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2017/04/27
サラマンダーと呼ぶ伝説の動物がいます。
イモリかトカゲかという薄気味悪い姿。大きく描けばドラゴンにも見える。


14世紀に描かれたサラマンダー 『Bestiaire(動物寓意譚)』より



日本ではサンショウウオとも呼ばれるそうです。

でも、山椒魚は、ヨーロッパ大陸に生息しているファイアサラマンダー(Salamandra salamandra)とは異なる動物でした。


フランス語ではsalamandre(サラマンドル)で、聞いたことがある動物の名前なのですが、本当にフランスに生息しているのだとは思っていなかった。

分布図からして、奇妙な姿に見えてしまう...。



実際のサラマンダーはもっと薄気味悪いのですが、地図をクリックすると画像が入ったWikipediaのページが開きます。


火の精とされるサラマンダー

地、水、風、火を自然の力として四大精霊あるいは四大元素とすると、サラマンダーは火の精とされていました。

不思議な動物のようなのです。危険が迫ればサマンダリン (Samandarin)という毒を出すことができる。それから、 野原が火事になったときには湿った地面に潜り、粘液で火傷を防ぐことができるようで、火が収まった時には地面から這い出てくるのを人間が見ると驚くらしい。


François Ier vers 1530 par Jean Clouetサラマンダーと言えば、フランソワ1世

この動物を知ったのは、16世紀全般のフランスを統治したフランソワ1世(François Ier de France 在位 1515年~47年)のエンブレムだからです。

彼の治世には美術や文芸が発展し、フランス・ルネサンス期を代表する国王とみなされています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は、1516年にフランソワ1世に招かれ、アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられて晩年を過ごしました。

歴代の国王の中で、フランス人には人気がある王様なのだと聞いたことがあります。


このフランソワ1世の紋章がサラマンダーなのです。

CoA François Ier de Valois Salamandre galerie françois premier chateau fontainebleau


サラマンダーは、古代ヨーロッパでは火の中で生きることができる生物だと考えられていたそうです。体温があまりに冷たいために火を寄せ付けず、火を消し去ってしまう。

そのサラマンダーをエンブレムにしているフランソワ1世の金言は、ラテン語でNutrisco et extinguo

フランス語にすると、こうなるのだそう:
Je nourris (le bon feu) et j'éteins le mauvais.

私は(良き火を)養い、悪を消す。

王様のモットーとしては正義の味方のようで良いですね。


フランソワ1世のサラマンダーは、どっちを向いている?

例によって、私はつまらないことが気になりました。

サラマンダーが振り返っているような姿なのは、自分の体に水なり粘液なりをかけているという姿なのでしょうか? それは調べないことにしたのですが、振り返っている方向が気になりました。

フランソワ1世が生きていた時代にまつわる城などにはサラマンダーの彫刻がたくさんあるのですが、だいたいにおいてサラマンダーの頭は左側にあり、右の方を振り返っています。

ロワール川の城めぐりで有名な地方に、彼の城だった美しいアゼ=ル=リドー城(Château d'Azay-le-Rideau 建築 1518年~)がありますが、そこの壁にもサラマンダーの彫刻が残っています。

Nutrisco et extinguo Salamandre de François I
La salamandre de François Ier et sa devise : « Nutrisco et extinguo » (Château d'Azay-le-Rideau)


同じ地域にあるシャンボール城(Château de Chambord)にも、天井には頭文字のFと、サラマンダーの彫刻がたくさん施されています。

Salamandre de François Ier

このシャンボール城の格天井にある彫刻をもっと多く写している画像がこちらにあるのですが、みな同じ方向に頭を向けています。つまり、向かって右側。


探してみたら、左側に顔を向けているサラマンダーがないわけではありませんでした。

下はパリ市に近いところにある教会Église Saint-Georges de Belloy-en-Franceの壁面にあるサラマンダーの彫刻。

Belloy-en-France (95), église Saint-Georges, portail occidental, écoinçon de droite - salamandre
Belloy-en-France (95), église Saint-Georges, portail occidental, écoinçon de droite - salamandre


これは西側にある扉口で、半円形のティンパヌムの右側にある三角小間の部分にサラマンダーの彫刻があります。


左側の部分にもサラマンダーがいて、対になっていたのだとしたら自然な構図。左側の部分の画像はこちらなのですが、彫刻が消えてしまっていて見えない...。たぶん「F」なのではないかと想像するのですけれど。


先ほどのフランソワ1世のラテン語の金言を入れた画像があるので眺めてみたら、こちらは逆の方向を見ていました。でも、フランソワ1世が亡くなってから出版された本のようなので、これは例外には数えられないかな...。


Paolo Giovio, Dialogo dell'imprese militari e amorose (1556)



ディジョンのサラマンダーは何をしようとしているのか?

サラマンダーはどちらを向くものなのかと気になったのは、ブルゴーニュ地方のディジョン市にある古い教会の外壁に彫られているサラマンダーは、向かって左側に顔を向けているからです。



この教会が建てられた頃のブルゴーニュはフランス王国にはなっていなかったので、これはフランソワ1世とは無関係なはず。

でも、この小さなサラマンダーが悪さをすると言い伝えられているので、首をどちらに向いているかが私は気になるのです。

ディジョンの観光スポットの中心地域にありながら、存在を知っている人が少ないこのサラマンダーについて続きで書きます。


シリーズ記事 【これはサラマンダー? あるいはドラゴン? 】目次




追記:

サラマンダーがどちらを向いているのかが気になっているわけなのですが、後ろを振り返ってはいないものが描かれている紋章を見たことがあるのを思い出して探してみたら、市町村の紋章として出てきました。

トカゲも紋章になっていた

Blason Coaraze
Coaraze(コアラーズ)村
Blason de Flagey-lès-Auxonne

似ているのですけれど、これはトカゲなのでした!

右側の紋章のデザインでは、トカゲの尻尾が切れています。切れていないトカゲのデザインもあるのですけど。



紋章のサラマンダーは、実は左を向いている

サラマンダーはフランソワ1世の紋章だけではなくて、幾つもの市町村の紋章でも使われています。でも、サラマンダーなら、トカゲとは違って振り返っている姿でないといけないようです。

Blason ville fr Brûlon (Sarthe)
Brûlon
De gueules à la salamandre d'or dans sa patience du même, au chef d'argent chargé d'une crosse de sable mouvant du trait du chef.
Blason ville fr Vitry-le-François
Vitry-le-François
D’azur à une salamandre d’or, la tête contournée et couronnée de même, couchée dans un bûcher ardent de gueules ; au chef d’azur soutenu d’or et chargé de trois fleurs de lys de même.


紋章学では、紋章は言葉で表現できることになっています。サラマンダーの紋章の表現を見てみました。頭が右の方を見ているというのは「tête contournée」と表現しています。動物が左側(シニスター)を向いている場合にそういうのだそう。下弦の月の形にするのも同じ表現。

盾を持ったときのポジションで見てみて(つまり、裏側から見て)、紋章のどちら側に向いているかによるので、右と左が逆になる。左だったらsenestre(シニスター)で、右だったらdextre(デキシター)。

シニスターというのは、ヨーロッパ文化では不吉な方向とされますよね。紋章のサラマンダーは、悪い方向を見て毒を放っている?...



Belloy-en-France (95), église Saint-Georges, portail occidental, écoinçon de droite - salamandreとすると、上に入れた教会の入り口で逆を向いているフランソワ1世のサラマンダーの彫刻はどうしてくれる?

でも、教会に入ろうとするとき、右側にいるのですよね。それで反対側に顔を向けているということは、やはり左を威嚇していることになる。

あるいは、右と左をよく間違える私のような職人が作ってしまった? ... プロなのだから、そういうのはあり得ないだろうな...。

ブログ内リンク:
★ 目次: 右と左の違いが気になる
ロマネスク教会 (4) : 右は天国、左は地獄 2008/05/03

外部リンク:
【Wikipedia】
☆ ファイアサラマンダー > 人間との関係
四大精霊 | サラマンダー (妖精) 
Salamandre (animal légendaire) | Category:Salamanders in art

☆ BnF: La tempérante salamandre aux origines de la devise de François Ier
La marque de la Salamandre à la bibliothèque de droit d’Aix
☆ Wikipedia: category / Portail occidental de l'église Saint-Georges de Belloy-en-France
ルネサンスのセレブたち: トカゲと公爵
Top 10 des personnages français historiques préférés des Français
Le petit bout de la queue (du Diable) / Coaraze
☆ Au Blason des Armoiries: Contourné
中世ヨーロッパの風景 「紋章について」


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2014/08/08
この春にテレビで見て良いドキュメンタリーだと思ったテレビ番組を思い出し、再びYouTubeに入っていた動画を見直しました。

Adieu paysans』と題されていました。

Adieuとは、永遠の別れのときに言う「さようなら」。
Paysans(ペイザン)とは、農民、百姓(お百姓さん)。

普通に「農業者」を指す言葉としてはagriculteurなどがありますが、「ペイザン」という言葉には、昔のフランスにたくさんいた多品目栽培の小規模農家のイメージがあります。この番組が『お百姓さん、永遠にさようなら』とも訳せる題名にしたのは、何千年もの間フランスの文化を支えてきた昔ながらのペイザンが、戦後に消滅していく過程を見せるドキュメンタリーだったからです。

小規模経営の農業者ペイザンが消えていったのは、第二次再選後の近代化の波によったものでした。それが、わずか一世代で転換した。その歴史を昔の映像で見せています。

終戦直後の食糧難の時代から始まります。戦後、農業の近代化と大規模経営が推し進められたことによって、農民の生活は変わり、農村が昔の姿を失っていった経緯が語られます。1980年代に入って、昔のフランスの良さを取り戻そうという動きがでてきたところで終わっています。


ドキュメンタリーの最後の言葉は、「私たち全てはペイザンなのだ」。

「フランス人のルーツは農民」とは、フランスでよく耳にする表現です。日本だって、江戸時代くらいまでは農民の割合が非常に高かったと思うのですが、日本人がそういう言い方をするのは聞いたことがありません。


私が知ったフランスは、この番組が描いた後の時代からでした。話しには聞いていた色々なことを、昔の映像で見ることができたので、とても興味深かったです。今の私が見ている農業者は、この激動期を生き残ってきた人たちなのでした。

今のフランスの農業者を見ると、家が一軒買えてしまえるほど高額なトラクターを何台も持っている大規模経営農家が目立ち、補助金で優遇された職業と思ってしまうのですが、それはフランス政府が戦後にした意図的な農業政策の結果だと知ることができました。

その政策が進行する中で、昔ながらに牛や馬を使って、自給自足の生活をしながら余った農産物を売るというような、貧しいけれど人間らしい生き方をしていたペイザンたちは淘汰されていったのでした...。

喉を詰まらせて、涙をこらえながらインタビューに答えているお百姓さんが痛ましかったです。機械化・近代化を進められてやってきたけれど、それがない時代に農業をしていた父親の方がよほど良い暮らしをしていた。機械を買うための借金、農薬や化学肥料を買う費用で苦しくなり、結局、働く時間は同じで、収入が増えるわけでもなかった。他の仕事をやれと言われたって、この年では無理だ...。

農家の数は激減し、昔の農業に必要だった鍛冶屋などの職業も農村からは消える。職を求めて都会に出ていく人たち...。


世の中を良くするためには何が良いのかを考えさせられます...。

ドキュメンタリーは1980年代に入ったところで終わっていますが、その後も農業者の苦悩は終わったわけではないのは、最近のニュースでも話題になっています。戦後のフランスは大規模経営にする農業政策や農作物の相場で翻弄されたのですが、今では大量に農産物を仕入れる巨大スーパー企業が価格を牛耳っていますから...。

時代の流れには逆らえないということでしょうか?...

それでも、番組の最後で描いた明るい兆しは育っている感じはします。減農薬や有機農業の必要性が注目され、小規模農家を支援する消費者運動も活発になってきています。フランス人は、政治を批判したり、時代の流れに逆らう反骨精神が、少なくとも日本人以上にはあると感じます。


ドキュメンタリー番組 Adieu paysans

フランス語がお分かりにならない方にも興味深い映像ではないでしょうか? 100年もたっていない時代なのに、今日のフランスからは想像できない光景がでてきます。

フランス人の顔つきも違うのです。厳しい生活に刻まれた皺があるにしても、めったに見られなくなった純粋で素朴な表情にしても...。


Adieu paysans

農村から都市に働きに出ていく人々を映し出す場面で、バックに流れるシャンソンが気になったので調べてみました。農村から都市への人口流出は日本にもあるのですが、このシャンソンの日本語の歌詞と比較すると、日本とフランスの違いが見えるので面白かったからです。

それについては、次の日記で書きました:
ジャン・フェラのシャンソン「ふるさとの山」に見る日仏文化の違い


ドキュメンタリーで語られていること

ドキュメンタリーで語られていたことのアウトラインを書きだしてみたので入れます。

[続きを読む  Lire la suite...]


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2014/03/22
モンベリアール町(Montbéliard)は、ドイツやスイスに近いフランシュ・コンテ地方にあります。モンベリアール伯領だったのですが、婚姻関係によって、15世紀から18世紀末までドイツのヴュルテンベルク家によって支配されていました。

宗教改革運動はドイツに始まったわけで、当時のヴュルテンベルク公もプロテスタント。モンベリアールの町に住む人たちも、ほぼ100%がプロテスタントだったようです。

プロテスタントの弾圧があった時代には、前回の日記「モンベリアール町に残っているフランス最古のテンプル」に書いたサン・マルタン教会はプロテスタントたちの駆け込み寺のような存在だったようです。ところが、この町には大きなカトリック教会もあるとのことなので見に行ってみました。


プロテスタント vs カトリック

カトリック教会がある場所にある駐車場に車を止めると、まず目に飛び込んできたのは、この小さな愛らしい教会でした。

Temple St-Georges Montbliard 01 
Temple Saint-Georges de Montbéliard

プロテスタントのサン・ジョルジュ教会Temple Saint-Georges)でした。現在では宗教的な役割は果たさず、講演会などをする公共施設として使われているようです。こちらも閉まっていて入ることができませんでした...。


プロテスタントが保護されていたモンベリアールの町には、フランスのプロテスタントの信者たちを逃れてきたようです。それで1607年に完成したサン・マルタン教会では狭くなったため、町外れに2つ目のプロテスタント教会として、このサン・ジョルジュ教会が建てられたのでした。建築が始まったのは1674年。

全体の姿を撮影できなかったので、上に入れたのはオープンソースとしてWikipediaに入っていた写真です。この写真を撮ったのは、ここから斜面を上がったところにそびえるカトリック教会に続く階段の上からだったはず。

サン・マンブッフ教会(Église Saint-Maimbœuf) という名のカトリック教会には度肝を抜かれました。

モンベリアール城にあった教会をここに移すことにしたのが19世紀半ば。プロテスタントのメッカのようになっていた町に、カトリック教会の偉大な姿を見せようとして建てたのだろうという意図が、何も説明されなくても分ります。

なにしろ、地形的にいってプロテスタントのサン・ジョルジュ教会を威圧する丘の上に立っている。プロテスタントの教会があるところからは、大きな階段を上がっていきます。

これでもか?! というくらい威圧的な建物でした!


Église Saint-Maimbœuf de Montbéliard

もちろん、中もご立派です。
近代の建築なので、惚れ惚れする美しさはありませんが...。



このサン・マンブッフ教会の建設は1850年に始まって、1975年に完成。

これだけ大きな教会を建てようということになったということは、19世紀半ばには、フランスでのカトリックが絶対的な地位になったということなのでしょうね。


宗教戦争

フランスはカトリックの国と言われますが、宗教改革に始まるカトリックとプロテスタントが激しく対立した時代があったことを思い出しました。

フランスではGuerres de religion(宗教戦争)と呼ばれますが、日本ではユグノー戦争と呼ぶ方が一般的でしょうか。休戦の時期も挟んで、1562年から1598年まで続いていました。カトリックとプロテスタントの対立が生んだフランスの宗教戦争は、1598年のナントの勅令で終わったことになっていますが、それで終止符が打たれたわけではなかった。

学校でもフランスの宗教戦争のことが歴史の授業に出てきて、穴埋め問題の解答にする文字は覚えていますが、どんなだったのかはすっかり忘れてしまっています。モンベリアールの町にプロテスタントの教会が建てられた時代背景を、フランス語の単語も確認しながらメモして、宗教改革があった時代を復習してみました。

1517年マルティン・ルター(Martin Luther)らにより、カトリック教会の改革を求める宗教改革運動(Réforme protestante)がおきる
1520年頃マルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられる
1524/25年
モンベリアールを統治していたドイツのヴュルテンベルク家は、フランスの宗教改革者ギョーム・ファレル(Guillaume Farel)を招いてプロテスタントを広める
1534年檄文事件(Affaire des Placards)を機に、フランスでのプロテスタント弾圧が始める。
ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)はフランスからスイスに亡命したが、1536年にラテン語で『キリスト教綱要』を出版。フランス語訳(Institution de la religion chrétienne)は1541年出版
16世紀後半アンリ2世(在位: 1547年 - 1559年):
カトリックとプロテスタントの間の緊張感が高まる
1562年宗教戦争(ユグノー戦争)勃発
1572年サン・バルテルミの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy)。カトリックがユグノー数千人を虐殺する
1598年ナントの勅令(Édit de Nantes)。
宗教戦争に終止符がうたれ、プロテスタントの信仰の自由を保障し、一定地域に限って礼拝が認める
1607年モンベリアール公フリードリヒ1世(Frédéric Ier de Wurtemberg)がプロテスタントの教会として築いたサン・マルタン教会が完成。
モンベリアールは、19世紀まで、フランスのプロテスタントたちが逃れる地となる
1610年ナントの勅令を発したアンリ4世は、狂信的なカトリック信者により暗殺される
1627/28年ラ・ロシェル包囲戦。ユグノーはルイ13世とカトリックに敗北
1674年モンベリアールで、2つ目のプロテスタント教会の建設が始まる
1685年ルイ14世は、ナントの勅令を破棄するフォンテーヌブローの勅令(Édit de Fontainebleau、Révocation de l'édit de Nantes)に署名する
1793年モンベリアール伯領はフランス領土となる


現代のフランス人の宗教心は?

フランスはカトリックの国と言われますが、欠かさずミサに通うような敬虔な信者は非常に少なくなってきています。それでも、フランス人が持つ宗教に関する統計ではカトリック信者の割合が高くなっています。

フランス人の宗教に関する統計は、調査によってまちまちの結果がでているのですが、Wikipediaに出ていた統計の中から、データが最も詳しかったCASのアンケート調査結果を一例として載せてみます。

信仰する宗教比率 (CASアンケート結果)
2006年1994年
カトリック敬虔な信者27 %67 %
神の存在に疑問を持っている信者15 %
神を信じてはいないが、伝統的に信者 9 %
カトリック信者 合計 51 %
プロテスタント3 %3 %
キリスト教 (宗派の特定なし) 4 %分類項目なし
キリスト教徒 合計58 %70 %
イスラム教4 %2 %
ユダヤ教1 %1 %
宗教なし31 %23 %
意見なし6 %-

アンケート調査によって数値が異なるわけですが、カトリック信者は45%~65%、プロテスタント信者は2~4%、イスラム教徒は3~8%が現状という感じでした。

プロテスタンティズムの最盛期のフランスでは、人口の10%(約200万人)がプロテスタントだったのに、宗教戦争後には5%程度までに減少したとのこと。その後のフランスではカトリックが絶対的な優勢を誇ったわけですが、近年の宗教離れはカトリック信者の減少が大きく影響しているように見えました。

 シリーズ記事: フランシュ・コンテ旅行記 (2014年3月)  目次


ブログ内リンク:
★ 目次: 宗教建築物に関する記事
★ 目次: フランスで感じるキリスト教文化
★ 目次: 戦争に触れて書いた日記

外部リンク:
☆ Wikipedia: ユグノー戦争
フランスの宗教 - ダニエル・エルヴェ=レジェ
☆ Wikipédia: Religion en France
☆ 社会実情データ図録: ▽世界各国の宗教


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2013/06/30

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その9


古代の要塞が残っているのを見ようと目指したのは、サン・モレ村(Saint-Moré)。 ブルゴーニュ地方ヨーヌ県にあります。

村に入ってまず目に止まったのは城。



観光客が見学できる城ではないようなので、外から回ってみる。

城の横に公園ができていて、ペタンクを楽しんでいる人たちがいました。



ペタンクが楽しめるように整備されていて、ゲームが終わったときに行けるようなカフェが近くにある。人口200人足らずの小さな村なのに、住み心地が良さそうに見えました。

ゲームを見学しながら村人たちとおしゃべり。でも、私たちの目的地は遺跡です。場所を教えてもらいました。 歩いて行くと坂道を登ることになるのだそうなので、再び車に乗る。


森に入る

うっそうと植物が茂っている森がありました。その中に遺跡があるらしいので、入口に車をおいて歩いて行く。

「森のアスパラガス」と呼ばれる野生植物がたくさん生えていました。



もう食べごろは過ぎてしまって、花になっています。

日本では高級食材になっているらしい。

でも、フランスの田舎で野生のアスパラガスが生えているところでは、いくらでもあります。

キノコのように、フランス人たちが競争で採りに行く食材ではないのは確か!


Le camp de Cora遺跡

しばらく森の中を歩くと、遺跡に行き当たりました。



説明パネルが出ていなかったら、ただの石垣かと思ってしまうところ。

なんでこういうところに石垣があるの? と思ってしまうところは、あちこちで見かけるのです。

何もないところにあった石垣を見たときの日記:
道端で見つけた美しい石 2010/10/05

この地には、新石器時代から人が住んでいた痕跡があるのだそうですが、古代ローマの侵略があった時代には、ローマ街道を作るための防衛基地になったとのこと。その遺跡なわけです。 



この「Le camp de Cora((コラ野営地)」と呼ばれる要塞は、小高い丘の上にあります。112メートル下にはCure川が流れているので、要塞に適していた地形だったらしい。

要塞は囲い込んだ形ではなくて、1面だけ、屏風のようにできていました。2.7メートルの厚さの壁が190メートルに渡ってできおり、見張りの塔が7つあった。要塞の下には2メートルくらいの堀もできていた。この要塞の後ろには25ヘクタールの陣地があって、要塞の壁がない側は自然の地形で守られていた。

なるほど... と思うけど、見たところ、普通に見えてしまう石垣しかない!

「魚の骨」と呼ぶ石の積み方。魚の鱗と言われればそう見える、斜めに積んだ石です。




子どもたちが勉強しに来た時に、楽しみながら見学できる配慮もありました。



上の部分には、目の前に見えるものの説明。下の部分はクイズになっていて、その先に進むと解答が書いてあります。


こういう遺跡を見に来るのは、そういうことに興味がある人たちや子どもたちでしょう。遺跡があるサン・モレ村は、洞窟に住んでいた変人がいたことで有名なのだそうです。

その人のことについては、次の日記で書きます:
洞窟で隠者のような生活した、ヨーヌ県の伝説的な男性の話し

外部リンク(Le camp de Coraについて):
Le camp de Cora
Site archéologique de Cora
☆ Wikipédia: Camp antique de Cora

ブログ内リンク:
★ 目次: 春の旬野菜 / アスパラ
★ 目次: ブルゴーニュの歴史


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2013/06/29

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その8


ヴェズレーのすぐ近くにあるサン・ペール村(Saint-Père)に、Fontaines Salées(塩分を含んだ泉)という観光スポットがあります。

1934年から発掘が行われていて、ヨーロッパでも珍しいと言われるう古代遺跡。でも、古代遺跡などというのは、草むらに何かが見える程度という感じがして行く気にはならないでいたのですが、何もなくてもともと、という気持ちで入場してみました。



ここは何だったという説明を読まないと何だか分らない遺跡ではあったのですが、2つの理由ですっかり気に入りました。

第1は、モルヴァン自然公園として草むらが残されていて、野生の花が咲き乱れていたこと。遺跡の前に入れたのは、大好きな野生のランです。

第2は、管理人の男性が、ここにある井戸の掃除をしているのに立ち会えたこと。


紀元前2,300年ころ、新石器時代、ここで水を汲みとる井戸がありました。紀元前1,500年から100年ころにかけては、泉の水から塩を取り出す。ここの地下水は、塩化ナトリウムが含まれたミネラルウオーターなのだそう。

古代ローマ文化の影響を受ける時代になると、温泉場として利用されます。 遺跡のパネルでは、こんな風な施設だったと説明していました。



その後、湯治場は衰退し、西暦4世紀には廃墟にすぎなくなりました。ところが14世紀には、近くにあるヴェズレーの修道院の塩貯蔵庫ができ、村人たちが水を汲みに来ることは禁止になります。17世紀から大々的に修復されますが、18世紀には王家が使用禁止令が出ます(塩の税金をとれないから?)。

そして1934年、中世の歌に歌われていることから学者が忘れ去られていたこの遺跡を発見し、発掘が開始。


新石器時代の井戸の掃除

井戸があって、ポンプから水をくみ取って飲めるところがありました。怖いのでゴクリとは飲まないで、なめてみたのですが、確かにしょっぱい。

入場券を売ってくれた人が、少ししたら古代の井戸を掃除すると言っていたので、それを待ちました。バキュームの装置で井戸の水を抜くようです。



音も凄まじかったですが、見る見るうちに水が減っていきました。



この後が見もの! 中央に、樫の木をくりぬいて作った樽のようなものが埋め込まれているのが出てくるのです。

樽が露出してきました♪



http://www.saint-pere.fr/tourisme/fontaines-salees-historique.htm

この後に行った博物館には、掘り出した樽が展示されていました(右の画像)。

このような樫の樽で作った井戸が19あったそうですが、そのうちの14は今でも使える状態で残っています。

掃除をしているのとは別のところにある井戸の説明書きを見ると、直径80cm、高さ1.2mの底なしの樽。

年輪から木齢を計算すると、紀元前2238年に倒された木なのだそう。少なくとも紀元前700年まで使われた、とありました。

4,000年以上前の樫で作った樽。そんなに長いこと水につかっていても腐らないものなのですね。

ここの湧いてくる地下水をためて、日干しして塩を作ったのでした。


カエルになれないオタマジャクシ

井戸の水がなくなったら、オタマジャクシがいるのに気がつきました。作業をしている人に、オタマジャクシが干上がってしまう... と声をかけました。

後で知ったのですが、水を完全に抜いてしまうためのではなくて、掃除してから綺麗な水に入れ替える作業だったのでした。だから、一時的に水がなくなってもオタマジャクシは大丈夫だったはず。

でも、作業していた男性は、オタマジャクシを1つ1つ拾って、水が残っている桶の中に入れてくれました。

そして、私に言う...。

この水は微量の放射能が混じっているので、カエルになれない子が多いのですよ...。

ここは花崗岩が基本のモルヴァン地域。花崗岩があるところだと、自然に放射能が多くなる、と聞いたことがあります。

自然に発生する放射能程度なら、日本でもラドン温泉とかあるし、そんな感じで保養地に適しているから古代ローマ占領時代には利用されていたのでしょう。でも、水の中で暮らすオタマジャクシには不幸な環境なのでしょうね...。

管理人の男性は、オタマジャクシを手に乗せて見せてくれました。気持ち悪いと思う方があるかと思うので、小さな写真にしておきます。



並べて私に見せてくれて、「この子は蛙になれそうだな~♪」などと言いながら、違いを見せてくれました。

井戸のお掃除。生えてしまっている水ゴケ(?)なども取り除いていました。



私が蛙になれないオタマジャクシを悲しく思ってしまったのを察してくれたのか、作業が終わると近くにある別の井戸に住むカエルを見せてくれました。



ちゃんと育つと、こんな風になる。
小さなカエルを手にのせて、いとおしそうに撫ぜながら見せてくれました。

自然保護に情熱を燃やしている人なのが伝わってきます。ここの敷地内の芝刈りも彼がしているのだろうと思うのですが、野生のランがあるところはしっかりと残しているのです。ここにランがあるという標識を立てているわけでもないのに、場所を知っているようす。それを指摘したら、嬉しそうな顔をしていました。

私は野生植物に興味があるので、色々な話しを聞かせてくれました。

いつも思うのだけれど、自然が好きで、それに関係した仕事を職業にできる人は幸せそう...。


ここの遺跡とペアになっている博物館が同じ村の教会の横にあったので、そちらにも行ってみました。出土品がたくさん陳列されていて、取り出した井戸の中の樽もあって、小さいながら非常に充実した博物館だったので大満足。でも、館内は撮影禁止だったので写真はありません。

全く有名ではないこの遺跡が気に入ったので、もう1つ、全く有名でない古代遺跡にも行ってみました。

モルヴァンって、不思議な魅力がある地域。ここからもう少し離れたところにあるモルヴァン地域の大きな町オータン(Autun)には、驚くほど立派な古代ローマ時代の遺跡が残っています。

外部リンク:
☆ Wikipédia: Site archéologique des Fontaines Salées
☆ Mairie de Saint-Père: Les Fontaines Salées
☆ Sens et le Sénonais antique et médiévalLes: Fontaines-salées
☆ L'encyclopédie - L'Arbre Celtique: Fontaines Salées

ブログ内リンク:
★ 目次: ブルゴーニュの歴史
★ 目次: 飲料水について書いた記事


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2013/06/27

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その6


時間がたっぷりある旅行だったので、滞在したヴェズレーの近くでヴォーバンの足跡をたどる、というテーマを作りました。

ヴォーバン(1633~1707年)はルイ14世に53年間仕え、近代的な築城法、いわゆるヴォーバン式要塞を作った人として有名です。彼が設計した、攻め落とすことが不可能な構造の要塞と要塞都市は130カ所あって、そのうち12が世界遺産に登録されているのだそう。

私がヴォーバンの名を初めて聞いたのは、函館の五稜郭のモデルだったからのような気がします。 でも、函館の五稜郭は星形の美しい空間なのに対して、実際にフランスでヴォーバンの要塞を見たら、怖くなるくらいの堅固な姿なので驚きました、

例えば、ブルゴーニュから近いのでよく行く機会がある、世界遺産に登録されているブザンソンの要塞を遠くで見ると、こんな姿 ↓



この要塞を上空から見た姿はWikipediaに入っています: Citadelle de Besançon

ところで、フランス人たちは「ヴォーバン(Vauban)」と呼ぶか、タイトルの「元師」を付けて「Maréchal de Vauban」と呼ぶかだと思うのですが、彼の名前はSébastien Le Prestre de Vauban(セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン)と長ったらしいのでした。


ヴォーバンが所有していたバゾッシュ城

ヴェズレーから10キロくらいのところに、ヴォーバンが所有していた城Château de Bazoches(バゾッシュ城)があります。ヴェズレーからどこか観光スポットに行きたいと思ったとき、最も行きやすいところ。



前回に行ったときの記憶がまだ新しいので、それほど好きでもないバゾッシュ城に行きたいとは思わなかったのですが、一緒に旅行した仲間のうちの2名が行ったことがないので、行くことになりました。



立派なお城です。
ヴォーバンは、この城を1675年に購入しています。

現在のオーナーは観光に力を入れているようで、内部は料金を支払って見学する人をがっかりはさせないように調度品で飾られていました。





ヴォーバンの時代のものが残っているわけではなくて、城のオーナーが集めて、ヴォーバンが住んでいたときの雰囲気を出そうとしているのが分かるので、私はこういう城はあまり好きではない...。

一緒に行った仲間の女性も「この城は好きじゃない」と言っていました。ヴォーバンはフランスの黄金時代を築いたルイ14世時代に活躍した人。こういうのが好きなのは男性たちではないかな?...

壁面に家系図の装飾がある部屋がありました。紋章がエナメル加工でよくできている。



やたらに立派な部屋だと思ったのですが、城のサイトを見たら、貸しホールとして使っているのでした。フランスでは、城を借り切って、夜通し結婚披露宴を開くことがよくあるのです。 ちなみに、ここは60人が座って食事できる150㎡の広間で、貸切り料金は1,300ユーロ(税抜き)。

庭からの眺めは素晴らしかったです。 遠くにヴェズレーの丘が見えました(矢印を入れたところ)。



先日、あちこちから見たヴェズレーの丘の写真を入れたページを作ったのですが、これも入れるべきだったかな...。
永遠の丘ヴェズレーを色々な角度から眺める 2013/06/23


ヴォーバンの墓

城があるバゾッシュ村(Bazoches)にはヴォーバンの墓があるので、その教会にも行ってみました。



教会前にはヴォーバンの銅像が立っています。

教会内部の床にヴォーバンの墓石があって、そこに説明がついているのですが、ちょっと質素..。 説明書きだけが立派でした。

 

この写真を撮ったのは数年前に行ったとき。下に今回撮影した写真を入れます。壁の老朽化を少し修復していたかどうかは記憶なし...。



ヴォーバンの心臓は、祖国の英雄としてパリのオテル・デ・ザンヴァリッドに収められていて、そちらにある墓は立派です。

Vaubaninvalides01 
Les Invalides : Mausolée où est déposé le cœur de Vauban


ヴォーバン博物館

近くの村にヴォーバンの博物館があるので、別の日に行ってみました。

博物館があるのはヴォーバンが生まれた村で、その名もSaint-Léger-Vauban(サン・レジェー・ヴォーバン)。ただし、ヴォーバンが生まれた当時の村の名前はSaint-Léger-de-Fourcheretだったとのこと。 

博物館のポスターが魅力的だったし、別の博物館に行ったときに薦められていたのです.。

でも、こんな酷いミュージアムはないよ! と怒りたくなるくらい、つまらない展示物でした。

そもそも、ヴォーバン時代の所蔵品が1つもないのです。

展示されているのは、写真と文章のパネルばかり。

小さな家を使っているので、それもすぐに見終わってしまう。というか、わざわざ博物館に行って、書いてあるものを読むなんてつまらないではないですか?

来る人は少ないだろうと思います。受付けの女性が鼻をかむ音が館内に響き渡っていました。

2日間の真夏日の後、また寒くなったので風邪をひいてしまったのでしょうね。それにしても、こういう場面にあうと、いつも思うのですが、フランス人って、どうやって、こんな大きな音を出して鼻がかめるのだろう?!...

ビデオの上映があったので、部屋に入ってみました。

これも酷いシロモノ。

滑稽なくらいに安物の昔の衣装を着た男性が、すでに見学したバゾッシュ城でしゃべっているのです。何も新しいことを教えてくれるわけでもなく、全く面白くないけれど、最後まで見ました。

ここはエコミュージアム。郷土の文化を展示するという、非常に良いコンセプトなのですけど、こういう風に、面白みがないところが多すぎるのですよね...。

ヴォーバン城の中で展示しているのだったら、それなりに良かったと思うのですが、城は個人が所有しているので折り合いがつかなかったのでしょうね。

展示するものがなかったら、博物館なんか作るべきではないですよ...。 入場料5ユーロも取るなんて許せない! 他のミュージアムとの組み合わせがあったので、料金は4ユーロだったけれど、それでも高すぎると思う。


アヴァロンの町にもヴォーバン...

この地域では、よほどヴォーバンの出身地であることが誇りのようです。ヴェズレーから近いアヴァロン(Avallon)の町にも、広場にヴォーバンの銅像が立っています。



気にしないで見ていた像なのですが、この日記を書きながら調べていたら、自由の女神像を作った彫刻家オーギュスト・バルトルディ(Auguste Bartholdi)の作品なのだと知りました。

ヴォーバンに関して学べる博物館を探すなら、ヴォーバンの作った要塞都市とか、別のところにちゃんとした展示があるのではないかな?...

私が行ってしまった博物館などに行くより、勉強になる動画を見つけました。

Vauban, le vagabond du roi (Louis XIV, fortifications)


ブログ内リンク:
★ 目次: 城について書いた記事ピックアップ
★ 目次: 宗教建築物に関する記事

外部リンク:
☆ Wikipédia: Sébastien Le Prestre de Vauban
☆ フランス観光開発機構: ヴォーバンの防衛施設群
Bio-bibliographie de Vauban
☆ オフィシャルサイト: Château de Bazoches
Écomusée du Morvan - Maison Vauban


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2013/04/26

シリーズ記事目次 【ディジョンからニュイのブドウ畑に行った1日】 目次へ


先日の日記「オート・コート・ド・ニュイのブドウ畑を眺める」で書いたように、この町を境界線にしてブドウ産地の名称が分かれています。

それを書きながら、しばしワインからは脱線して、ニュイ・サン・ジョルジュ町について調べていました。

Ville nuits-saint-georges

言っては悪いけれど、ニュイ・サン・ジョルジュは観光する町としてはあまり魅力がありません。

ブルゴーニュ公国の古都だったディジョン市と、ブルゴーニュワイン産業の中心地であるボーヌ市には観光するものがありすぎるので、その2つの町に挟まれたニュイは陰に隠れてしまうのかもしれません。

町の中を観光するとしたら、とってつけたみたいはミュージアムの他に何があったっけかなと調べてみたら、城がでてきました。

自分の写真アルバムを見たら、その城がニュイ・サン・ジョルジュで分類されていました。どうやらホテルになっている感じ。でも、こういう城は私が泊まるタイプではないので、城を見に行って写真を撮ったもよう。Château de la Berchère です。外国人がたくさん泊まる、と地元の人に紹介されていたのだっけかな?...

もちろん、集落からは離れていました。市といっても、かなり広がっている町なのですね。思い出せば、ブドウ畑が途切れる小高い上にある直売農家も住所はニュイ・サン・ジョルジュ市だった。

それは、どうでも良いのですが、気になることが2つあったのです。


ニュイ・サン・ジョルジュという町の名前

昔から知っている町の名前なのに、なぜか今回気になりました。

ニュイ・サン・ジョルジュ(Nuits-Saint-Georges)ですが、ニュイは夜(複数形)。それに続くサン・ジョルジュは聖人の名前。

描かれるときはドラゴンを退治しているのがシンボルの聖ジョルジュなのですが、日本語では聖ゲオルギオスですか。

Vittore carpaccio, san giorgio e il drago 01

とすると、ニュイ・サン・ジョルジュは「夜の聖ゲオルギオス」?

ブルゴーニュの物知りの友人に聞いてみたら、この町の名前は、もともとは「ニュイ(Nuits)」だったのだと教えてくれました。それが「Nuits-sous-Beaune」という名前になって、その名前を嫌ったニュイの住民たちが長い年月かけて今の名前にしたのだそうです。

サン・ジョルジュと聖人の名前を市町村につけたのには違和感がありません。以前に書いた記事を読み直してみたら、フランスの市町村の12%が聖人の名前を使っていたのでした。

つまり、ニュイにそれを付けただけなのでした。私が思ったのとは全く逆だった!

でも、単に村にまつわる聖人を選んだのではなくて、この地域の中で特に優れたワインができる畑の名前からとったのだそう。

調べてみたら、Les Saints-Georges(レ・サン・ジョルジュ)というプルミエ・クリュ(1級)のアペラシオンがありました。

でも、ニュイ・サン・ジョルジュという銘柄もあるのだから、サン・ジョルジュでは分りにくくなってしまったのではないかな?...

追記:
徒然わいんさんがコメントを下さったのを読んで気がつきました。
他にも、ニュイのようにワイン畑の名前がついた市町村名があるので、紛らわしいという問題ではないのでした。
ブルゴーニュのワインの銘柄は市町村の名前がついていると思っていたのですが、逆に今日ではアペラシオンになっている銘柄が市町村名になっている例が幾つもあるのでした!



この物知りの友人には、何か分らないことがあったらWikipediaで調べてはいけないと言われているのですが(でたらめばかり書いてあるから)、やはり便利なので、町の名前が変わったのかどうかを調べてみました。

ちゃんと書いてある!

1849年、鉄道の駅がニュイ町にできたのだが、同じ路線にNuits-sous-Ravière駅というのがあった(お隣のヨーヌ県)。それで、混乱を避けるために、ニュイ町はNuits-sous-Beauneと改名された。1892年、町はNuits-Saint-Georgesと改名された。

この部分の記述が正しいとすると、町の改名に要した年月は半世紀弱というわけですね。もっと、長くかかったのかと思ったのですけど。


なぜ、Nuits-sous-Beauneという町の名前が気に入らなかったのか?

これは、想像がつきます。

Nuits-sous-Beauneだと、ボーヌ市(Beaune)に近いニュイ町となるわけですが、「sous」というのは「下」の意味がある。

ボーヌの傘下とやられるのも気に入らなかったのでしょうが、ここはワインの町。まるでニュイのワインがボーヌのワインの下にランクされてしまったような感じにもなってしまうからでもあったのではないでしょうか?

地名が下に置かれるみたいな単語が入っていると改名したいというのは今でもあります。

有名なのは、ノルマンディー地方。行政区分ではHaute-NormandieとBasse-Normandieの2つの地域圏に分かれています。Hauteとは「高い」という意味で、Basseは「低い」。低いという文字を付けられた方は、やはり気に入らないようです。ここなどは、1つにして「ノルマンディー」とすれば良いのに...。


ボーヌの下にされたというだけではなくて、ボーヌとニュイが仲が悪かったのかもしれない。

近くにある町同士が、歴史の中で犬猿の仲になっているというのはよくある例なのです。

地元にいると聞けるだけの話しですが、こんなのがあります。

● ボーヌとディジョン。
ディジョンの住民は、ボーヌの住民を「ロバ」と呼んでいた。

ディジョン生まれの詩人・劇作家アレクシス・ピロン(Alexis Piron: 1689~1773年)が「les ânes de Beaune」という言い方を始めた張本人なのか、すでに言われていたのか知りませんが、ボーヌの人たちをロバ呼ばわりする有名な言葉を幾つも残しています。

[注] フランス語でロバは、間抜けという意味があります。
過去に書いた記事:
昔のフランス: 劣等生には「ロバの耳」の罰則 2008/05/07


同じブルゴーニュ地方で、マコネ地域(マコン市中心地域)の人々は、ソーヌ川の向こうにあるブレス地域の住民のことを「黄色いお腹」と呼ぶ。

[注]
ブレス地方はトウモロコシがよく育つ地域で、昔はトウモロコシからパンを作ったりして主食としてので、黄色いお腹になってしまう。単純にそれが理由かと思うと、この謂れには色々な説があります。

私がもっともらしく感じたのは次の説:
大量の若者が戦死した第一次世界大戦のとき、ワインを作るマコネ地域にブレスの若者が来てお嫁さんにしてしまった。つまり、ブドウ畑をとられた)という恨みから。



思い出せば、半年ほど滞在したエクス・アン・プロヴァンスも、近くにあるマルセーユと犬猿の仲だと地元で教えられました。これは未だ根強く残っているようで、地元の人にマルセーユが好きだなんて言わないように気をつけたのを覚えています。

[注]
ブルジョワの町エクス・アン・プロヴァンスと、庶民的なマルセイユという対立。このパターンは悪口を言いあうには格好の材料のようで、あちこちに例があります。



変な呼び名...

ともかく、Nuits-Saint-Georges(ニュイ・サン・ジョルジュ)の町の名は、ニュイにサン・ジョルジュが付いたのだと学びました。

ついでに覚えたのは、ニュイ・サン・ジョルジュの住民の呼び名。パリの住民をパリジャンあるいはパリジェンヌと呼ぶように、全ての市町村に呼び名があるわけなのですが、フランスの市町村は36,000以上もあるのです。

全部覚えきることはできませんが、関係するところは覚えておいた方が良い。最近はインターネットで簡単に探すことができますが。

ディジョンとボーヌは知っていたのですが、ニュイ・サン・ジョルジュは知らなかった。

男性はNuiton、女性はNuitonneなのだそうです。ニュイトンなんて、なんだか変なの...。

でも、もっと変なのもあります。
例えば、ブルゴーニュにあるPoilという村。

住民が「J'habite à Poil.」なんて言うことがあるのだろうか? 「私は裸で生活しています」みたいに聞こえてしまうのです。

さらに、この村の住民の呼び名はPoilu(女性はPoilue)なのです。これだと、綴りも発音も「毛むくじゃら」と同じ単語。さすがに、使いたくないからでしょうが、Pixien / Pixienneも存在しています。いつか、この村に住んでいる人にあったら、どうしているのか聞いてみたい。

変な名前と言えば、Ciel(空の意味)という名の村もブルゴーニュにあって、そこであった悲しい話を書いたこともありました:
天国に送った手紙は・・・ 2008/03/09


ニュイ・サン・ジョルジュ町について気になることが2つあると書いたのですが、もう1つの方のことも書きました:
日本とフランスの姉妹都市が誕生するとき

ブログ内リンク:
★ シリーズ記事目次: フランスの市町村について

外部リンク:
Comment s'appellent les habitants de... ?


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2012/06/20

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その7


私はフランス人たちとは違う文化の人間なのだな... と、一番初めに痛感したのはいつだったかな?...

時々、それを感じたのが断片的に記憶に残っています。例えば、フランスから行くエジプトのツアーに参加したときのこと。

ナイル川クルーズの後、シャルム・エル・シェイクに2泊というのがスケジュールに入っていました。そこから、シナイ山麓にある聖カタリナ修道院を見に行くオプショナルツアーがあったので、参加しました。

海岸のリゾート地でのんびりするのは趣味ではないので、観光を選んだくらいの気持ちの参加。その修道院は「出エジプト記」の舞台で、モーゼにまつわっている、という程度にしか捉えていませんでした。

ツアーの仲間のフランス人たちは、ほぼ全員が参加。しかも、えらく楽しみにしている様子なので驚きました。

クリスチャンでない人たちも、モーゼが神の言葉を授かったとされる「燃える柴(英語でもBurning bushですが、仏語だと意味ありげにBuisson ardent)」に感激している。

翌朝はシナイ山のご来光を見に行くというのもあったのですが、寒さと暑さで大変だと言われて私は尻込み。勇敢に夜中に出かけて帰ってきた人たちは、これまた感激していました。

クリスチャンかどうかは抜きにしても、フランス人にとっては、キリスト教は根強いものがあるのだろうな...。


ユダヤ人迫害はいつ始まったのか?

キリストを殺したのがユダだから、ユダヤ人が憎まれるのだ、と思っていたのですが、腑に落ちません。だって、キリスト自身もユダヤ人ではないですか?

日本語だと、ユダ(イスカリオテのユダ)とユダヤ人で結びつく単語になりますが、フランス語ではJudasとJuifsで、似ているといえば似ている程度。英語ではJudasとJewsで、全く無関係に見えてしまう...。

ユダヤ人迫害には、妙に根強いものがあると感じます。フランスにいると、いまだにユダヤ人を区別しているで奇妙です。人の名前を聞くと、彼らはユダヤ系かどうかを判断できるのです。それで、そんなことは判断できないであろう私に、「あの人はユダヤ人だ」とわざわざ教えてくれるのです。

その人がケチだったりすると、「ユダヤ人だから」となる。そんなことを言う人でも、またヴィシー政権のような政府ができたって、迫害なんかには加担しないだろうと確信は持てるのですが、なぜユダヤ人であると区別するのか不思議です。 

ユダヤ人迫害はいつ始まったかが気になってきたので、調べてみました。


中世に芽生えた?

まず、簡潔に書いてあるフランス語情報を読んでみたのですが、驚きました。ユダとユダヤ人の関係などには触れていないのです。

現代の反ユダヤ主義者たちの根拠とすることには、古代から中世初期にかけて正統信仰の基礎を築いた教父(ヨハネス・クリュソストモスやアウグスティヌスなど)の著述を持ち出すけれど、実際にキリスト教徒に反ユダヤの観念が広まったのは中世だ、とありました。

11世紀にはじまった「十字架のために聖地パレスチナを異教徒から奪回せよ」という十字軍。特に、12世紀から13世紀にかけての時代にユダヤ人迫害のルーツがあると書いてありました。十字軍はイスラム教徒をやっつける目的だったはずですが、ユダヤ人も殺害していたのでした。

中世に、ユダヤ人は悪者だとするデマが大きくなっていきました。世の中の分からないことは、みなユダヤ人のせいにしてしまう?...

ユダヤ人はキリスト教徒の子供たちを殺す、キリストを再び十字架にかけようとしている、血を飲んだり臓器を盗もうとしている、などの作り話が西ヨーロッパに広がった。さらに、中世からルネサンス期にかけて、魔女、悪魔、ペストなどが、ユダヤ人の仕業とされてしまう。

ユダヤ人はこれを商売にしたのがデマに信憑性を持たせてしまった。つまり、金をむさぼるということが、子どもを暗殺して血をむさぼることに結びついた。

利子をとって金を貸すのは、キリスト教では許されていなかったのだそうです。今の世の中もそうですが、汗水流して働くより、お金を転がす方が儲かる。

お金持ちにはやっかみを持つ、というところでしょうか? でも、今は逆に尊敬してしまうという傾向があるように感じますけど...。

1144年、ノリッチ(イギリス)で最初の血の中傷事件がおき、このデマがヨーロッパ中に広がった。

19世紀になると、ロシアなどで再び反ユダヤ主義が持ち上がってくる。

ユダヤ人世界征服陰謀の神話『シオン賢者の議定書』がロシアで出版され(反シオニズムを掲げたロシアの偽書といわれる)、20世紀に入ってから世界中で読まれる。

この書物は日本にも入ってきているし、ヒットラーにも影響を与えたらしい。

一方、ユダヤ陰謀論のテーマを扱った小説としては、ドイツのHermann Goedscheが書いた『Biarritz』が最初だったそうです(1868年)。


つまり、ユダヤ人迫害は、キリストの身を銀貨30枚なんか売ってしまったユダに対する憎しみ、などという単純なものではないのですね。

さらに、ヒットラーが突如としてユダヤ人の迫害をやった、というものでもないのだ...。

キリスト教とユダヤ教の対立が土台になっているとすると、理解できることがありました。ホロコーストは、ユダヤ教徒の迫害に止まるのではなく、ユダヤ民族に対する迫害なのですから。

 
ユダヤ人を標的にした話しをでっちあげて、てデマを飛ばす。

噂は噂を大きくし、しまいに人々に本当だと思い込ませてしまう...。

怖い構造ですね。昔読んだ本の重みが感じられました。


十字軍の先頭に立ったフランス大統領

十字軍で思い出したことがあります。
1年余り前、フランス内務大臣が失言したときのこと。

サルコジが先頭に立ってリビア攻撃を始めたことを、内務大臣がくすぐったいほど褒めあげて言いました。

幸いにも、サルコジ大統領は十字軍の先頭にたって、国際連合安全保障理事会に行動を起こさせました。


Claude Guéant:Sarkozy a pris la tête de la croisade!

さんざん悪口を言われているサルコジ大統領だけれど、今度は良いことをしたではないですか~! と、この機会を利用して言いたかったのでしょう。

こういう顔をして上司にへつらうお父さんって、日本にもいるな... と、私は面白がっていたのですが、フランス人たちの反応は違っていました。

「十字軍」を持ち出してきたのがいけなかった!
すぐに非難の声があがりました。

カダフィーはアラブ世界の人。それを欧米の手で制裁しようとしている、という図。つまり、イスラム教徒を制圧しようとするキリスト教徒の挑戦だから内務大臣は誇らしいの? ということになってしまう。

例えが良すぎるのです!

そういうイメージで見るのは勝手だけれど、大臣が人前で言うのは問題ですよ。特にフランスは、政教分離の国だと強調しているのですから!

それに、十字軍はだんだん本来の目的から逸れて、おかしなことになったのですから、フランス大統領がすることを十字軍に例えたら、本末転倒なことをしているようで滑稽だったかもしれない。

真面目に腹を立てた人たちもいたでしょうが、普通の人は政治家のヘマに大笑いしただけだったろうとは思います。サルコジ政権では、どうしてこういう人が大臣になっちゃったんだろう? というメンバーが揃っていて、よく笑わせてくれましたので♪

例えば、猛烈に寒くなった今年の冬に、厚生大臣が発したお言葉:
寒さが厳しいときには、外出を控えましょう。特に、高齢者とか、ホームレスの人たちとか...。

ところで、フランスの政治家の失言はYouTubeなどで何年たっても見れるのですが、日本の政治家の失言はすぐに消えてしまいますね。インターネットをチェックして削除する係りの人がいるのではないか、と思ってしまうほど。石原都知事の発言などは、文章としては残っていますが、ずっと遡って全部、実際に言葉を発しているのを聞いてみたいけど...。


ところで、サルコジが勇敢に立ち上げた21世紀の十字軍。このリビア攻撃がおこったら(2011年3月19日)、少し奇妙になりました。

直前に福島原発が爆発していたので、フランスのニュースでは放射能がどう動いてフランスまで到達するかという動画も見せながら、原発の恐ろしさを報道するようになっていました。

ところが、テレビのニュースでは、リビア攻撃が原発問題を飲み込んでしまったのです。

変だな... と感じたのは私だけではなかったらしく、同じような感想を書いているブログがありました:
5ヶ月も続く不思議なNATO軍のリビア空爆

原発反対運動が高まらないように、国民の目をリビアに向けさせようとした意図もあったかもしれないけれど、サルコジは、なにがなんでもカダフィーを殺さないとまずい、という動機があったはずなのです。

このころ、サルコジは前回の大統領選挙のためにカダフィーから膨大な選挙資金(50億円超)を貢いでもらっていたことが浮上してきていたのです。

1年後には、選挙法違反問題は、かなり明らかになりました:
☆ AFP(2012/04/30): 故カダフィ大佐がサルコジ氏に選挙資金約束か、2007年仏大統領選で

話しが脱線しすぎてしまいました...。

ー 続く ―


外部リンク:
十字軍の暗黒史: 第3章:十字軍によるユダヤ人迫害の実態
ユダヤ陰謀説のウソ
☆ Zorac歴史サイト: 西欧のユダヤ人
D'où viennent les préjugés et légendes qui fondent l’antisémitisme ?


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2012/06/18

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その5


フランスでホロコーストの犠牲になったユダヤ人は77,320人。第二次世界大戦勃発時(1939年)にフランスにいたユダヤ人の22.1%に相当する、とありました。

つまり、8割近いユダヤ人は虐殺から逃れることができたことになります。

白い眼で見るフランス人もあれば、ユダヤ人を救おうとした善良な市民やレジスタンス運動家もいたのでした。ナチスに占領された時代のフランスでは、ユダヤ人をかくまったことがバレたら死刑だったわけですから、勇気ある行動でした...。


パリ・マレー地区にあるホロコースト資料館

「サラの鍵」の映画の中では、主人公のジャーナリストがサラの行方を探って資料館を訪ねていました。Mémorial de la SHOAH(ホロコースト記念館)というものではなかったかと思います。今でもユダヤ人が多く住んでいるパリのマレー地区にあります。

☆ オフィシャルサイト: Mémorial de la SHOAH - Musée, centre de documentation juive contemporaine
☆ Wikipédia:
Mémorial de la Shoah
ホロコースト記念館~Memorial de la Shoah

立派な施設のようです。パリの主だったミュージアムはどこも見学したと思っていたのですが、ここは存在さえ知りませんでした。

迫害にあったユダヤ人の名前を刻んだ記念碑の近くに、助けた人々の名を刻んだ碑(Le Mur des Justes)もあります。

1963年以来、エルサレムにあるヤド・ヴァシェム が、毎年、ホロコーストの時代にユダヤ人を助けた非ユダヤ人に「Justes parmi les nations(諸国民の中の正義の人)」というタイトルを与えているのだそう。イスラエル政府は授与の決まりも作っていて、助けたことに物質的な見返りとしてもらった人は正義の人にはなれません。

ホロコーストから助ける方法には、次のようなものがありました:

・人の目に触れないように、自宅ないし宗教上の施設などにかくまう。
・偽の身分証明書や洗礼証明書を入手して、ユダヤ人であることをカモフラージュしてあげる。
・安全な外国に行けるよう、国境越えを手伝ってあげる。
・一時的に(戦争が終わるまで)、ユダヤ人の子どもを養子して救う。

子どもを養子にしてかくまう、という方法があったのは思い浮かんでいませんでした。フランス人は、不幸な子どもを引き取るのが伝統的に好きだな、と感じます。フランスにいたユダヤ人の子どもは、85%が迫害を免れたそうです。


タンレーの町で見たもの

数年前に、クイズにするつもりで撮影したのに忘れていた写真があったのを、このシリーズを書きながら思い出しました。ブルゴーニュ地方の中で、パリに近い方にあるタンレー(Tanlay)の町を散歩していたときです。

「これ、何だかわかる?」
フランス人が指さしたのは、勝手口のような木戸でした。



これを見て、何だかわかりますか?


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2012/06/15

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その2


ヴェル・ディブの一斉検挙に関して、インターネットで集められる情報を探し出して読んだので、そのリンクを残しておきます。



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2012/06/14

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その1


第二次世界大戦中、国土の半分以上がドイツに占領されていたフランスで、ナチスの傀儡となっていたヴィシー政権は、1942年7月16日から17日にかけて、パリ首都圏で大量のユダヤ人を検挙しました。

もちろん、彼らを待っていたのは強制収容所での虐殺...。

Rafle du Vélodrome d'Hiver(冬季競輪場の一斉検挙)ないしRafle du Vél' d'Hiv(ヴェル・ディーヴの一斉検挙)と呼ばれる出来事です。

フランス現代史の中で、アルジェリア問題と共に汚点となっています。先月、期せずして、これをとりあげたフランス映画を2本見る機会がありました。

ブログに書き始めていたのですが、手におえないほど大きな問題なので中断。でも、しばらくすると調べたことを忘れてしまいそうなので、書けることだけメモして日記にしておくことにしました。

見たのは、次の2本の映画です:
La Rafle
黄色い星の子供たち

生き残った400人の証言をもとに再現
Elle s'appelait Sarah
サラの鍵

ベストセラーとなった
タチアナ・ド・ロネの小説を映画化
※DVD画像をクリックするとストーリーを読めます。

「黄色い星の子供たち(仏題は「一斉検挙」)はフランスのテレビで放映されていたものを途中から、「サラの鍵(仏題は「彼女はサラという名だった」)の方はパリから東京に向かう飛行機の中で見る、という悪条件での視聴でした。

フランス人には知名度が高いであろうユダヤ人の一斉検挙について、私は何も知りませんでした。映画をしっかりと見ることもできなかったので、パリ市内にあった室内競輪場で何がおきたのかを調べてみました。


ヴィシー政権下の出来事

ヴィシー政権には暗いイメージの嫌悪感を持っていました。

友達がヴィシーに留学したとき、美しい温泉保養地の町だから遊びに来るように誘われたのも、拒否。

なぜか、足も踏み入れたくない町だったのです。

ついでに、ヴィシーのミネラルウォーターにも手が出ない。

中学でも高校でも、現代史の授業はいつも時間がなくなって割愛されていたので、先生の意図的な行為ではないかとさえ思っていました。現代史なんて興味がないので、大学でも授業を受けませんでした。

ですので、いつからヴィシー政権に嫌悪感を持つようになったか分かりません。

ヴィシーの町も一度は見ておかねばと思って、近くまで行ったついでに立ち寄ってみたのは、ずっと後になってからでした。有名なセレスタンの泉は美しい公園になっていて、ヴィシー政権のことなど嘘のようでした...。

ところが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙は、ヴィシー政権下の出来事でした。なんとなく嫌いという程度だったのですが、本当に飛んでもないことをしていたのだと実感。

フランスは特殊な時代でした...。

第二次世界大戦が勃発した翌年、1940年にはパリは陥落。内閣は総辞職し、軍人のペタンを主席とする内閣が誕生します。

ペタン内閣はただちにドイツに降伏。そして休戦条約が結ばれ(6月22日)、そのためにフランスは、パリを含む北部と東部(国土の5分の3)がドイツ占領下におかれ、残りの地域はペタン内閣の統治下に置かれることになります。

国家元首の地位についたペタンは、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立。これがドイツの傀儡となるヴィシー政権(1940~44年)です。同時に、第3共和政(1870~1940)は崩壊しました。

早くも10月には、ユダヤ人迫害法が成立してしまいます。

一方、後のフランス大統領として名を残すドゴール将軍は、休戦協定終結の前にイギリスに亡命し、ロンドンからフランス人たちに対して、対ナチス、対ヴィシー政権を訴えて、レジスタンス運動をおこさせます。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙

1942年の一斉検挙は、ナチス・ドイツのVent Printanier(春風)作戦に従って執行されました。ショッキングなのは、ナチスがフランスでユダヤ人を検挙したのではなく、フランス政府が自ら行ったこと。

南仏につくられたドイツへの利得協力をするヴィシー政権(1940~1944年)は、9,000人もの警察官を動員して行し、1942年7月16日と17日に、パリ首都圏で13,152人のユダヤ人が逮捕されました(警察発表数)。

第二次大戦中にフランス国内で行われたホロコーストとしては最大規模のもの。そればかりか、フランス史上でこれほど大規模な一斉検挙が行われたのは、キリスト教の旧教と新教が衝突しておこったサン・バルテルミの虐殺(1572年)以来だとも言われます。

1942年の一斉検挙にかかわる画像を見せている動画です。

バックに流れているシャンソン歌は、ジャン・フェラ(Jean Ferrat)の「Si nous mourons (Lettre d'Ethel Rosenberg à ses enfants)」。

このときの検挙者13,152人のうちわけは、大人 9,037人、子ども 4,215人。大半はドイツの強制終了所に送られて殺されることになります。

これまでフランスで行われていたユダヤ人狩りでは男性が対象だったのですが、このときは女性も子どもも対象になりました。ナチスはユダヤ人なら子どもも捕まえろ、と命令したわけではなかったのに...。

ナチスの命令では、フランス国内にいる2万人余りのユダヤ人を捕まえろというものでした。逃げたり、かくまってもらったりして難を逃れたユダヤ人もかなりいたことになります。

やはり、フランス国籍のユダヤ人は大目に見てもらい、逮捕の対象となったのは東欧やロシアなどの国籍を持つ移民ユダヤ人の家族が対象となっていました。彼らはユダヤ人迫害から逃れ、フランス革命の博愛精神があると信じてフランスに避難してきていたのでしょうに...。
 

ヴェル・ディーブとは?

パリ市内のエッフェル塔に近い場所(15区)に冬季競輪場(Vélodrome d'Hiver)があり(地図)、それをパリの人たちは縮めて「Vél' d'Hivヴェル・ディーヴ)」と呼んでいました。

イヴ・モンタンの曲には「Vél' d'Hiv」と題された陽気なシャンソンがあるので(歌はこちら)、当時のパリっ子たちには親しみがある施設だったのろうと想像します。

そんな平和の象徴のような施設が、ガス室の待合室として使用されたのでした...。

パリ市内とパリ郊外で逮捕されたユダヤ人約12,000人のうち、約8,000人が冬季競輪場に入れられました。

子どもがいない人々は問題がないのでドランシー通過収容所に送り込まれ、子どもと一緒に検挙された人々がヴェル・ディーヴ入れられたようです。

室内競輪場の観客席の数くらいに押し込まれた人々は、それまでに行われたユダヤ人の検挙のときと比較しても酷い待遇を受けました。

寝るのもままならず、水も食べ物も与えられず、トイレも使えないという、非人道的な扱いで数日間拘束されたのです。

すぐ近くに住んでいた人の証言では、初めのうちは叫び声が酷くてたまらなかった、そして、ついに窓は開けられなくなった、と言っていました。臭いが酷くて耐えられなくなったのだそうです。

7月中旬、大変な暑さだったのでしょうね。室内競輪場の屋根は明かりをとるためにガラス張りでしたから、熱気と汚臭は想像以上のものがあったと思います。堪りかねた人の自殺もありました。

もっとも、警察官の中には、自分がしなければならないことに疑問を感じる人もいて、逃亡を大目に見てくれる、というケースもあったそうです。数は少ないですが、逃げ出した生存者たちが語っています。ヴェル・ディーヴに収容されながら生き残ることができた人は数百人いたそうです。

ヴィシー政権はナチスにおべっかをつかおうとユダヤ人を検挙したものの、16歳未満の子どもは引き取れないと拒否されたために、子どもの処分に困ることになりました。

とりあえず、子どもたちを母親から切り離して、子どもたちは地方にある収容所に入れることになります。

ヴェル・ディーヴはおぞましい施設となってしまったという理由よりは、パリ市内で広いスペースをとりすぎたという理由なのでしょう。1959年に解体され、跡地には慰霊のプレートがあります。


Jardin du souvenir à l'emplacement du Vél' d'Hiv

ここで非人間的な待遇で閉じ込められた人々の数は、次のように記されています:

・子ども: 4,115人
・女性:  2,916人
・男性:  1,129人

男性の数が少ないのを不思議に思われますか?

それまでのホロコーストでは男性だけが拉致されていたので、女性や子どもは安全だと信じて、普通の生活を続けていたからです。男性たちは危険を感じて隠れていたから、捕まった人は少なかったのでした。 

最後は「彼らを助けた人々には感謝あれ。通りかかりの人よ、忘れないで!」と結ばれています。

繰り返すべきでない過去は忘れない、これは大事なことだと思います。広島の慰霊碑の「安らかに眠って下さい。 過ちは 繰返しませぬから」よりは好きです。

ヴェル・ディーヴから出されたユダヤ人たちは、家畜のように貨物列車に詰め込まれて運ばれ、アウシュビッツ強制収容所で家畜のように殺されました。
 
ところで、フランスの法律では、フランスで生まれた子には自動的に国籍が与えられます。したがって、この一斉検挙で捕まってガス室に送り込まれた子どものうち、3,000人余りはフランス国籍を持っていたのでした。

戦争というのは残虐なもので、戦火にまみれて殺される市民が出るのは避けられないことですが、敵でもない人々を意図的に殺すという行為は恐ろしいと思います。中世ならいざ知らず、このような残虐行為が20世紀に入った時代に行われたというのは信じ難いことでもあります...。

戦時中にフランスから強制収容所に送られたユダヤ人は合計76,000人。おぞましい1942年の犠牲者は42,000人で、その3分の2近くが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙(2日間)で拉致された人々だったそうです。


屈辱的なユダヤの星マーク

映画で見るユダヤ人たちの胸に付けた黄色い星のマークが、やたらに大きいので驚きました。

下は、演劇をテレビドラマにした「Souvenirs d'un vieil enfant(2009年)」の一場面のようですが、マークについての決まりを説明しています。



こういうのを付けさせられるのは、余りにも屈辱的ではないですか?!...

今日これをつけても、挑発者な人だと変な目で見られる程度でしょうが... と、ナレーター役の男性が言っています。

一斉検挙に先立って、1942年7月8日からは、法律によってユダヤ人が公共の場(劇場、レストラン、映画館、市、公園など)に行くことが禁じられています。その8日後の午前4時、突然、一斉検挙が始まったわけです。


フランス政府は、50年余りたってから罪を認めた

ヴェル・ディーヴの一斉検挙はナチスに強制されてやったとして、フランスは長いこと逃げていたようです。

ようやく、1992年、ミッテランは大統領(任期: 1981~95年)として初めてヴェル・ディーヴの跡地にある慰霊のプレートの前に花をささげました。しかし、フランス政府に責任が負わされる事件ではないと主張したので、生存者のユダヤ人たちからの強い批判を浴びています。

1995年に発行された「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」の切手その次に大統領に就任したシラク氏(任期: 1995~2007年)は、1995年、ヴェル・ディーヴの追悼式典で、フランスのユダヤ人虐待に対するフランス政府の責任を認める演説をしました。

事件から50年余り経過していました。

シラク氏は保守派の人間。本来なら、社会党のミッテラン大統領がそれをするべきでした。しかし、ミッテランは頑なに拒否。

ミッテランはド・ゴール政権のときにレジスタンス運動に参加したような人なのに、その前にはヴィシー政権で働いていたということがネックになったのかも知れません。

大したことは何もしなかったと思っていたシラク氏が、フランス政府の非を認めたと知って少なからず驚きました。

でも、ユダヤ人たちの要求が高まってきて、このあたりで認めぜざるをえない状況になったのだろうという気もします。

シラクの演説を聞いてみたら、彼独特のしゃべり方なので(ニュースの映像)、ちっとも感動できないのですが、スピーチの内容そのものはかなり良いです。

ミッテランが拒否しているインタビューと、シラクの演説を並べた動画がありました。



ミッテランはかなり冷たくユダヤ人をあしらっていたのですね。憎しみに過ぎない。憎しみで国を統治することはできない。彼ら(その言い方も冷たい)が望むのは勝手だけれど、100年も待つことになるのではないか、などと言っています。

ところが、ミッテランの任期が満了した春にシラクが大統領になると、彼は夏の式典でフランス政府の非を認める演説をやってのけたのでした。動画の最後に文字がでてきますが、この演説の後にシラクが言ったという言葉です。

「ユダヤ人たちが満足してくれると良いけれど。私にはその以上のことはできないから」


他国の出来事とはいえない...

フランスの警察自らが行ったユダヤ人逮捕は酷かったと思います。

フランス革命のときも、想像を絶する残虐なことをしている国だからな...。

でも、偉そうにフランスの非を咎めるのは遠慮しましょうね。日本軍だって酷いことをたくさんしているのですから。

フランス人の友達から、ドイツは戦争について謝罪したけれど、日本国家は誤っていないから未だに世界から許されていないのだ、と言われたときにはショックでした。

きれいな戦争なんて、絶対にありえないと思う。それに、非人道的な行為は、誤ったから許されるというものでもないとも思う。

でも、1942年の一斉検挙で殺された人たちの遺族は、フランス政府が責任を認めたことで、死者の魂が浮かばれたと考えたのでしょうね...。

― 続く ー


内部リンク:
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
目次: 戦争に触れて書いた日記
サン・ジャン・カップ・フェラには、名前に魅かれて行った 2012/01/15


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2012/06/11

シリーズ記事 【わらぶき屋根のアイリスの花を見て】 目次へ
その2


前回の日記「いずれ菖蒲か杜若」でフランスでよく見かけるアイリスのことを書いていて、思い出したことがありました。


フランス王家の紋章「fleur de lys」

フランスの紋章の中では最も古いものの1つに数えられる「fleur de lys」は、フランス王家のシンボルとなっています。

フランス王国の紋章
1211~1376年
1376~1792年


金色の一つ一つの模様を「 fleur de lys」と呼びます。

日本語表記では「フルール・ド・リス」というのが普及しているようです。「フルール」と発音したら、フランス人は「fleur(花)」とは聞き取ってはくれないと思うけれど、「ル」の部分をカタカナで書きようがないのですよね...。


fleur de lysと言われても、紋章を思い浮かべない人もいる

「fleur de lys」とは「ユリの花」の意味です。

紋章のfleur de lysをコレクションしている人がいて、その友達がプレゼントをするときに、特製ワイングラスをプレゼントしようとしました。

近所にガラスに絵付けをする人がいたので、「fleur de lys」を描いたワイングラスを6個注文したのです。

出来上がったグラスを見て、友達は仰天! 白いユリの花が描いてあったのだそうです。

それではプレゼントにする価値はないので自分で使うことにし、王家の紋章のデザインを見せて、別のセットを注文しました。

みんなで大笑いしたエピソードなのですが、フランス人でも、歴史に興味を持っていないと、こうなるのでしょうね。


日本でもデザインとして知られている?

「fleur de lys」と言っても、日本では全く知られていないと思って説明を書いたのですが、意外なことに知られているみたいでした。

楽天市場で「フルールドリス」で検索したり、「fleur de lys」で検索したりしても、たくさんアイテムが出てきたのです。

フランス王家の紋章に結びつかなくても、きれいなデザインですよね?


私はこの模様を見ると、フランス王家のマークと思ってしまうのですが、フランス以外の国でも紋章のデザインに使われているので、知名度が高いのかも知れない...。


白いユリとキリスト教の関係

フランス国王がユリの花を紋章として使ったのは、キリスト教でも認知された王であるというシンボルであった、と理解しています。

処女マリアに受胎告知をした天使ガブリエルは、白百合の花を持っていたということになっているからです。


メロッツォ・ダ・フォルリ『受胎告知』

ユリにも色々ありますが、フランスにある家の花壇に咲いているユリで、最も普通なのは下のような花。絵画に描かれている白百合も、その形ですね。



でも、フランス王家のマークは、ユリの花の形には見えないと思われませんか?


フランス王家の紋章は、ユリではなくてアイリスの花だった?

数年前の5月中旬。友人たちと庭で食前酒を飲んでいたとき、目の前にあるアイリスが満開でした。

こう言う人がいました。
「fleur de lys(ユリの花)は、本当はiris(アイリス)なんだって」

フランスでよく見かけるアイリスは、この種類:



道路端や庭先に植えている人が多いのですが、空色というか、薄紫と呼ぶか、という色。

もちろん、アイリスには色々あるのですが、この色が一番の定番。ライラックの花も、白、薄紫、濃い紫色と異なった種類がありますが、薄紫色がライラック色なのと同じ。

友達に言われて、そのアマリリスを観察してみました。

すると、よく似ている~!



左がアマリリスの花。
右は、上のがフランス王家の紋章fleur de lys、下は上を向けてみたユリの花。

フランス人が聞けば「fleur de lys」は「ユリの花」だけれど、王家の紋章はアイリスの花をデザインしたのかな?...

でも、聖母マリアの純潔の象徴は白百合なのですから、アイリスの花だとマズイではないですか?...


混乱してくる...

「fleur de lys」がアイリスの花の形だというのは、私には大発見でした。ところが、Wikipediaの「フルール・ド・リス」の記述では、それが始めの方に書いてあります。

この記事を書いた人は、かなり詳しいらしい♪
そう思って読み始めたら...  分からなくなってきた...。

忘れていたけれど、fleur de lisと書く場合もあるのは事実。
辞書で確認したら、fleur de lysと表記する前(17世紀)に使われていたそうです。

さらに、「フルールドゥリ」と、語尾のsを発音しない例もある、と書いてありました。これ、本当?

そういうことがあるなら知りたいと思って、リンクしてある注を見てみると、「li(リ)」とは中国の距離単位(つまり、1里は576メートルである)と説明している仏語ページにリンクされていました。何の関係があるのかな?...

フランスでもプロヴァンス地方は発音の仕方がかなり違うので、「リス」を「リ」と発音するかもしれないという気はする。今はlysもlisも「リス」のはずだけれど、昔は「リ」だったのかも知れない。でも、「里」に関連づけられてしまうと分からなくなりますよ...。

その後にもたくさん書いてあったのですが、どこまで本当なのか分からないので、読む気がしなくなりました。それで、リンクされていたフランス語ページに飛んでみる。

すると、また混乱...。
フランスのキショウブ
fleur de lysは、前回の日記「いずれ菖蒲か杜若」に写真を入れたキショウブ(Iris pseudacorus / iris des marais)の花をデザイン化したものだ、と書いてあったのです。

フランス北部にLysという名の川があって、そこにたくさんキショウブが咲いていた。その川が流れるアルマンティエールの領主が、キショウブの花を紋章にした... ...。

そう言われると、キショウブか... という気もしてくる。

王家の紋章は、上に大きな花弁が3つあり、その下に小さな部分が3つあります。

キショウブの頭には小さな花弁がありますね。この花を新聞紙に挟んで押し花にしたら、王家の紋章fleur de lysができるのではないか?... などと、勝手に考えてしまった私。

でもね、ユリの花の紋章もfleur de lysの形にならなくもないのでは?
 
上に入れたユリの写真から1つの花を取り出して、少し縦に引き伸ばしてみると、花弁が上下に3つずつになる。

それを横に締め上げたら、fleur de lysの形。

ともかく、紋章ができたのは昔のことなので、何がもとになっているのかというのは色々な見解があるのでしょう。

私なんかが考えても仕方ないことなので、放置します!


それよりも、わらぶき屋根の上に植えられていたアイリスに関連して、気になったことがあったので次回に書きます。

― 続く ―


内部リンク:
フランスの国花は何の花? 2013/05/09 矢車菊
フランス王家の紋章がついたリンゴを作る 2006/09/29
★ 目次: フランスで感じるキリスト教文化

外部リンク:
☆ 絵画の謎: ダヴィンチ 受胎告知 
インスピレーション - ユリの切り花・球根の普及を目指して


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2012/02/27

シリーズ記事 【ブルー王立修道院の訪問記】 目次へ
その3


先日から書き出して、なかなか本題には入れないでいるブルー王立修道院はブールカン・ブレス(Bourg-en-Bresse)という町にあります。町の名前を見ると、ブレスにあるBourgとなります。


ブレス地方とは?

ブールカン・ブレス町はブルゴーニュ地方の南部にある大きな町マコン(Mâcon)から40キロくらいのところにあるので、私にとってはブルゴーニュ地方の中にあるような気がします。そもそも、ブレス(Bresse)と呼ばれる地域がブルゴーニュにあるので、そういう気分になるのです。

ところが、このブレス地方、ややっこしい!

歴史的に「ブレス」と呼ばれた地域が存在するのですが、現在の行政区分では3つの地域圏(州のようなもの)にまたがっていています。ブルゴーニュ地域圏、ローヌ・アルプ地域圏、フランシュ・コンテ地域圏。県でいえば、ソーヌ・エ・ロワール県(ブルゴーニュ)、アン県(ローヌ・アルプ)、ジュラ県(フランシュ・コンテ)。

ブレス地方では世界一美味しいといわれるAOC(原産地統制呼称)の品質保証付きのブレスの若鶏が生産されているのですが、その生産地も、この3つにまたがっています。

ブレスの若鶏はブルゴーニュ特産と私は感じているのですが、ローヌ・アルプの人たちは本場は自分たちの地域だと思っているのでしょうね。

普通の地図を見たって、Bresse(ブレス)という地域の堺が書いてあるわけではありません。Wikipediaでは線を引いているかなと思ってみたら、こんないい加減な位置表示でした

歴史的に同じ文化を持っている地域なら、行政区分でも同じにしてあげた方が郷土文化の保存運動などには便利だと思うのですが、一度作ってしまった行政区分を壊すのは困難なようです。

ブレスのように歴史的に文化を同じくする地方を「Pay(ペイ)」と呼んで区分しようという動きがあったのですが、行政区分が違ってしまうと各自治体の出資金配分の問題などで計画が進みにくいらしくて、最近ではほとんどペイという言葉が聞かれなくなりました。


ブールカン・ブレス町はブルゴーニュ公国に入っていなかった

修道院を見学するために久しぶりに行ったブールカン・ブレス町。現在はローヌ・アルプ地域圏アン県に位置するといっても、中世にはブルゴーニュ公国の中に入っていたのだろうと思っていたのですが、調べてみたら、ブルゴーニュ公国だった時代はなかったのでした。

Wikipediaに1477年のフランス地図があったので見てみると、ブルゴーニュ公国の領土は、なぜかブールカン・ブレスのところでくびれていて、サヴォア公国の領土だったのでした。
※東部にある黄色の部分がブルゴーニュ公国の領土。1477年は、シャルル突進公が亡くなり、ブルゴーニュ公国の解体が始まった年です。

この日記を書きながらの発見でした。


サヴォワ公国

サヴォワ(Savoie)という名前は、フランスのローヌ=アルプ地域圏の県の名前でもあるので馴染みはあります。でも、こころのとろ、サヴォワ公国Duché de Savoie)が気になってきました。

まず、昨年秋の旅行で行ったイタリアのピエモンテ州。ここはサヴォア公国だった、と知りました。

地元のツーリストオフィスの人は、イタリア人にはフランスなんだかイタリアなんだか分からない地方なのだと冗談を言っていました。建物や街の様子は完全にイタリアに見えたのですが、料理が私がイメージしているイタリアとは少し違う...。

そして、前回の日記を書いていたら、またサヴォア公国が登場しました。今回の旅行シリーズで書こうと思っているブルー王立修道院は、マルグリット・ドートリッシュが亡き夫であるサヴォイア公フィリベール2世のために建てたのでした。つまり、ここはサヴォア公国だったから修道院を建てた...。

サヴォア公国について調べてみたら、サヴォワ公国の領土(16~18世紀)の地図がありました。

サヴォア公国というのは、フランスよりもイタリアに広がっていた国なのですね。フランス語ではサヴォア公国(Duché de Savoie)と呼ぶのですが、イタリア語ではサヴォイア公国(Ducato di Savoia)。日本語の記述でも、この2つの呼び名が使われているようです。

思い出せば、2008年の秋に、ブルゴーニュ公国のシャルル突進公が大敗したグランソンの戦いがあったところに行ったのですが、この戦いもサヴォア公を助ける応援の戦いだったのでした。

そのときの日記:
スイス旅行: モラ or ムルテン 2008/09/03


イタリア王国の国旗には、サヴォアの紋章が入っていた

歴史に詳しい友達に、ここのところ書いていることに間違いがないかを確認しながら、サヴォア公国のことを聞いてみました。

すると、こう言われました。

ブルゴーニュ公国よりサヴォア公国の方が成功したと言えるだろうね。
だって、現在のイタリアの前身であるイタリア王国の旗にはサヴォワのマークが入っているから。

へえ、知らなかった!
イタリア王国の旗の画像を探してみたら、本当に、変な(と私には思える)国旗がありました。



「知らないの?」とバカにされてしまったけれど、私が生まれる前に存在していたイタリアだもの。こんな国旗を見たことがなくて当然ですよ~(いい訳!)。

それにしても、なぜサヴォアがイタリアを統治してしまったかのような旗になっているの?...

イタリア統一運動で中核となったのがサルデーニャ王国(仏語でRoyaume de Sardaigne)で、この王国はサヴォワ公(サヴォイア公)の家系なのでした。

サルデーニャ(私はサルディニアと呼んでいたのですが、こちらの表記が一般的らしい)とは、コルシカ島の南にある島でしょう? ピエモンテからかなり離れていますよ...。

18世紀のサルデーニャ王国の地図

なぜ、そうなっていたの? と思ってしまうのですが、フランスの歴史だって把握できないでいるのだから、イタリアのことまで気にするのは止めておきます!


ブログを書いていると、色々と調べる機会になって、それをメモできるので良いのですが、脱線しているきりがない...。

次回こそは、本来書こうとしているブルー王立修道院を見学したときのことを書きます。

― 続く ―


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2012/02/26

シリーズ記事 【ブルー王立修道院の訪問記】 目次へ
その2


前回の日記で書いたレストランから、窓の向こうに見えるブルー王立修道院(Monastère royal de Brou)の建物をしげしげと眺めたのですが、そのとき気がついたことがありました。


ブルゴーニュ公国のマーク「聖アンデレの十字架」

修道院の教会の部分。美しい入口の部分にある彫刻に目が行ったのです。

ブルゴーニュ公国の旗のマークがあるではありませんか。しかも、見えただけでも2カ所もあります!

ブルー王立修道院の正面 

ブルー王立修道院の正面から見て、中央にあるのは聖アンデレ像ですが、屋根の左上にもX型の十字架を持ったライオンの彫刻がありました。

アンデレはキリストに選ばれた12人の使徒の1人。X字型の十字架で処刑されて殉教したために、このバツ印のような十字がシンボルになっています。

アンデレというのが日本語表記らしいので、そう書きましたが、フランス語ではアンドレという名前。少し年配のフランス男性にはアンドレという名前が多いです。私は耳障りが良くて好きな名前なのですが、そう言ったら友人から「??」と反応されました。アンドレ(André)は良いのだけれど、あだ名のデデ(Dédé)で呼ばれるので美しくないのだそう。
Croix de saint André
Croix de Saint André(聖アンデレの十字架)は、ブルゴーニュ公国のシンボルです。

ブルゴーニュ公国の旗のマークは右のもので、Croix de Bourgogne(ブルゴーニュの十字)と呼ばれます。ただのⅩ型ではなく、バツ印にギザギザがついています。

聖アンデレの像が正面に掲げられている教会堂なのですが、この教会の名前はÉglise Saint-Nicolas-de-Tolentin de Brou。つまり、別の聖人であるSaint Nicolas de Tolentino(トレンティーノの聖ニコラス)の名前がついていました。

教会の正面は最近修復が行われた様子で、きれいになっていました。入口の木のドアが白く塗られていることが気になりました。でも、歴史的建造物に指定されている建物ですから、気まぐれにしたはずはない。以前の状態はどうなっていたのか調べてみたら、やはり普通のドアのように茶色でした(修復前の写真はこちら)。


マルグリット・ドートリッシュ

ブルー王立修道院(Monastère royal de Brou)は、ブールカン・ブレス町(Bourg-en-Bresse)にあります。

マルグリット・ドートリッシュが、亡き夫サヴォイア公フィリベール2世を葬るために、16世紀全般に建築されました。

マルグリット・ドートリッシュMarguerite d'Autriche)は、ブルゴーニュ公国最後の後継者マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgogne)と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の間に生まれた第2子です。

つまり、ブルゴーニュ公国のプリンセスだったのです。教会の正面にブルゴーニュ公国のシンボルだった聖アンデレの十字を付けたのも、それを強調したかったからではないでしょうか?

もちろん、上に入れた写真に見えるように、屋根は「toit bourguignon(ブルゴーニュの屋根)」と呼ばれる色タイルの屋根です。
 
追記:
聖アンデレの十字が気になるのでさらに調べていたら、この十字マークはマルグリット・ドートリッシュの家系が統治したネーデルラント17州のマークでもありました。ブルゴーニュ公国から引き継いだ領地なのでマークも同じにしたのでしょう。ただし、十字に付けているギザギザの数がブルゴーニュの十字と同じなのかどうかは分かりませんでした。


マルグリット・ドートリッシュは、小説や映画になる価値があるくらいに波乱な人生を送った人でしょうね。


マルグリット・ドートリッシュの肖像画
※左はブルー王立修道院のステンドグラス。右はJean Heyの作品(1490年)。


Marguerite d'Autricheの「Autriche」はオーストリアのこと。従って、彼女の名前は「オーストリアのマルグリット」となります。

今まで気に留めたこともなかったのですが、マルグリット・ドートリッシュ(1480-1530年)がどんな人だったのかを少し調べてみました。

この時代の歴史は複雑で、理解するのが難しい! まず、国の区分で混乱します。国というよりは、支配者の家系が所有する領土で区分すべきなのですが、政略結婚によってさらに複雑になる...。さらに、人の名前も複雑。同じ人でも、色々変わるし、領主であることを示す名前を幾つも持っている。さらに、言語が違う諸国が統治されているので、同じ人に色々な言語で名前がついています。こうなると、日本語情報で調べるのはお手上げ状態になります。

マルグリットの悲劇は、絶世の美女だった母親マリー・ド・ブルゴーニュの突然の死(1482年)から始まります。この時、彼女は2歳。

ブルゴーニュ公国はベルギーやオランダまでを領土としていたのですが、唯一の直系だったマリー・ド・ブルゴーニュの死が利用されて、ブルゴーニュ公国は解体され、ブルゴーニュ地方をはじめとするフランスの領土はフランス王国に横取りされてしまいます。

それでも、フランス王国はブルゴーニュ公国を完全に飲み込むために、血縁関係を作ろうとしたのでしょう。マルグリットはベルギーに住んでいたのですが、3歳のときにフランスに連れ出され、フランス王妃となるべく教育をほどこされます。

マルグリット10歳のとき、婚約者とされていたフランス王シャルル8世(1470年~1498年)の妻にされます。

マルグリットより10歳年上のシャルル。女性に愛でる文化があるフランス王朝ですから、優しく扱ってくれるシャルルに、マルグリットは優しいお兄さんという感情を抱いたのではないでしょうか?...

ところが、政略結婚の時代でした。フランス王朝にとっては、ブルゴーニュ公国よりもブルターニュ公国を手中に収める方が将来性があると判断したようです。シャルル8世はマルグリットを離縁し、ブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ・ド・ブルターニュと結婚してしまいます(1491年)。

実は、このとき、マルグリットの父親マクシミリアン1世はアンヌ・ド・ブルターニュと婚約していたのに、シャルル8世に横取りされたのです。マルグリットには2重の屈辱!

※私が訪問記を書こうとしているブルー王立修道院は、国王が建てさせたのではないのに「王立」の文字がついているのが不思議だったのですが、この修道院を建設したマルグリットは短い期間とはいえフランス王妃だったので「王立」と呼ばれるのでした。

1497年、マルグリットはスペインのアストゥリアス公フアン (1478~1497年)と結婚します。幸せな結婚になるかに見えたのですが、夫は半年後に急死してしまいます。そのときマルグリットは第1子を懐妊していたのですが、その男子を死産します。

1501年、マルグリットはサヴォイア公フィリベール2世(Philibert II de Savoie, dit le Beau: 1480~1504年)と結婚します。

フィリベール2世は「美男フィリベール」という俗称も付いていた人。ここでも夫婦仲は良かったようですが、結婚の3年後、夫は24歳の急死してしまいます。狩猟の際に飲んだ生水が原因でした。彼女の両親も仲が良かったのに、母親マリー・ド・ブルゴーニュが落馬事故で亡くなったのと、どこか似ています。


別の人生を歩んだマルグリット・ドートリッシュ

フィリベール2世との死別の後、マルグリットは生まれ故郷のベルギーに戻ります。後期ゴチック建築の傑作とされる教会堂の建設は1513年に開始。彼女の領土であるオランダから最高レベルの建築家を送り込んで建設させています。

3回の結婚でつまずいたマルグリットは、再婚を拒否し、死ぬまでの25年間を喪に服し、独身を貫いたそうです。

とはいえ、結婚運は悪いから、結婚は避けると考えた彼女は懸命だったのではないでしょうか? その後の彼女は自らの能力を発揮して、充実した生活を送ったように感じます。

マルグリットはベルギーに戻り、甥や姪の教育を熱心におこない、父親から受けた領土を統治して政治的手腕を見せました。

また、膨大な財産を受けたことを利用して、芸術や工芸のメセナとしても功績しています。

彼女が1530年に死んだときには、ヨーロッパは偉大な政治家の一人を失ったと言われます。彼女の統治力もさるものながら、何かで人間同士の衝突がおきたときに介在して解決する能力にも優れていたからでした。

3度の結婚は不幸な結果に終わっていますが、3人の夫には愛されたそうなので(それだけに別れは辛かったのだろうと想像しますが)、マルグリットは美貌と才気に恵まれていただけではなく、心の優しさもあった女性なのではないかと想像します。


話しが脱線してしまいました。
次回の日記は、マルグリットが最後の夫フィリベール2世を祭るために建てたブルー王立修道院の見学記を書きます。

― 続く ―


ブログ内の関連記事:
マリー・ド・ブルゴーニュとブルージュ 2009/05/20
★ 目次: ブルゴーニュの歴史
病院となったオスピス(施療院)を見学 2011/08/27  聖アンデレ十字

Wikipedia情報
アンデレ
Croix de saint André
Croix de Bourgogne
Nicolas de Tolentino
Marguerite d'Autriche (1480-1530)
Charles VIII de France


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2012/01/13

シリーズ記事 【イタリア経由 クロアチアへの旅】 目次へ
その35
スロヴェニア


クロアチア旅行を終えて再びイタリアに入ると、近くを通るので、最後のブルボン朝フランス国王シャルル10世Charles X)のお墓にお参りすることにしました。
「見学」と書いたら不謹慎かもしれないので「お参り」。

7月革命が勃発したために王位を奪われたルイ10世は亡命しますが、Görzでコレラにかかって病死。当時のGörzはオーストリア領だったのですが、現在ではイタリア領 Gorica(ゴリツァ)になっています。でも、彼の墓をおさめた修道院はノヴァ・ゴリツァNova Gorica、「新ゴリッツァ」の意味)にあり、こちらはスロヴェニア領になっています。

ややっこしい。でも、車で走っていると、どこで国境のラインが引かれているのかは、よほど注意していないとわかりませんでした。

まず、山の上にあるゴリツィア城を見学しようと思ったら、お昼の時間。城のすぐそばにレストランがあるようなので、そこで食事することにしました。

ところが勘違いしたらしくて、行こうと思った大きな看板が出ていたレストランではないところ、ほとんどカフェという感じの店に入ってしまったようです。

でも、それが幸いしました。食事が終わったとき、店の人に、フランス最後の国王の墓がある修道院はどの方向かと聞いてみたら、親切に教えてくれたのです。

道路の向こう側にある崖のところに案内してされて、遠くの山を示されました。


Franikanski samostan Kostanjevica

白い大きな建物が、シャルル10世が眠るコスタニエビツァ修道院なのだそう。

ツーリストオフィスで配っているらしい地図もいただいたので行けそうです。お城を簡単に見学してから修道院に向かいました。


コスタニエビツァ修道院

行ってみると、修道院の入口は閉まっていて、見学希望者はインターフォンで呼び出すようにと書いてありました。

修道僧らしき男性が、墓地の入口のところまで案内してくれました。

細い廊下の向こうに、ブルボン家ゆかりの墓があります。



まだ喪が明けていないという雰囲気...。

シャルル10世のほかに、王太子アングレーム公ルイ・アントワーヌと妻マリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの娘)、孫のアンリ・ダルトワと妻マリー・テレーズ・ド・モデーヌルイーズ・ダルトワの墓も一緒でした。



拡大写真はWikipediaに入っています。

息詰まるほど狭い部屋でした。修道院はとても広いのに...。

それに、非常にシンプルな墓石。歴代のフランス国王の墓があるサン=ドニ大聖堂とは比較にならないくらい質素なのですが、ここはプチ・サン・ドニとも呼ぶそうです。

ところで、シャルル10世はルイ16世とルイ18世の弟でした。彼が生きたのは1757~1836年。華麗なロココ調、そして血なまぐさいフランス革命、そして王政復興、さらに7月革命、と激動の時代を通り抜けた人なのですね。

フランス革命からしばらくの時期は私の頭の中では混乱しているので、歴史をおさらい...

ルイ15世の在位: 1715~1774年
ルイ16世の在位: 1774~1792年
1789年: フランス革命
1804年: ナポレオン1世、皇帝に即位
1815年: 王政復古でブルボン朝が復活(ルイ18世の即位)
1824年: ルイ18世が死去し、弟シャルル10世が即位
1830年: 7月革命(シャルル10世に代わり、ブルジョワ市民階級を擁護するルイ・フィリップが王位につく)
1836年: シャルル10世、亡命先で死去
1848年: 2月革命の勃発(オルレアン家の7月王政は崩壊、第二共和政)
1852年: ナポレオン3世による第二帝政(1870年まで)


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目次: 旅行したときに書いたシリーズ日記のピックアップ
クイズ: この枯れた花には何の意味があるのでしょう? 2007/02/22
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情報リンク(Wikipedia)
ノヴァ・ゴリツァ
☆  ゴリッツァの歴史: ゴリッツァ
Frančiškanski samostan Kostanjevica pri Novi Gorici
シャルル10世 (フランス王)


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