を行っているようです。

追記:
タチアナ・ド・ロネがパスポートを更新できなかった経緯について:
最近のフランスでは「一斉検挙」が流行っていた 2012/06/19


― 続く ―




内部リンク:
フランス映画『黄色い星の子供たち(La Rafle)』 2010/11/06
ナチス占領下のフランスを描いた映画「さよなら子供たち」 2010/11/06
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
★ 目次: 戦争に触れて書いた日記
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
総目次: テーマおよび連続記事ピックアップ

外部リンク:
『サラの鍵』ジル・パケ=ブレネール監督が語るホロコーストとその思い


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2012/06/16

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その3


ナチスの傀儡となったヴィシー政権(1940~44年)のもとでおきた、フランス現代史の汚点「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」と呼ばれる出来事を扱った映画を見たことを書いています。

どんな出来事であるかを書いた日記:
ヴェル・ディーヴの一斉検挙(1942年) 2012/06/14


映画「黄色い星の子供たち(La Rafle)」

2週間くらいの間をおいただけで、偶然にもこのテーマを扱った映画を2本見たのですが、始めに見たのは実話からストーリーを作った映画の方でした。


黄色い星の子供たち [DVD]

La Rafle - edition simple
日本公開: 1011年フランス公開: 2010年

フランス語の題名は「La Rafle(一斉検挙)」。これでは刑事モノの映画と誤解されてしまうからでしょうか、邦題は「黄色い星の子供たち」となっています。

「黄色い星」とは、ユダヤ人であることが一目でわかるように胸に付けさせられたマークなのですが、日本人にそれが連想できるのかな?... 「子ども」も付け加えてしまったわけですが、子どもに焦点が当てられたお話しなので良しとしましょう。 お見事な命名だと思います。

「黄色い星の子供たち」という映画が良いと言われて、見たいと思っていました。でも、フランスのテレビで上演されるのを待つつもりだったので、気長に構えていました。

ところが、映画の名前を聞いてから1カ月くらいしかたたないときのこと。テレビで流されていた映画を見ていたら、そのうち、これが「黄色い星の子供たち」ではないかと思えてきました。フランス語の題名は邦題と全く違うので結び付けられなかったのです。 映画を見終わってからインターネットで調べて初めて、見たいと思っていた映画だったと確認できました。

従って、途中から、しかも席を立ったりもしながら鑑賞した映画なので、記憶をたどって粗筋を書くことなどできません。でも、パリの平和な風景から見たので、見損なった部分は少なかっただろうとは思います。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙(1942年)を扱った映画

ヴィシー政権がしたホロコーストの中では最大規模の事件がテーマとなっています。フランス人の警察官が動員され、パリ首都圏に住むユダヤ人家庭に不意打ちをかけて、2日間で13,000人も検挙してしまいました。

子どものない夫婦や単身者は、ドイツの強制収容所に送りこめるので、とりあえずユダヤ人収容所に連行。子どもの処分に困ったので、親子連れをとりあえずパリ市内の冬季競輪場(ヴェル・ディーヴ)に押し込めました。観客席を埋めてしまうほどの人数が連行されたのですが、その約半分は子どもでした(4,115人)。

ヴィシー政権が自らユダヤ人迫害をしたこと、女性や高齢者だけではなく子どもたちまで犠牲にしたこと、ヴェル・ディーヴでの待遇は酷いものであったことで、フランスの現代史の汚点となる事件でした。

「黄色い星の子供たち」は、このときに検挙されながらも生き延びた人々の証言を集めて構成した映画です。

あちこちのサイトに映画のあらすじが出ているので、私が下手にまとめるのは省略します。

映画『黄色い星の子供たち』公式サイト
☆ CINEMA TOPICS ONLINE: 黄色い星の子供たち
☆ 監督・キャスト(写真付き): Casting La Rafle(AlloCiné)



「黄色い星の子供たち」予告編:



3本立てで抜粋を見せている動画:
1.
2.
3.



映画のモデルになった男性

「黄色い星の子どもたち」にはジョー・ヴァイスマンという名で男の子が登場しているのですが、モデルとなった実在人物がいます。

彼の名はJoseph Weismann(1931年~)。

ファーストネームを男の子の愛称にしただけなのですね。

ヴァイスマン氏は、ヴェル・ディーヴを出された後にBeaune-la-Rolandeの一時強制収容所に送られ、アウシュビッツに送られる運命にあったのですが、2人の警察官に助けられて脱走に成功しました。

2011年9月、つまり映画公開の翌年に、彼は『Après la rafle(一斉検挙の後)』と題した本を出しています。

出版にあたってのインタビューの動画がありました:



来日もしていらした。
ユダヤ人収容所からの脱出・生存者が東京でトークセッション


ドキュメンタリー映画ではない

正直いって、私には、心に焼き付いて何日もそのことを考えてしまう、というような映画ではありませんでした。

ヴェル・ディーヴの一斉検挙については、この映画で知ったのでショックは受けました。でも、映画は現実を少し軽くしていて、本当はもっと残虐なものだったのではないかという疑問を持ちました。

その2週間後くらい後に見た、同じ事件を扱った映画「サラの鍵」の方が私には衝撃的でした。こういう非人道的な行為が、どれほど子どもの心を傷つけるものであるかが伝わってきたからです。

それで、ヴェル・ディーヴの一斉検挙がどんなものであったのか調べたい気持ちになりました。

上に動画を入れた、男の子のモデルとなり、映画製作でも助言者となったヴァイスマン氏のインタビューでは、冒頭で、「黄色い星の子供たち」は現実に忠実かとインタビューされています。

「観客と証人の両方になることはできないので、非常に難しい問題です」と答えています。「証人としては一字一句間違えないで事実を伝えて欲しい。でも、映画は映画です」。

ヴァイスマン氏が日本で、「私は収容所で遊んだ記憶はない」と発言している点に注目しました。

映画では、子どもたちの無邪気な姿と、現実の悲惨さをクローズアップするため、無邪気な姿の方を強調しているのを感じました。

その対比は感動的です。始まりの部分で、昔のパリを髣髴とさせる道路(モンマルトルの一角でセットを作ることを住人たちが協力してくれたので実現したらしい)で、子どもたちが平和に遊んでいる場面は美しかったです。

でも、何がおこっているのか、これからどうなるのか分からない無邪気な子どもでも、極端な恐怖におびえていたはずではないですか?

映画を見たあと、ウェブでヴェル・ディーヴ生存者たちや、近くに住んでいて目撃した人たちが語っている動画をたくさん見ました。

子供たちは泣き叫んでばかりいて、誰もが下痢で汚れた姿になっており、無邪気に遊んだりしているのは見なかったと、収容所の近くに住んでいた女性が言っていました。子どもたちは行ったり来たりウロウロしているばかりなので奇妙で、それが何とも可哀そうだった、そんな状態でいるのなら死んでしまった方が救われたのではないかとも思った、と語っていました。

ユダヤ人たちを助けたフランス人が大勢いたというのは、でっちあげではない事実なのは確かです。助けた人たちに感謝するために名前を書いて保存してあるところもありますので(Le Mur des Justes)。映画に出てくるのが、生存者が語るエピソードと同じというのが幾つもありました。

でも、映画の中でに登場した赤十字の看護婦が、私にはなんとなく白々しく見えてしまいました。もっと感動を与える役になれたはずなのに...。

というわけで、この映画にはそれほど満足しなかったので、私が間違っているのだろうかと、フランスでの批評を見てみました。悪くはないですが、マスコミの全部がもろ手を挙げて褒めているわけではないですね。かなり厳しい批判もありました。

この映画の残念な点として、この映画を見ても、何か知らなかったことを学べるわけではないというのを挙げているものがありました。

確かに、私などはヴェル・ディーヴ事件を知らなかったので色々学んだわけですが、少なくとも大統領が政府の非を認めた10数年前からは大きく取り上げられているはずなので、フランスの人たちが見たら、そうなるかもしれない。映画には何か新しい主張があるわけでもないし、新事実を出しているわけでもない...。

私にも、インターネットの動画で見た、証人の人たちが話すことや、テレビのドキュメンタリー番組の方が興味深かったです。これらは、このシリーズ日記の情報リンクとしてURLを記録しました。

この映画は、登場人物を白か黒かに塗り分けてしまっている、という批判もありました。こういう異常な空気の中では、人々の感情はもっと複雑だったろうに、という意見。私もそう思うな...。その点、次に書く映画「サラの鍵」の方が見事です。


映画の制作風景

この映画の監督・脚本はローズ・ボッシュ(Rose Bosch)。
彼女がどのように映画を製作したかを語っている動画がありました(日本でも「Making-of」と呼びますか?):



映画では、解体されて残ってはいないパリの室内競輪場(ヴェル・ディーヴと呼ばれた)の場面が圧巻なのですが、4分の1のサイズでセットにして再現しているのですね。コンピュータで現実感を出すというテクニックも面白い。

この動画で見る監督は、かなり押し出しの強そうな女性ですね...。

今年の春、ビデオの販売促進をしなければならないのに、彼女は失言をしてしまったらしい。

「この映画を見て泣かない人は普通じゃない」という発言。今どきの甘ったれた子か、残酷なのが好きな人か... と、どんな人が泣かないかを列挙しているのですが、最後に挙げたことが問題になっていました。無感情な人、つまりヒットラーみたい人。

私などは、 テレビをつけたときに泣いている人がいたら、何がおこっているのかも分からずにもらい泣きしてしまうほど涙もろいです。でも、どんなに辛いことがあっても泣かない人はいますよ~! ヒットラーなんかに例えるのは少しいきすぎです。泣かなかった人が傷ついてしまうではないですか?! それに、映画におちどがあるかもしれないのに、そう言ってしまうのは傲慢でもあります。

ブログで彼女の長い発言をのせ、この映画を貶し、監督はナルシストだ、などと書いたブログがあったのが失言を広く知られることになったのか、彼女はその問題ページが入っているブログサイトを相手に、問題記事を取り下げ、誰が書いているのか公開しろと訴えたそうです。ブログサイトに対しては、記事取り下げるまでは1日あたり千ユーロ(約10万円)を要求して裁判をおこしたとのこと。
 
勝手に発言を一字一句のせてしまったのは著作権法で罰せる根拠があるかもしれない。でも、それ以外については、そんなに酷いことは言っていません。でも、そう言われても仕方がないという事実をつかれると、よけいに腹立たしいものになるでしょうね...。

ドメインを持ったサイトなら誰かを追跡できるのですが、それができないから問題ブログが入っているサイトを攻撃したわけです。大手ブログサイトなら裁判もできるますが、ろくな弁護士しか雇えない個人だったら負けますよ...。怖い話しですね。

彼女の発言については、あちこちのフランス語ページで取り上げられているのですが、リンクを入れないでおきます。日本にまで広めたヤツがいる、と攻撃されたらたまりませんから!

ともかく、上に入れた動画で監督のお話しを聞いて、この映画は心理描写を出すより、いま流行りの、スペクタクルとして視覚に訴える映画づくりだったかな... という感じを受けました。

映画のプロモーションも、かなりなものだったようです(私は知らなかったのだけれど)。映画公開に際しては、視聴率の高いテレビ局が2時間の特集番組を組んでいました。


蛇足:

ブログに入れる映画の動画を探していたら、60年前の名作、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」が出てきました。

あれは名作でしたね...。白黒映画時代のフランスでは、本当に良い映画を作っていた。フランス文学は複雑に揺れる心理の描写が優れているから好きなのですが(『クレーヴの奥方』以来の伝統?)、映画もその伝統を受け継いでいたと感じます。

最後はぷっつりと切れて、その先にどう展開するのか全く分からないので終わりになるというフランス映画の伝統は続いているように思いますが。

「禁じられた遊び」は心に刻みついて離れない映画でしたが、ストーリーはうろ覚えなのに気がつきました。私がヴェル・ディーヴ事件について検索していて出てきたということは、この映画もユダヤ人迫害に関係していたのだろうか?

Wikipediaの記事「禁じられた遊び」を読んでも分かりません。

インターネットにのっている映画を眺めて思い出そうとしたら、こんなのが出てきました:



映像をカットしたり早回しにしたりしているので、16分の動画の中に思い出の場面が次々と出てきます。オロオロと泣けてきました。

でも、この動画は、映画のハイライトをつないだだけで作ったのかな? ...

私の記憶では、ポーレットが「ミッシェ~ル! ミッシェール!」と叫ぶ場面で、なんともやるせない気分にさせられたところで映画が終わっていました。でも、この動画では、これはミッシェルらしき男の子が、ポーレットらしき女の子にお話しを悲しいお話しを聞かせるということになっていました。

そうだったら救われるのですが、映画ではどうだったのでしょう? ご存じの方があったら、教えてくださると嬉しいです。


次回は、ヴェル・ディーヴを扱った、もう一つの映画「サラの鍵」について書きます。

― 続く ―




内部リンク:
ナチス占領下のフランスを描いた映画「さよなら子供たち」 2010/11/06
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
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2011/10/09

シリーズ記事 【2011年秋: フランシュ・コンテ地方の旅行】 目次へ
その17
気になったもの (3)


前回の日記で、街の歩道に埋め込まれている観光周遊コースを示すプレートのお話しを書きました。

プレートに描かれている絵は街のシンボルとして納得できるものが使われているのですが、今回の旅行で立ち寄ったドール市では、首をかしげてしまいました。


ドール市の歩道には可愛い猫マークがあった

ドールの街が誇れるものといえば、パスツールの生家があります。でも、ワクチンとか細菌のマークというのは使えないでしょうね…。注射器マークでも良かったと思うけれど、病気を連想させてしまうので暗い。

… などと、シンボルのデザインを考えた人たちもいたでしょうね。


ドール市(Dole)の歩道にあったプレートには猫が描かれていました。

なぜ、猫?

ドールは中世から栄えていた街です。

前回の日記で書いたように、ディジョン市では、中世の教会の外壁に刻まれたフクロウが街のシンボルになっています。

ドールにも、どこかに名物猫がいたのだろうか?…

猫が好きなので、よけいに気になってしまいました。

猫好きな方だったら欲しくなるようなデザインではありませんか?

こういう標識プレートは、たいていツーリストオフィスで同じものを売っています(けっこう高価ですが)。


どうして猫がドール市のシンボルにされたのでしょう?
… などというのはクイズにしません。

というのは、この街にあるパスツール博物館の受け付けの人から理由を教えてもらったのですが、やはり「どうして?」という疑問が残ってしまったので。


ドール市とマルセル・エメの関係

猫がドール市の観光シンボルになった理由は、こういうことでした。

ドール市と関わりが深い作家マルセル・エメMarcel Aymé)の『Les Contes du chat perché』という作品にちなんでいる。

Les Contes du chat perché』は、そのまま訳せば、「chat perché(高いところに登っている猫)のコント」。

木の上にのぼった猫のお話しかと思ったのですが、実は「chat perché(シャ・ペルシェ)」とは鬼ごっこのような遊びの名前なのだそうです。

フランス式では鬼の役は猫なのです。日本で出版された本も『おにごっこ物語』となっていました。

フランスでは人気のある物語らしくて、表紙の絵も違えた色々なバージョンが出版されていました。



日本の招き猫の表紙まであったのにはギャフンとさせられました! この姿は、フランスでも中国系の日本料理店や、飾り物を売っている店にあるのをよく見かけるのですけれど。

物語から作ったらしいアニメ:

Les contes du chat perché Episode 2 L'éléphant... par caline-08

マルセル・エメはブルゴーニュ地方のジョワニー市で生まれたのですが、間もなく母親が死亡してからはフランシュ・コンテ地方ジュラ県に住む母方の親戚の家で育てられています。

ドール市で洗礼を受けており、ドール市に住む叔母の家で中学と高校政治代を過ごしました。パリで出てからも、病気になると叔母のとろこに戻って療養しています。

マルセル・エメにとって、ドールが大切な街だったのは確かのようです。


高鬼

一度だけ、この柄のネクタイをしている人を見かけたことがあります。
フランス式の鬼ごっこ「chat perché(シャ・ペルシェ)」は、猫役の子がいて、他の子たちはネズミとなるという遊びだそうです。

猫にタッチされたネズミは猫になって、ネズミを追いかける役になる。猫に触られないための唯一の手段は、イスでも木でも何でも良いから高いところに登ること。… ということなのだそう。

鬼ごっこのバリエーションは幾つもあって、鬼が猫の代わりにオオカミだったり、Colin-maillard(戦場で両眼を失っても戦い続けた戦士の名前)と呼ばれる目隠しされた鬼だったり…。 

調べながら、日本にも「高鬼(たかおに)」という遊びがあるのを知りました(忘れていただけかな?)。「高鬼の遊び方 ルール」のページを見ると、フランスの猫とネズミの鬼ごっこ遊びのルールと全く同じようですね。

でも、猫とネズミのフランス流の鬼ごっこ、私にはよく理解できません。

猫は木にも登れるし、高いところにジャンプもできるのです。なぜ、ネズミが高いところに登ったらセーフなのでしょう? 逆ではないですか?… ネズミも木に登れば猫になれる、ということなのかな?...

それから、みんなから「鬼」とは呼ばれたくはないですが、「ネコ」と呼ばれたらそんなに嫌な役ではないと思うのです。追っかけられるより、追いかける方が楽しくはないですか? 猫 = 鬼の子は、ひとりで孤独だからネズミになりたいのかな?…


街の散策コースのシンボルを選ぶのは難しいはず

街のシンボルを描く観光散策コースをつくるのは、あちこちの街でやっています。ですので、後から始める街は他のところと同じデザインにならないように気をつけなければならないはず。

ドール市では最近になってからプレートを埋め込んだ観光散策コースを作ったようです。今年の7月に取り付け完成セレモニーが行われたのだそう。 

猫のデザインのプレートだと聞いて、それが街を愛したはずのマルセル・エメの小説からとったというのは良いのです。

でも、少しこじつけではないかなと思ってしまいました。

その話しを聞いたとき、マルセル・エメが住んでいた家が街の中にあるということなので、もらった街の観光地図で場所を確認しました。マルセル・エメ通り3番地、と書いてありました。

その場所に行ってみたのですが、それらしき家が見つからない!

幸いにも、その界隈に住んでいるらしい人がいたので聞いてみました。すると、即座に「あそこ」と教えてくれました。マルセル・エメの家だと分かる表示は何もついていないのだそうなので、観光客が探したって見つからないのは当然なのでした。

普通、フランスの古い家屋には誰々が生まれたとか、住んだとか、死んだとか、年号つきでプレートが埋め込まれています。詳しい説明をした説明看板を市が立てていることもあります。これがあると、中を見学できなくても、標識や建物の写真をとって満足できます。

ところが、ここには何もない!

彼の作品から観光シンボルにしてしまったのですよ。何かしら表示をしていても良いと思うのだけれど…。住んでいる人が家を覗きこまれたりするのが嫌だから拒否したのかな?…


街の観光散策ルートに悪魔の絵があったら?...

今回の旅行について書きながら(シリーズ記事の目次)、2回も「悪魔」について書いたので思ってしまいました。

フランスの鬼ごっこが日本のように「鬼(仏語だと « 悪魔 »か »魔王 »になる)」という文字がついていたとして、マルセル・エメが「悪魔ごっこのコント」と題した本を書いていたとしたら、ドール市はそれを選ばなかったでしょうね…。

悪魔マーク付きの画像を作ってみました。

こんな風になっていたら、矢印に従って街を散歩するなんて楽しくないでしょうね。

あるいは、変わっていて面白い♪ と人気を呼ぶでしょうか?

ひょっとして、もうどこかの街にあるかも知れない。

ところで、マルセル・エメの「Les Contes du chat perché(おにごっこ物語)』の初めてのシリーズが出版されたのは1934年。

それよりも早く、彼は『Les Jumeaux du diable(1928年)』と題された作品も書いていました。題名を訳すと「悪魔の双子」!


ブログ内の関連記事:
モンマルトルで出会った彫刻 2005/04/11
『にんじん』の作者ルナールの家。そして、赤毛とは? 2008/02/08

★ このシリーズ記事の目次: 2011年秋 フランシュ・コンテ地方の旅行
目次: 旅行したときに書いたシリーズ日記のピックアップ

情報リンク(仏語サイト):
ドール市の観光コース地図(PDF)
☆ Mairie de Dole: Le circuit du Chat perché c'est parti !
☆ 猫にまつわる遊び : JEUX DE CHAT
マルセル・エメの経歴


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2010/11/06

フランスとドイツの友好関係を考える その1目次


友達が「良い映画だから見るように」と言われていた映画がテレビで放映されました。

ちゃんと見ようと思ったのですが、することがあったので、テレビをつけっぱなしにしてチラホラ見た程度。でも、最後の部分だけでも感動を与えられる良い映画でした。




ナチス占領下のフランスを描いた映画

映画のフランス語での題名は「Au revoir les enfants」。

邦題も、フランス語のままに「さよなら子供たち」となっていました。

1987年、フランス/西ドイツ制作
監督・脚本: ルイ・マル

☆ Goo映画: 「さよなら子供たち」あらすじ
☆ Wikipédia: Au revoir les enfants



ナチス占領下のフランスが舞台。1943年から1944年までのストーリー。

主人公ジュリアン・カンタン(12歳)はカトリック系中学の寄宿生です。彼は転校してきたジャン・ボネと次第に仲良くなってきます。でも、ジャン少年は偽名を使っていたユダヤ人だったのでした。

美しい修道院を校舎としているこの学校の生徒たちは、裕福なブルジョワ家庭の子どもたちです。空襲があるとはいえ、物資には不自由しない子どもたちの姿が描かれます。司祭である校長は、子どもたちと父兄を前にして、貧しい人たちのことも考えなければいけないとお説教をしたりもします。

ある日、不幸は訪れました。学校の料理番の密告により、ジャンを含む3人の生徒はユダヤ人であることがゲシュタボに発覚してしまったのです。

ユダヤ人の子どもたちを逮捕するために学校にやって来たドイツ兵は、生徒たちの前でお説教をします。
私たちはあなた方の敵ではない。私たちは、フランスから外国人とユダヤ人を追い出すのを手伝ってあげているのだ

ユダヤ人の生徒をかくまった罪で逮捕された校長先生(司祭)、そして3人のユダヤ人の少年たちが校門から出ようとしているとき、子どもたちは口々に言います。
「さようなら、お父様」
「さようなら、子どもたち。また近いうちに会いましょう」

彼らが言った「Au revoir(オールヴォワール)」は日本語では「さよなら」にしかならないのですが、フランス語では「また会う日まで」の意味を含んでいます。二度と会わない人に対して別れを告げるためには「Adieu(アデュー)」があります。

子どもたちが校長に対して「お父様」と言ったのは普通の言葉。司祭さんに対してはこういう言い方をするのですが、この寄宿舎の子どもたちは校長先生である司祭さんを本当に父親のように慕っていたのだと思います。

校長先生が子どもたちに別れを告げた言葉「Au revoir, les enfants! À bientôt !」の部分が映画の題名になっています。

連れ去られた3人の生徒はアウシュビッツで、校長先生はマウトハウゼン強制収容所で死んだ、とジュリアンのナレーションがあります。

そして映画の最後は、こんな言葉で終わっていました。
あれから40年たちましたが、この1月の朝のことは、私が死ぬときまで、一瞬たりとも僕の心から離れることはでしょう。


日本版予告篇 / さよなら子供たち

ストーリーは、ルイ・マレ監督自身の体験に基づくフィクション。ユダヤ人の3人の生徒も、校長も実在した人物をモデルにしています。監督は、彼の人生に余りにも大きな影響を与えたこの出来事を作品の形で描きたくはないと長いこと思っていた、と語っているそうです。


校長のモデルとなった司祭とは?

映画を断片的にしか見なかったこともあって、モデルとされた校長(司祭)がどんな人だったのかを知りたくなり、調べてみました。

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2010/09/25

文化遺産公開日に行ったオーセールの町 その3


この前にオーセールの町に行ったときには、橋の上にあった銅像を見て、Paul Bertとはどなたなのかと思いました。

地方だとよけいに地元出身の有名人を称えるのでしょうね。オーセールの町にも、歴史に名を残した人たちがいます。レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは知っていますが、それ以外は知らなかった人ばかり...。

今度はまた別の人が気になりました。


町のあちこちにいたお婆さん

前回の日記で書いたクリプトを見学した修道院の教会部分に、こんなお婆さんが立っていました。


Abbaye de Saint-Germain

「こんなお婆さん」と言っても、よく見えない?
観光スポットにもなっている時計台がある通りにも、同じ人が立っていました。



あれ、あれ、あちこちにいらっしゃるの?!
と思ったら、お土産屋さんでもミニチュア版を売っていました!


20世紀の女流詩人 マリー・ノエル

なんだかホノボノするお婆さん像。オーセールの町で生まれたマリー・ノエル(Marie Noël、1883~1967年)という女性なのでした。皆から愛された20世紀の女流詩人だそうです。

本名はMarie Rouget(マリー・ルージェ)。20歳のクリスマスのとき、恋人に去られ、さらにクリスマスの夜には3人の弟の中で一番年下の弟が亡くなるという苦痛を味わったそうです。それにちなんで「ノエル(フランス語でクリスマスの意味)」という名前をペンネームにしたとのこと。彼女は生涯を独身で通しました。

マリーとノエル(クリスマス)を並べた名前は、一度聞いたら覚えてしまいます。余りにも良い名前ではありませんか? マリーとはマリア様のことなのです。

*彼女が苗字にしたノエルは、苗字にもファーストネームにもある名前です。ファーストネームでは二つ並べる名前になっている場合も多いので、マリー・ノエルと聞いたら、それだけでファーストネームなのかとも思ってしまう。フランス人の苗字のランキングでは、ノエルは現在64位に位置していました。そんなことは、どうでも良いのですが!

彼女は敬虔なクリスチャンで、詩には心温まるものがあり、フランス人なら子どものときに覚える歌にもなっているそうです。

日本では無名の詩人かなと思ったのですが(単に、私が知らないからという偏見からですが!)、ちゃんと翻訳がでていました。
マリー・ノエル詩集 (双書・20世紀の詩人 20)


生前のマリー・ノエル

下のサイトにマリー・ノエルが76歳のときのインタビュー(1959年)が入っています。公の場に身を出すのを嫌った彼女の貴重な映像だそうです。
☆ ビデオ: Marie Noël

銅像に似ている♪ なんて思ってしまったのは不謹慎ですね! でも私には、少女がそのままお婆さんになったような純粋な人には見えました。

オーセール大聖堂のミサに毎日通っていたという場面から始まります。今の時代では、毎日ミサがあるということはないのでしょうか?...

その後、彼女の家での伝記作家のインタビューが始まります。そこは「Maison du diable(悪魔の家)」と呼ばれていたそうです。文化遺産公開日にはこの家も見学できることになっていたようですが、行けなくて残念でありました…。

彼女は名声を嫌って公の場出ることを拒んだので、もう亡くなった詩人ということにもされてしまったようです。ビデオでは、彼女と深い関係にある女の子が、彼女の詩を扱った学校の先生に「まだ死んでいません!」と泣きながら訴えたけれど、叱られたというエピソードが語られています。

ビデオの最後では、女優さんがマリー・ノエルの詩を朗読しています。

こんなに美しいフランス語の響きは、フランスにいても、めったに耳にすることはありません。しいて言うと、お葬式のミサで、残された家族がするスピーチのトーンに似ていると思いました。言葉を荒げて話すのばかり聞こえてくるなか、このスピーチを聞くとフランス語って美しいな... と思うのです。

葬式のミサを思い出したのも当然。この彼女の詩はクリスマスのときに弟を失った悲しみを語っているのです。

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2010/07/05

第一次世界大戦下のフランスを舞台にした映画を見て その2


戦争に行って人を殺すとか、自殺するとかいうのは、異常な精神状態にならないとできないことだと思っています。後者の場合は、自分で自分を追い込めてしまうケースが多いと思うのですが、前者の場合は社会が人々を狂気に走らせてしまう…。

前回の日記「mourir (死ぬ) という動詞の活用」に書いたテレビドラマを見たときも、そう感じてしまいました。


テレビドラマ: Allons petits enfants

テレビドラマ

テレビドラマの舞台は第一次世界大戦中の農村。
モモという愛称で呼ばれている男の子(12歳)が主人公です。

モモが通う小学校では、勇敢に戦場に行き、祖国のために死ぬことを美化する教育を行っていました。成績優秀なモモは、その教育をしっかりと身につけています。両親を尊敬していて、父親が戦場に行ったあと、母親の細腕にゆだねられた農業を手伝います。

映画の題名は「Allons petits enfants(いざ、幼い子どもたちよ)」。
2005年の作品。

このテレビドラマの題名は、フランス国歌の出だしにある「Allons enfants de la Patrie」をもじったのではないかと思います。


フランス国歌

「いざ、祖国の子らよ、栄光の日は来た!」で始まるフランス国歌は、フランス革命のときにつくられた歌詞です。どうして今日でもそんな歌詞を残しているのか理解に苦しみます。敵をやっつけろ! という戦争のための歌なのですから...。

フランス国歌の全訳をのせているサイト:
ラ・マルセイエーズ -フランス共和国国歌

フランス国歌の歌詞に意義をとなえる人は多いはずですが、なかなか意見が一致しないらしくて、変更されずにいます。

サルコジ氏が大統領に着任してまもなく、「小学校で国歌をしっかり教えろ」という指示を出したので物議をかもしました。保守派と極右支持者の票を集めて大統領になった人なので、そう言いだしたこと自体には違和感はなかったのですが。

大統領の命令に従うかどうかは教師の意思で決められるとのことだったので、どのくらい徹底したのか知りません。ともかく、こういう残酷な歌詞は幼い子どもたちに口ずさんで欲しくはないです!…


以下にテレビドラマ「Allons petits enfants」のあらすじをメモするのですが、途中から見たし、時々テレビの前から去らなければならなかったので、どんな映画だったかをしっかりとご紹介できません。

教育資料を提供するサイトが、この映画を見る子どもたちにどんなことを教えるかを書いています。フランス語がお分かりになる方はそちらをご覧くださった方が良いと思います。

テレビドラマ「Allons petits enfants」の教育ノート:
 ☆ télédoc / Allons petits enfants (PDF)
 ☆ Allons petits enfants


父親は戦場で銃殺された

ある日、学校で授業を受けていたモモに、父親の死が伝えられました。ところが、それはただの戦死ではなかったために、残されたモモと母親は二重の悲しみを味わうことになります。

モモが尊敬していたお父さんは「栄誉の地(champ d'honneur)」と呼ぶ戦場で死んだのではなく、銃殺された(fusillé)のでした。敵に殺されたのではなく、フランス人に殺されたのです。脱走しようとしたことへの処罰らしい。

このような死に方をした人が出た家族は、まわりの人たちからは冷たい目で見られます。いじわるも受けます。戦死ではないので手当も支給してもらえません。

日本でも国賊とか非国民とかいう言葉がありましたが、そんな迫害なのでしょうね。

モモの学校には、家族の戦死者の名前を書き込んで栄誉を讃える黒板があったのですが、モモは父親の名前を書き込むことを先生から拒否されました。銃殺された兵士は英雄ではないのです。

当時の農業は機械化していなかったので、母親にはきつすぎる重労働にあえいでいました。しかしモモにとっては、尊敬していた父が栄誉の戦死をしなかったことへの恥じの方が大きかったようです。

父親の不名誉を挽回するために、自分が戦争に行くことを決意します。モモは戦地に向かう電車の貨物室にもぐりこみました。行きついた先は、城を利用した軍人病院。

モモは12歳の少年。戦場に行って戦いたいのだと頼んでも、兵士として送ってもらうことはできませんでした。それでも病院の仕事を手伝わせてもらいます。

兵士の衣服を洗濯してあったところから制服を盗んで着てしまい、いっぱしに勇敢な兵士になった気分になります。

テレビドラマ

ひどい怪我で苦しむ人々があふれる病院でした。モモは初めて戦争の現実を知ります。父親のように銃殺される兵士も目撃し、父親は不名誉な死に方をしたのではなかったと分かるのでした。

銃殺は「fusillé pour l'exemple」と呼ばれる処刑でした。
みせしめの銃殺。なんとショッキングなネーミングでしょう!...

兵士の士気を高めるために、上官の命令に従わない兵士を選んで銃殺するという手段。多くの戦死者を出し、泥沼的な戦争になった第一次世界大戦では、特にこの「みせしめの銃殺」が多かったようです。


ハッピーエンド?...

モモは学校に戻ります。
彼のクラスには新しい教師がやってきました。

先生は、平和主義者ジャン・ジョレスの演説の一節を子どもたちに読んで聞かせます。そして、モモに「フランスのために死す」と書かれた黒板に父親の名前を書くように促します。

父親が戦死であることを初めて認めてもらったモモ。黒板に父親の名前を書きおえた彼の嬉しそうな顔をアップして、映画は終わりとなりました。


この映画で「みせしめの銃殺」というものがあったことを知りました。戦争の暗い一面として隠されていて、それが批判されるようになったのは戦後何年もたってからのことだったそうです。

この銃殺が何なのか少し調べてみたので、次回はそれについてのメモを書きます:
みせしめの銃殺

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2008/02/08

昨年の秋、ジュール・ルナール(Jules Renard 1864年~1910年)が幼少期を過ごした村に行ってみました。

「郷土資産の日」のための旅行でした。この日には、普段は入れない所も見学できるからです。

★ 郷土資産の日については、過去の日記でご紹介しました:
フランス式「文化の日」 (2007/09/24)



◆ Chitry-les-Mines 村

最近になってたてられたというジュール・ルナールの銅像を、村の広場で見つけました。



ルナールは、晩年にはこの村の村長をしていました。彼にとって愛着のある土地だったようです。

村の名前は Chitry-les-Mines(シトリー・レ・ミーヌ)。
ブルゴーニュ地方にあります。

「mines(鉱山)」という語が付いているところ、昔は鉱山があったのでしょうか?
なんとなく、暗い地名に感じました・・・。


◆ にんじんの家

ジュール・ルナールという名前は、日本では知られているでしょうか?
でも、彼が書いた『にんじん』という本の題名をご存じない方はないと思います。

      

『にんじん』は、自伝的な小説だそうです。

とすると、ルナールが幼少期を過ごした家は、その舞台。

その家が今も残っていると聞いていました。「郷土遺産の日」なので、そこに入れることを期待して行ったのです。

でも、家の前はひっそりとしています。一般開放はされていないのでした。

道路から見たルナールの家です。



ここにルナールは愛着を感じていたのが不思議になるくらい、普通の家・・・。

なぜか、寂しくなるくらいに普通の家だと感じました・・・。


◆ 日本では、『にんじん』を何歳くらいで読むのでしょうか?

子どもに読ませたい世界の名著』にも、『にんじん』はリストアップされていました。



子どもって、小学生を指すのでしょうか?

私は、その頃に読んだ気がします。ただし、全文ではなくて、ストーリーがわかる程度の内容だったように思います。

フランスの友人に「ちゃんと読んでいないと思う」と言ったら、本を貸してくれました。ルナールの文章は美しいから読むように、と。

古めかしい本でした。挿絵も入っていましたが、子ども向きの絵ではないです。思っていたより長くて、童話のようにスラスラと読める本ではありませんでした。

フランスでは、『にんじん』は中学生の教科書に出てくるそうです。つまり、余りに幼すぎては理解できない内容とのこと。


◆ 役場が展示会はしていた

ルナールが暮らしていた家には入れませんでしたが、村役場では、村の歴史と、ルナールに関する資料を展示していました。

そこにいらした村の方たちと、少しおしゃべりをしました。

ルナールの研究会があるそうで、日本人も2、3人メンバーになっているのだ、と話していました。

それで、フランス語の原題は『Poil de carotte(人参の毛)』と題された本が、日本では『にんじん』という題になっているのも知っていらっしゃいました。

どうして「にんじん」という翻訳にしたのだろう? と言われてしまいました。確かに、それでは意味が通らない!


◆ ニンジン色の毛

『にんじん』の主人公は、家族からも、髪の毛の色が赤いことから付けられたあだ名でしか呼ばれていませんでした。それが、彼の不幸を象徴しています。

近くに行ったから立ち寄ったルナールの家でしたが、その後は、今まで気にしたこともなかった「赤毛」というものに興味を持ちました。

フランスの友人に聞いてみると、赤毛の子どものことを「人参の毛(poil de carotte)」と呼ぶのは、ひと昔前のフランスではよくあった、と返事されました。

別に侮辱しているわけではなかくて、赤毛の友達には普通に言っていた、とのこと。

でも、今では「ニンジンの毛」という表現はすっかり使われなくなったそうです。

色々な色に髪の毛を染めるようになったので、変わった色でも目立たないから、と、友人は笑って説明してくれました。

本当に赤い髪の毛に染めてしまっている女性も、私の知り合いの中にいます。かなり年配の女性。すごいな・・・ と会うたびに思ってしまっています。ほんとうに血がしたたるような「赤」なのですから!

でも、彼女の毛は赤いのであって、poil de carotteと呼べる色ではありません。

フランス語では、『にんじん』の主人公のような髪の色は、roux(赤褐色)であって、rouge(赤)とは言いません。


◆ 赤毛とは、どんな色?

フランス人の赤毛(Rousseur)の割合は5%なのだそうです。
多いのは、スコットランド(14%)。次に、アイルランド(10%)。

5%もいるにしては、私は赤毛なるものを見たことがないような気がしていました。

ところが、にんじんの家を見てからほんの数日後、「これは本当に人参の色だ!」と思う人に出会いました。

男性のお髭の部分です。高名な大学教授だし、親しい間がらでもないので、それとなく見ただけです。

それでも、「こういうのをニンジンの毛というの?」と、一緒にいた別のフランス人に確かめてしまいした。

私が子どもみたいな質問をするのには慣れている友達です。「そうだ」と教えてくれました。

その大学教授には以前に何回も会っていたのですが、その色には全く注目していませんでした。

オレンジ色と表現した方が良いような、光を放つ色です!

ニンジン色の髪の毛について質問した友達が、赤毛の友達をそう呼んでいたけれど、侮辱する意味合いはなかった、と言っていたのが分かるような気がしました。

むしろ特徴として長所になるかも知れない、と思いました。実際、赤毛の人は芸術作品でも多く取り扱われたようです。

フランスでも絶大な人気がある『タンタン』というベルギーの漫画があるのですが、その主人公タンタンも、ニンジン色の髪の毛とされていました。

 タンタンの冒険旅行 DVD

私は、タンタンは金髪だとばかり思っていましたけれど・・・!

こんなことを書いているので、赤毛とはどんな色なのかお見せしなければなりません。

ウィキペディアに、赤毛の色を入れているページがありました:
☆ Wikipedia: Red hair

でも、写真だと、あの火山が爆発したのを思わせる鮮やかさに欠けています!



ニンジンに例えられる赤毛については、また書きました:
★ ニンジンとオレンジの関係 2017/03/10




ブログ内リンク:
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビ番組

外部リンク(仏語サイト):
☆ 「にんじん」の原作(全文): Poil de Carotte
Pour Jules Renard
Biographie Jules Renard
Ville de Nevers - Jules Renard


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2008/01/17

シリーズ記事 【不思議なクラムシ―の町(目次
その1


久し振りにクイズを出してみようかと思って、それに付ける写真を探してみました。

すぐに出てきたのは、少し前に行ったブルゴーニュ地方にあるクラムシー町で撮った写真でした。

これです ↓



通りの名前は「ロマン・ロラン通り」。クラムシーはロマン・ロランが生まれた町なのです。

これは何だった建物でしょう?」というのが、私が考えたクイズの質問でした。

でも、クイズにするのは止めました。

そもそも、私がどんな答えを期待しているのか、この写真だけでは分からないでしょう? 幾通りもの答えが可能なはずです・・・。


◆ロマン・ロランが生まれた町クラムシー

さらにヒントのようなものを考えたら、罠にかけるみたいなので、これをクイズにする気はなくなりました。

この建物はクラムシーという町にあって、そこはロマン・ロラン(1866-1944年)の生まれた町。

・・・としたら、ロマン・ロランの生家? と考えてしまう方もあるかも知れない!

この町にはロマン・ロラン博物館があって、そこは彼が生まれた家を使っています。もっとずっと立派なお家です。

★クラムシー町にあるロマン・ロラン博物館: Musée d'Art et d'Histoire Romain Rolland


私はクラムシーに行ったら、あちこちにロマン・ロランの名が見えたので、この町で彼が生まれたのだと知りました。

さらに気がつけば、彼が晩年を過ごした家があったヴェズレー(世界遺産に指定されている美しい村)は、このクラムシーから近いのでした。

書きながら調べてみたら、その距離は23キロ。県が違うので、もっと遠いように感じていました。

さらに気がつけば、ロマン・ロランはヴェズレーで息を引き取って、このクラムシーの教会で葬儀をしていたのでした。

★ロマン・ロランの死を報道したニュース・ビデオ:
DEUX HOMMES SONT MORTS : ROMAIN ROLLAND ET LE COLONEL FABIEN

*陸軍大佐と一緒の日に葬儀が行われたので、ニュースでは二人の業績を交差させてしまっています・・・。



ロマン・ロランの言葉



◆中世のお店

話しがそれてしまいました!

上に入れた写真は、「この家は、中世にはお店でした」という答えを期待していました。

フランスの古い建物が残っている旧市街を歩いていると、よくこの形の建物を見かけます。店だと教えてもらってから、バカの一つ覚えのように「わあ、お店だ!」などと喜んでしまっています。

例えば、下の写真は、同じブルゴーニュにあるディジョンの、旧市街の中でも一番観光客が通る道にある建物です。


Maison Millière

道路に面している窓にご注目ください。

写真では見えにくいかも知れませんが、道路に面したところがカウンターのように石が少し飛び出しています。

それから、木組みの家である点も重要です。こういう風に木組みに土など色々なものを詰めている建てかたの家は、石だけでできた家よりランクが低いので、典型的に商店だろうと推測できるのです。貴族などが、こういう家に住むということはまずなかったはず。

中世の商店は、窓のところに商品を並べて、外からお買いものする形式になっていたそうです。

ちなみに、このディジョンの中世の店はとても美しい建物なのに、長いこと放置されていました。数年前、やっと持ち主が売る気になったのか、お土産屋さんがオープンしました。それを知ったときは、中にも入れるようになったので喜んだのでした。

まだ放置されていた状態だったときも、映画のロケで使われたりしていました。



ジェラール・ドパルデュー主演『シラノ・ド・ベルジュラック』 (1990)
お土産屋さんもロケで使われた建物であることが自慢らしく、映画の写真を窓ガラスに貼っています。これは、それを撮影したものです。

ブログ内リンク:
ブルゴーニュの作家ロマン・ロランの足跡をたどって 2013/06/26
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事


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