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2003/08/08
◆ 友人が出演した芝居

劇団俳優になった友人が出演するラングル(Langres)という町のイベントが行われるというので、応援方々みんなで見に行きました。

ラングルというのは、啓蒙思想家ディドロが生まれた町。それを思い出させたのは、町の広場に立っていた彼の銅像でした。

町は丘の上にあって、要塞に囲まれています。わざわざ観光に行くという人は少ないのですが、町のあちこちに古い建物もたくさん残っているので散策を楽しめる町です。

その日、私たちは友人の家で昼食。のんびり食事していたら時間がたってしまったので、あわててラングルの町に向かいました。1時間くらい車を飛ばして、到着したのは午後5時過ぎ。

イベントは、幾つもの劇団が町のあちこちを舞台にしてで演じるので、その中から好きなものを見るという形でした。

数年前に俳優になった友人は「おじょうずね」などと言うのは失礼なほど、本格的に演じられるようになっていました。

彼女が会社勤めをやめて俳優になったのは、仲が良かった弟さんがなくなったのがきっかけでした。人生は一度しかないのだから好きなことをしよう、と考えたのです。

午後5時半ころから、友人が出演した劇と、その他にもう1本のお芝居を見ました。その後で、小学校の庭に作られたカフェで飲み物が観客に振舞われました。

ここはシャンペンの産地に近いのですが、用意されていたのはビールかリンゴ酒。飲み物代がチケットに入っていたのですから、高価なシャンペンは期待していませんでした。

お芝居が終わってからレストランに行くのでは遅すぎるので、私たちはピクニックをすることにしていました。それで時間を気にせずにおしゃべりをしていると、夜が更けていきました。

この日はちょうど、フランスで火星が一番良く見える日でした。濃いオレンジ色に輝く異常に大きな星があったので、それが火星だったのだと思います。


◆ 真夜中のピクニック

いつもフランス人10人くらいで遊びの行動すると、予定はメチャメチャになります。この日もそうでした。お腹がすいたから早くピクニックにしたいと言い出す人、そんなことは気にしないで際限なくおしゃべりしている人…。何処かに行ってしまって、いつ戻ってくるのか分からない人…。

ようやくカフェを引き上げることにしたのは、出演者たちには夕食が用意されていると分かったときでした。大きなバーベキューで肉が焼かれ始められたのです。

町から10キロくらい離れてところにある村にあるピクニック用テーブルで食事しようということになっていました。お腹がすいた人は、小学校のカフェでピクニックしてしまおう、と言います。他の人は、それは非常識だからやめた方が良いと主張。

連日の暑さでよく眠っていない人が早く家に帰りたいのに、遠回りになる村までは「絶対に」行きたくないと言い張るので、町の中の何処かでピクニックしてしまおうということになりました。

町を囲っている要塞には見晴らしの良いピクニックスペースがあるだろう、ということになって、町外れまで行ってみました。この町出身の友人が皆の車を先導します。

彼女が案内した場所にはピクニック用のテーブルはなかったのですが、もう真夜中の12時を回っているので、それ以上探し回るのはやめました。

見晴らしの良い場所に芝生があり、街灯に照らされていたので、そこでお弁当を広げました。

みんなが用意したのは、シーフード・サラダ、ハム・ソーセージ類、チーズ、デザート。もちろん、赤、白、ロゼのワインもありました。

私は冷たいオシボリを用意していました。夜になっても暑い日だったので、大変な人気。ここに来るまでに通った薬屋さんには、30度という温度が表示されていたのです。普通の夏なら、こんな時間になったらコートを着なければ外で食事などできないくらいに寒いのに!

町の一角でピクニックというのは愉快でした。さっきまで眠いと言っていた人も私のおしぼりで眠気がさめたらしく、みんなも食べたら元気になって、2時過ぎまでピクニックを楽しんでしまいました。

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2003/08/05
友人のMが心筋梗塞で倒れて入院していると聞いて、見舞いに駆けつけてから1年がたつ。

正確に言えば、私にとってのMは友人の友人という関係で、たまに偶然に出会ったりすることがあるという程度の人であった。

私が知らせを受けたのは倒れてから1カ月以上たったときで、すでに彼はディジョン郊外にあるリハビリセンターに移っていた。手当が遅れたために左半身が麻痺し、かなりの重症だという。

一人住まいなので、倒れてから発見されるまでの時間が長過ぎたのである。それでも母親が偶然電話しなかったら、彼は今はこの世にいなかっただろう。

彼が発作をおこして倒れていたとき、遠くに住んでいる母親が電話してきたそうだ。1年に2、3度しか電話しないのに、そんなときに電話したのは不思議である。母親というものは第六感を持っているかも知れない。

「ウー、ウー」という言葉にならない唸り声が電話口で聞こえたので、年取った母親は仰天し、どうしたら良いか分からず、もう一人の息子に電話した。その人も遠くに住んでいたのに。しかし彼自身も心筋梗塞をおこしたことがあるので、すぐに発作だと分かり、救急車に連絡した。それでも発見が遅すぎた。発作からどのくらいの時間がたっていたのかは誰にも分からない。



奇妙な言語障害

リハビリセンターの門を通ると、Mは庭の木陰にある階段にぽつんと座っていた。すぐに私たちに気がついて、遠くにいる私たちに向かって片手をあげて挨拶した。私たちが誰であるか分かったのだとほっとする。

しかし彼は私たちの名前が言えない。何度こちらが名乗っても、繰り返して言うことができない。言語障害なのだ。

「お兄さんが来た」と言いたいのに、どうしても発音できないので「ムッシューが来た」などと言う。「犬が歩いている」と言うべきところを、「犬が働いている」などと言う。「すごい」という言葉を、どんなことに対しても使う。

言葉につまると、彼は地面に指で絵を書いた。学生時代は絵が上手だったと聞いていたのに下手な絵だと思ったら、彼は左ききだったのだ。左半身が麻痺してしまったのは気の毒である。

単語がめちゃめちゃなので、彼の言うことを理解するには努力がいる。こちらの言うことも、どこまで分かっているのか分からない。

しかし彼は単語が出てこないだけで、話しはできる。声の調子がおかしいわけでもない。フランス語が少ししか分からない人だったら、彼は普通にフランス語を話していると思うだろう。

奇妙な言語障害だ。幼児期に覚えた単語だけを覚えているのだろうか、特定のアルファベットが発音できないのだろうか、などと考えてみたが、規則らしいものは見つからなかった。病院の先生も、前例がないタイプの言語障害だと言っていたそうだ。

フランス語を外国語にしている私には、彼の辛さが身にしみた。言葉が出ないというのは、耐え難いほどもどかしいものなのである。

彼が地面に菱形を描いてみせたとき、私は「車のことを言いたいのよ!」と一緒にいた友人たちに叫んだ。菱形はルノー社のマークだからだ。言葉が不自由なもの同士、気持ちが通じる。フランス人たちには意味がとれないことが、私には分かる場合もあった。

彼が入院していたのは、主に精神異常になった人が入院する病院だった。彼は話しができないために、人から精神異常だと思われるのが辛いと話した。入院患者の中にはおかしなことを言う人がいるので困るとも言った。

しっかりそう言ったわけではない。だが私たちには、彼が表情と、おかしな単語をつなぎ合わせた文章から、そう言いたいのだろうと分かった。女性なら親しい友人の胸に泣き崩れたりすれば少しは気が晴れるのに、男性でいるのは辛いものだと思った。

私から見れば、彼はフランス語が下手なだけなのだが、フランス人にとっては正常ではない。ましてフランス人はおしゃべりだ。話しができないとか無口というのは、フランスという国で生きていくには酷いマイナスである。日本で生活したら? と言いたい気がした。

本が大好きだった人なのに、書物を開く気にもならないのだという。アルファベットを拾い読みできても、文字の意味が全く分からないのだそうだ。

こんな病気は回復に時間がかかるだろうし、完全に直るとも限らない。見舞いに行った私たちは心配したのだが、Mは前向きだった。リハビリがないときには病院の近所を散歩し、体の麻痺はかなり回復したという。左手をあげて、ここまで動くようになったのだと見せた。

落ち込んでしまっても良いような障害を受けたのに、彼には勇気があると感心した。


フランス人は、美味しいものを食べさえすれば元気になると思っている!

2週間ほどたったある日の夕方、私は友人たちに誘われて2回目の見舞いに行った。

彼の言語障害はほとんど回復していなかった。それでも、数日前には自分の名前を発音できたことが数回あったのだと喜んでいた。私たちも、日が立てばもとのように話せるようになるからと励ます。

途中から、別の友だち3人グループが面会に来た。Mの大学時代の仲間だった。Mを励ますためにレストランに連れて行くのだと言う。

フランス人は、おいしいものを食べれば元気になると思っているらしい。私が怪我をして入院したときも、見舞いに来てくれた友人たちは口をそろえて「元気になったら一緒にレストランに行こうね」と言っていた。

私の絶対安静期間が終わると、友人たちはさっそく食事会を企画して私を病院から連れ出した。骨盤骨折なのだから歩けない。おんぶしてもらって、友人が住んでいるマンションの階段を上った。無茶な話しだった。私は食事の途中で気絶してしまったのだから。


Mはレストランに行くのを嫌がった。ところが、やって来た彼の友人たちは、レストランに行くのが最善の方法だと思っているようだ。はるばる南フランスから車を飛ばして見舞いに来た人は、どうしても一緒にレストランで食事しようと言い張る。

彼らは事前に病院に電話して医師から外出許可をとり、それによって、その日の彼の夕食もキャンセルされていた。レストランも、ディジョンの町にある最高クラスを予約していた。Mにも電話して知らせていたのだが、意味が通じていなかったのだ。

実に賑やかな人たちだった。久しぶりに友人たちが集まったので嬉しくもあったのだろう。機関銃のように思い出話しを語り合う。私だって彼らの大声や笑い声を聞いているうちに疲れてきた。

Mは、同じように会話から外れていた私に向かって、1対1で話すと会話ができるが、相手が複数だと話しがうまく通じないのだと言った。外国語を話す場合だって同じことなのだ。複数の人たちが同時にしゃべるのを聞くのは非常に疲れる。

話しができないという引け目から人前に出るのを怖がっている人を、外の世界に連れ出すのは良い方法なのだろうか? しかし、やってきた友人たちの1人は医者だった。ショック療法も試す価値があるのかも知れない。

Mはしばらく「行きたくない」と言い張ったのだが、そのうち仕方ないとあきらめた。病院の夕食をキャンセルされてしまったので、病院に残っていたら空腹をかかえて寝るしかなかったからでもあった!

戦場に子どもを送り込むような気持ちになった私は、Mに言った。
「彼らのおしゃべりを聞いていたら疲れるから、聞こうとしてはだめよ。彼ら3人でおしゃべりをさせておいて、あなたは小鳥がさえずっているって思っていれば良いの。よく鳴く鳥たちだな~って」

私だってフランス語ができないころは、パーティに行くと頭が破裂するくらいに疲れた。フランス人たちは小鳥たちがさえずるようにしゃべりまくる。しかし愛らしいはずの小鳥の鳴き声も、森の中で迷子になったときなどには、神経を逆なでするくらい憎らしい騒音なのだ。

その日の私たちは5人で見舞いに行っていた。一緒にレストランに行こうと誘われたのだが、私たちは断った。そんなに大勢で行ったらMが疲れるだけだ、と私たちのグループには分かっていたから。


彼は戦うことを諦めてしまった…

その後に見舞いに行ったときは、Mは心臓を治療する病院の方に戻っていた。心臓の具合が悪くなったので、リハビリセンターから移されたのだという。

レストランに行ったのがいけなかったのではないか、と私は思ってしまった。それでもMは元気そうで、左手で絵を描く練習をしていた。ほんの少しなら、本も読めるようになったという。

回復に向かうのではないかと楽観した。その後は日本に帰国したりしていたので、しばらく見舞いに行かなかった。

彼が倒れてから半月以上たっていたと思う。Mは、入院しているのが嫌になって自宅に戻ってしまったのだと聞かされた。言語機能回復のためのリハビリもやめてしまったという。

辛抱強くリハビリを続けていたのだが、症状の進展が全くないのでくじけてしまったらしい。表情も限りなく暗くなり、親しい友人が訪ねて行っても玄関先で数分立ち話をするだけで、家の中にも入れてくれないそうだ。言語の方は完全にダメになって、何を言っているのか全く分からない状態になっているという。

最悪の事態だ。

ノイローゼになって自殺未遂した経験がある友人は、そんなときには誰にも会いたくないものなのだと私に説明した。親しい友人たちでさえ拒否しているのだから、私が会いに行くのは遠慮することにした。


生き続けなければならないということ

社会保障制度が発達しているフランスのことなので経済的な問題はないのだが、精神的な問題はそれ以上に大きい。

色々な病気や障害があるが、頭をやられるのは最も不幸だと思う。

作家の佐藤愛子だったと思うが、痴呆老人になって裸で走り回るようになるのが一番怖いと言っていたのを思い出す。しかし、そんな状態になったら恥ずかしいと思わないのだから、気にすることはないのだ。中途半端に障害がおきて、自分の頭はおかしくなったと分かる程度になるのが最悪だろう。

Mは穏やかで、本ばかり読んでいる人だった。その趣味を活かして最低限の生活費が入るような仕事をしていた。お金には無頓着。食べ物にもこだわらない。女性にも全く興味がなかった。山奥に住む仙人のように浮世離れした人だったのである。なぜそんな人が、こんな酷い試練を受けなければならないのだろうか…。

生き続けなければならないのは死刑より過酷なことだと思う。「この世に生まれて良かった」などと思っている人は、余程おめでたいか、そう思うような出来事がたまたまあっただけではないだろうか。

生きなければならないという宿命を背負っているのだから、せめて小さな不運は気にせずに、できるだけ楽しく人生を送りたいと思う。しかし「生きるという刑」の辛さが余りにも大きい人もいる。

Mは50歳にも達していない。読書という唯一の生きがいを失った彼は、これからの人生をどのように送るのだろうか…。

その後、福祉センターに入ったMを見舞いに行ったときの日記を書きました:
本だけが生きがいだったのに、言葉を失った友達 2006/04/08

ブログ内リンク:
お婆さんは尊厳死を選んだ... 2011/11/27
『日本人の死に時 ~あなたは、何歳まで生きるつもりですか?』を読んで 2011/11/26
★ 目次: フランスに結婚に関する風習、夫婦・家族関係、生き方


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