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2012/06/25
ブルゴーニュ地方の中ではパリに近い方にあるヨンヌ県に、謎の多い、不思議な城があります。

シャトー・ド・モルヌChâteau de Maulnes)。

この城の謎のひとつは、5角形になっている建物であることにあります。

Château de Maulnes

すでに2つ日記を書いていますが、前回に書いたのは、こちら:
謎に包まれた5角形の城を見学: シャトー・ド・モルヌ 2009/09/01

少し前、偶然にも、モルヌ城に関する発見をしました。


イタリアのファルネーゼ邸も5角形

イタリアのカプラローラ(Caprarola)にあるファルネーゼ邸Palazzo Farnese)を紹介している記事に出会いました。こちらも5角形の建物なのです。

☆ ファルネーゼ邸 カプラローラ: n.1 | n.2 | n.3

ファルネーゼ邸とは、こんな豪勢な館です。



私のモルヌ城と同じように、このフォルネーゼ邸もルネサンス建築。もしかしたら、モルヌ城はファルネーゼ邸をモデルにしたのではないかと思って、調べてみました。

まず、どちらが先に建築されたかをチェック。

ファルネーゼ邸の建築は1530年に始まりましたが、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・ジョーヴァネ(Antonio da Sangallo il Giovane)の死によって中断。1959年に工事が再開されたそうです。

モルヌ城の建築は1566~73年といわれるので、こちらの方が後なのは確かですね。

モルヌ城はフォルネーゼ邸を真似た建築なのではないかと思ったのは、私の全く勝手な推測でした。ところが、ファルネーゼ邸のことを調べていたら、この建物がモデルになってフランスにモルヌ城が建てられた、という記述が出てきたので驚きました。

ああ、やっぱり~?♪
でも、引用していただくほどモルヌ城は有名な城ではないので、不思議...。

フォルネーゼ邸にまつわるモルヌ城建設の経緯をみると、モルヌ城の近く、つまり我がブルゴーニュにある2つの立派な城が浮上してきました。これらの関係は全く気にしたことがなかったので、興味がわいてきます。


ブルゴーニュ地方のりヨンヌ県にある3つの城

登場した3つの城の位置を確認してみますね。


大きな地図で見る
A: アンシー・ル・フラン城  B: モルヌ城  C: タンレー城

モルヌ城は長らく放置されていたのですが、最近になってヨンヌ県議会が修復を始めました。

2005年に見学できるようになったのですが、謎の多い城というPRのおかげか、予想以上の見学者が訪れたそうです。でも、このあたりで城を観光するとしたら、アンシー・ル・フラン城かタンレー城です。なにしろ、モルヌ城は、ほとんど廃墟ですので。

ルネサンス期の城として紹介している動画がありました。
前半がモルヌ城、後半がアンシー・ル・フラン城です。



16世紀後半に建設されたモルヌ城ですが、城を建てる前には興味をそそる経緯がありました。


アンシー・ル・フラン城Château d'Ancy-le-Franc

まず、1941年。フランス国王のフランソワ1世は、フォンテーヌブロー宮殿(Château de Fontainebleau)(世界遺産)を完成させるために、イタリアから建築家を呼び寄せました。

イタリア人のバルダッサーレ・ペルッツィ(Baldassarre Peruzzi)の弟子のセバスティアーノ・セルリオ(Sebastiano Serlio)です。

セルリオは、優れたイタリア建築を紹介する著書を持参したのですが(注文をとるための見本カタログのように?)、その中にはファルネーゼ邸も入っていたのでした。

そしてセルリオは城建設の注文を受け、アンシー・ル・フラン城を建設することになります。

Château d'Ancy-le-Franc

当時の建築家は、掛け持ちで建設を請け負っていたので、フォンテーヌブロー宮殿とアンシー・ル・フラン城を同時に手掛けることができたのだそう。

でも、今のフランスでも同じですけどね。おかげで、余り予算をかけない修復工事などは後回しにされて、ちっとも工事がはかどらなくてイライラすることになります!

アンシー・ル・フラン城は、モルヌ城から15キロしか離れていない場所にあります。以前に書いた日記「不思議な城: シャトー・ド・モルヌ」では、偶然ですがアンシー・ル・フラン城にも触れていました。

アンシー・ル・フラン城のオフィシャルサイトによれば、1542年に建築が開始され、1550年に完成されたとあります(情報により開始時期には差がある)。

5角形ではないものの、城の内装がエレガントなのはファルネーゼ邸に似ているようにも感じます。


モルヌ城 Château de Maulnes)】

Château de Maulnes

5角形のモルヌ城は、その後、1566~73年に建設されたといわれます。イタリア人の設計家セバスティアーノ・セルリオ(1475~1554年)はすでに亡くなっていました。

ですので、セルリオが建築したのではないのは確か。でも、設計図は描いていたかもしれない...。

いずれにしても、アンシー・ル・フランも、モルヌも、トネール・クレルモン家(Clermont-Tonnerre)の城です。

モルヌ城を建てさせたトネール伯爵夫人(Louise de Clermont)は、兄にあるクレルモン伯爵(Antoine III de Clermont)がアンシー・ル・フラン城を建築するときに、セルリオが見せたファルネーゼ邸の姿を見て、5角形の城を建てたいと思ったかもしれないではないですか?

ただし、広い中庭を囲むファルネーゼ邸とは違って、モルヌ城の中央部分は井戸がある吹き抜けになっています。全く同じものを作らせようとしたわけではないようです。

1556年、トネール伯爵夫人は、ユゼス男爵(Antoine de Crussol)と結婚し、身分に相応しい城を建てる必要があったようです。ところが、フランスでも当時はカトリックとプロテスタントの衝突が激化しており、ユグノー戦争(1562~98年)が勃発していました。

そんな時期に城の建築などすることはできない。しかし、1563年の和平調停(アンボワーズ勅令)によってある程度の平穏が訪れたことを機会に、モルヌ城の建築が始まったとも考えられます。


タンレー城 (Château de Tanlay) 】

森の中にある土地がモルヌ城を築く場所として選ばれたわけですが、近くには美しいアンシー・ル・フラン城があり、タンレー城が建設中でした(1550~68年) 。

Château de Tanlay 

Château de Tanlayの門

↑ 見学するために行くとき、写真の右手に見える建物が見えてくると、城かと思ってしまうほど立派なのですが、これは単なる入口の建物で、城は塀の後ろに隠れています。

すでにあったアンシ・ル・フラン城、建築中のタンレー城があるために、これらの立派な城に対抗してモルヌ城は奇抜な形にしようと思ったのかもしれません。

5角形に建築するのはイタリアの技術で、当時のフランスでは、5角形の建物をつくる技術は殆ど知られていなかったのだそうです。

内部リンク:
不思議な城: シャトー・ド・モルヌ 2009/04/19
謎に包まれた5角形の城を見学: シャトー・ド・モルヌ 2009/09/01
★ 目次: 城について書いた記事ピックアップ

外部リンク:
【モルヌ城について】
オフィシャルサイト: Château de Maulnes
写真アルバム: Château de Maulnes La galerie photo de Pixellissimo
La fée Mélusine et le puits du château de Maulnes - Cruzy-le-Chatel
Wikipedia: Maison de Clermont-Tonnerre
Maison de Clermont-Tonnerre
【建築物】
Palazzo Farnese (Caprarola)
フォンテーヌブロー宮殿
Chateau d'Ancy-le-Franc
Château de Tanlay
【建築家】
アントニオ・ダ・サンガッロ・ジョーヴァネ
セバスティアーノ・セルリオ
バルダッサーレ・ペルッツィ
【その他】
ユグノー戦争 / 武装した平和(1563年 - 1567年)


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2012/06/21

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その8


何年も前のことですが、友人たちとオランジュの古代劇場を使った野外オペラ祭に行きました。会場があるオランジュの町のホテルは確保していたのですが、その後は現地でホテルを見つけながら観光するという予定。

ところが、夏の南仏はホテルがどこもかしこも満杯!
こんな町や村に泊まりたいと思っていくと、空室はないと言われてばかり。こうなったら、好みなんかは言ってはおれず、ホテルが幾つもあるような大きな町で探すしかない!


怖いイメージになってしまったカルパントラの町...

近くにカルパントラという町があっるので、そこでホテルを探すことになりました。
でも、みんな、気が進まないようす...。

町に入って広場に車を止めて、どちらに向かってホテルを探すかの相談。すると、「この町には泊まりたくない!」と、言い張る人がでました。

その一言で、私以外の全員の意見が一致。

どこかで見つかるはずだ、ということになりました。私はせっかく歴史的建造物がありそうなカルパントラに行ったのだから、少しくらい観光をしたかったのですが、ただちにUターンという感じで町を出てしまいました。

この町にいるのは薄気味悪くて、怖いのですって! お化けが出てきても平気そうな体格の男性たちも、そう言うのです。

カルパントラでユダヤ人迫害の怖い事件が起きてから、何年たっていたときだったかな?... 少なくとも数年はたっていて、私などは忘れていました。

友達は、この町は中世からユダヤ人の大きなコミュニティーができているので、いつまたテロが起きるかわからない町なのだ、と私を説得しようとしました。

フランス人には記憶に焼き付いてしまう事件だったらしい。ユダヤ人墓地が荒らされたのです。埋葬されたばかりの棺から死体が出されて串刺しにされたとか...。それ以外にも、30余りの墓地が荒らされていました。

調べてみたら、1990年の事件でした。
動画があったのでリンクを入れます。映像を見ると、狂気としか思えない光景を思い出しますね...。
☆ 動画: Carpentras profanation tombes 1990/05/10

フランス中がショックを受けて、大規模な反ユダヤ主義に対する抗議デモがおこりました。ミッテラン大統領を始め、政治家たちも参加。

このときのデモの様子を見せる動画は、こちら
映像の始めに出ているのはパリのバスチーユ広場ですが、フランス各地でデモがおこりました。

あらためてニュースを見ると、この頃のフランス人には、博愛精神というか、判官びいきの心情というか、弱い人を助けたいと情熱を燃やす気質があったな... と、懐かしくなります。


パリでも...

パリのマレー地区(伝統的にユダヤ人が多い界隈)にある、事件の舞台となったレストランです。

Restaurant Goldenberg, Rue des Rosiers

1982年の事件。ユダヤ人6名が射殺され、30人くらいが負傷しました。

私が写真をとったのは2007年。何年もたっているのに、ユダヤの星をつけたレストランの名前はそのまま残って、シャッターが下りているので不気味でした...。

ここを通る観光客は事件を思い出すらしくて、写真を撮っているので、私もシャッターをきりました。

平和な時代になってもユダヤ人問題は根強いようで、時々事件がおこります。

キリスト教とユダヤ教の衝突だけではなくて、パレスチナ・イスラエル問題もあるので複雑。さらに、ユダヤ人が犠牲になったから反ユダヤ主義者のしわざかと思うと、ただ狙ったのがユダヤ人だったというだけの事件もある...。


なぜなのか?...

むかし、ユダヤ人の発想法について書いた本を読んで、いたく納得したことがありました。こういう風に発想したら賢くなるだろうな... と思ったのです。

ユダヤ民族は優秀で、成功している人が多い。フランスにいると、話題にのぼっている人たちの大半はユダヤ人ではないか、という風にも見えてきます。

ユダヤ迫害は、キリスト教以前にも存在していたという人もいます。アイデンティティーが強くて、区別できる民族なのでしょうね。そして、こういう民族問題は、陸続きなので民族が移動するヨーロッパ大陸だからおきる。
 
ユダヤ教徒だから迫害されるというのなら分からなくもないですが、ユダヤ人の血が流れているということで区別するのは行き過ぎだと感じます。

前回の日記で、ロシアで発行された『シオン賢者の議定書』が20世紀に世界中に広がったと書いたのですが、これはロシア政府が民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向けさせるために作成した、とする説もあるそうです。ユダヤ人が世界を征服する陰謀を持っていると恐怖を与えるというやり方をヒットラーも使った?

結局のところ、共通の敵をつくるというのは、団結させる手段なのかもしれない...。

日本は島国で、海に守られていたのは幸運だったな、と思います。もしも大和民族が呪われた民族だったとして、私が大和民族だからという理由で白い目で見られたら、どうしようもないではないですか?!


人間は、虐める対象をつくりたい?

理由もなく誰かを苛めるというのは、よくあるものです。

年配のイタリア系フランス人たちは、子どものときには、イタリア人だからとクラスメートから苛められたと話します。

「マカロニ」とか「くさったジャガイモ」とか呼ばれたのだと、先日も、友達が話していました。

彼女はフランスで生まれたので、自分がイタリア系だという意識はなかったし、何も悪いことはしていないのに意地悪されるのが辛かったそうです。クラスメートだけではなくて、先生も意地悪だったのだそう。

なぜ、イタリア系が苛めの対象にされるのか不思議です。私たちから見れば、フランスとイタリアは同じラテン文化の国で、差別する理由など何もないと思ってしまいますから。

その場にスペイン系の男性がいたので、スペイン人は苛められなかったのかと聞いてみました。すると、母親が気をつかっていたから、先生には苛められなかったと言いました。夏休みにお里帰りしたスペインから、テーブルクロスなど、先生が喜びそうなものをお土産に買って帰っていたのだそうです。

イタリア系の女性の方も、母親がやっていたけれど、すぐに感謝の気持ちは薄れて、また苛められたのだとのこと。

私の子どもの頃を思い出すと、人種差別は無縁でした。でも、小学校高学年のときの担任の先生が、ある男の子を目の敵にしていたのを思い出しました。

何も悪いことをしていないのに、その子を教壇の上でこずきまわしたり、殴ったりするので、私たちは怖くて震え上がっていました。

男の子の方は、殴られても泣くわけでもなく、すぐにケロリとして明るい顔をしていました。そうなると、よけいに憎らしくなるものかもしれない...。

ヴェル・ディヴの一斉検挙の話しから始まって、暗い話しを長々書いてしまいましたが、今回で終わりにします。

同一テーマに関する内部リンク:
このシリーズの目次: ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙 2012/06/13
★ 目次: 戦争に触れて書いた日記

情報リンク:
キリスト教確立以前にも起きていたユダヤ人虐殺事件 ~ 古代ローマ帝国とユダヤ人の悲劇 ~
パリ19区で反ユダヤ暴力続く・・・? Rue89Japon  2008/09/09
Affaire de la profanation du cimetière juif de Carpentras
Le 'Pletzl' de Paris tourne une page : Goldenberg devient un magasin de jeans 2010年1月のニュース
Fusillade de la rue des Rosiers


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2012/06/20

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その7


私はフランス人たちとは違う文化の人間なのだな... と、一番初めに痛感したのはいつだったかな?...

時々、それを感じたのが断片的に記憶に残っています。例えば、フランスから行くエジプトのツアーに参加したときのこと。

ナイル川クルーズの後、シャルム・エル・シェイクに2泊というのがスケジュールに入っていました。そこから、シナイ山麓にある聖カタリナ修道院を見に行くオプショナルツアーがあったので、参加しました。

海岸のリゾート地でのんびりするのは趣味ではないので、観光を選んだくらいの気持ちの参加。その修道院は「出エジプト記」の舞台で、モーゼにまつわっている、という程度にしか捉えていませんでした。

ツアーの仲間のフランス人たちは、ほぼ全員が参加。しかも、えらく楽しみにしている様子なので驚きました。

クリスチャンでない人たちも、モーゼが神の言葉を授かったとされる「燃える柴(英語でもBurning bushですが、仏語だと意味ありげにBuisson ardent)」に感激している。

翌朝はシナイ山のご来光を見に行くというのもあったのですが、寒さと暑さで大変だと言われて私は尻込み。勇敢に夜中に出かけて帰ってきた人たちは、これまた感激していました。

クリスチャンかどうかは抜きにしても、フランス人にとっては、キリスト教は根強いものがあるのだろうな...。


ユダヤ人迫害はいつ始まったのか?

キリストを殺したのがユダだから、ユダヤ人が憎まれるのだ、と思っていたのですが、腑に落ちません。だって、キリスト自身もユダヤ人ではないですか?

日本語だと、ユダ(イスカリオテのユダ)とユダヤ人で結びつく単語になりますが、フランス語ではJudasとJuifsで、似ているといえば似ている程度。英語ではJudasとJewsで、全く無関係に見えてしまう...。

ユダヤ人迫害には、妙に根強いものがあると感じます。フランスにいると、いまだにユダヤ人を区別しているで奇妙です。人の名前を聞くと、彼らはユダヤ系かどうかを判断できるのです。それで、そんなことは判断できないであろう私に、「あの人はユダヤ人だ」とわざわざ教えてくれるのです。

その人がケチだったりすると、「ユダヤ人だから」となる。そんなことを言う人でも、またヴィシー政権のような政府ができたって、迫害なんかには加担しないだろうと確信は持てるのですが、なぜユダヤ人であると区別するのか不思議です。 

ユダヤ人迫害はいつ始まったかが気になってきたので、調べてみました。


中世に芽生えた?

まず、簡潔に書いてあるフランス語情報を読んでみたのですが、驚きました。ユダとユダヤ人の関係などには触れていないのです。

現代の反ユダヤ主義者たちの根拠とすることには、古代から中世初期にかけて正統信仰の基礎を築いた教父(ヨハネス・クリュソストモスやアウグスティヌスなど)の著述を持ち出すけれど、実際にキリスト教徒に反ユダヤの観念が広まったのは中世だ、とありました。

11世紀にはじまった「十字架のために聖地パレスチナを異教徒から奪回せよ」という十字軍。特に、12世紀から13世紀にかけての時代にユダヤ人迫害のルーツがあると書いてありました。十字軍はイスラム教徒をやっつける目的だったはずですが、ユダヤ人も殺害していたのでした。

中世に、ユダヤ人は悪者だとするデマが大きくなっていきました。世の中の分からないことは、みなユダヤ人のせいにしてしまう?...

ユダヤ人はキリスト教徒の子供たちを殺す、キリストを再び十字架にかけようとしている、血を飲んだり臓器を盗もうとしている、などの作り話が西ヨーロッパに広がった。さらに、中世からルネサンス期にかけて、魔女、悪魔、ペストなどが、ユダヤ人の仕業とされてしまう。

ユダヤ人はこれを商売にしたのがデマに信憑性を持たせてしまった。つまり、金をむさぼるということが、子どもを暗殺して血をむさぼることに結びついた。

利子をとって金を貸すのは、キリスト教では許されていなかったのだそうです。今の世の中もそうですが、汗水流して働くより、お金を転がす方が儲かる。

お金持ちにはやっかみを持つ、というところでしょうか? でも、今は逆に尊敬してしまうという傾向があるように感じますけど...。

1144年、ノリッチ(イギリス)で最初の血の中傷事件がおき、このデマがヨーロッパ中に広がった。

19世紀になると、ロシアなどで再び反ユダヤ主義が持ち上がってくる。

ユダヤ人世界征服陰謀の神話『シオン賢者の議定書』がロシアで出版され(反シオニズムを掲げたロシアの偽書といわれる)、20世紀に入ってから世界中で読まれる。

この書物は日本にも入ってきているし、ヒットラーにも影響を与えたらしい。

一方、ユダヤ陰謀論のテーマを扱った小説としては、ドイツのHermann Goedscheが書いた『Biarritz』が最初だったそうです(1868年)。


つまり、ユダヤ人迫害は、キリストの身を銀貨30枚なんか売ってしまったユダに対する憎しみ、などという単純なものではないのですね。

さらに、ヒットラーが突如としてユダヤ人の迫害をやった、というものでもないのだ...。

キリスト教とユダヤ教の対立が土台になっているとすると、理解できることがありました。ホロコーストは、ユダヤ教徒の迫害に止まるのではなく、ユダヤ民族に対する迫害なのですから。

 
ユダヤ人を標的にした話しをでっちあげて、てデマを飛ばす。

噂は噂を大きくし、しまいに人々に本当だと思い込ませてしまう...。

怖い構造ですね。昔読んだ本の重みが感じられました。


十字軍の先頭に立ったフランス大統領

十字軍で思い出したことがあります。
1年余り前、フランス内務大臣が失言したときのこと。

サルコジが先頭に立ってリビア攻撃を始めたことを、内務大臣がくすぐったいほど褒めあげて言いました。

幸いにも、サルコジ大統領は十字軍の先頭にたって、国際連合安全保障理事会に行動を起こさせました。


Claude Guéant:Sarkozy a pris la tête de la croisade!

さんざん悪口を言われているサルコジ大統領だけれど、今度は良いことをしたではないですか~! と、この機会を利用して言いたかったのでしょう。

こういう顔をして上司にへつらうお父さんって、日本にもいるな... と、私は面白がっていたのですが、フランス人たちの反応は違っていました。

「十字軍」を持ち出してきたのがいけなかった!
すぐに非難の声があがりました。

カダフィーはアラブ世界の人。それを欧米の手で制裁しようとしている、という図。つまり、イスラム教徒を制圧しようとするキリスト教徒の挑戦だから内務大臣は誇らしいの? ということになってしまう。

例えが良すぎるのです!

そういうイメージで見るのは勝手だけれど、大臣が人前で言うのは問題ですよ。特にフランスは、政教分離の国だと強調しているのですから!

それに、十字軍はだんだん本来の目的から逸れて、おかしなことになったのですから、フランス大統領がすることを十字軍に例えたら、本末転倒なことをしているようで滑稽だったかもしれない。

真面目に腹を立てた人たちもいたでしょうが、普通の人は政治家のヘマに大笑いしただけだったろうとは思います。サルコジ政権では、どうしてこういう人が大臣になっちゃったんだろう? というメンバーが揃っていて、よく笑わせてくれましたので♪

例えば、猛烈に寒くなった今年の冬に、厚生大臣が発したお言葉:
寒さが厳しいときには、外出を控えましょう。特に、高齢者とか、ホームレスの人たちとか...。

ところで、フランスの政治家の失言はYouTubeなどで何年たっても見れるのですが、日本の政治家の失言はすぐに消えてしまいますね。インターネットをチェックして削除する係りの人がいるのではないか、と思ってしまうほど。石原都知事の発言などは、文章としては残っていますが、ずっと遡って全部、実際に言葉を発しているのを聞いてみたいけど...。


ところで、サルコジが勇敢に立ち上げた21世紀の十字軍。このリビア攻撃がおこったら(2011年3月19日)、少し奇妙になりました。

直前に福島原発が爆発していたので、フランスのニュースでは放射能がどう動いてフランスまで到達するかという動画も見せながら、原発の恐ろしさを報道するようになっていました。

ところが、テレビのニュースでは、リビア攻撃が原発問題を飲み込んでしまったのです。

変だな... と感じたのは私だけではなかったらしく、同じような感想を書いているブログがありました:
5ヶ月も続く不思議なNATO軍のリビア空爆

原発反対運動が高まらないように、国民の目をリビアに向けさせようとした意図もあったかもしれないけれど、サルコジは、なにがなんでもカダフィーを殺さないとまずい、という動機があったはずなのです。

このころ、サルコジは前回の大統領選挙のためにカダフィーから膨大な選挙資金(50億円超)を貢いでもらっていたことが浮上してきていたのです。

1年後には、選挙法違反問題は、かなり明らかになりました:
☆ AFP(2012/04/30): 故カダフィ大佐がサルコジ氏に選挙資金約束か、2007年仏大統領選で

話しが脱線しすぎてしまいました...。

ー 続く ―


外部リンク:
十字軍の暗黒史: 第3章:十字軍によるユダヤ人迫害の実態
ユダヤ陰謀説のウソ
☆ Zorac歴史サイト: 西欧のユダヤ人
D'où viennent les préjugés et légendes qui fondent l’antisémitisme ?


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2012/06/19

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その6


このシリーズを長々と書いているのは、先月、「ヴェル・ディヴの一斉検挙」と呼ばれる事件を扱った映画を2本続けて見たのがきっかけでした。

第二次世界大戦中のフランスで行われたユダヤ人虐待。迷信で固まっていて、魔女狩りなどが行われた中世ならいざしらず、こんな非人道的なことを現代にするとは信じられないではありませんか?

でも、そう思うのは距離を置いて見ているからであって、ただ中にいたら、その時代のこととして、抵抗なく受け入れてしまうのではないか?...

そう思ったのは、ここのところ、世界中がおかしくなっていると感じているからです。

ヴェル・ディブ事件の背景を探ってみたら、今の世の中がどうなっているかが少しは見えてくるのではないか、と思いました。


特定の人を犠牲にするは、いつの時代にも行われるのではないか?

何か、おかしいぞ~ と始めに感じたのは、日本でした。

日本とフランスを頻繁に行ったり来たりしているので、浦島太郎にまではならないのですが、日本に帰ってくると、ずっとそこにいたら見えないであろうことが目につきます。

どのくらい前のことだったか、何か狂っている、と強く感じた時期がありました。

戦争反対と言っている人たちも、どこのテレビ局でも毎日、「いま、日本は戦争をしなければなりません!」と訴えるようになったら、簡単に戦争になってしまうのではないか、と思えたのです。

余りにも気になったので、戦争の経験がある人に、「日本で戦争が始まる前のときは、今みたいな雰囲気だったのではない?」と聞いてみました。

「いや、こんなんじゃないよ。もっと、ずっと、暗かった...」

即座に返事が返ってきました。その言い方には感情がこもっていたので、私にも暗い社会というものが連想できまいました。

今とは違うらしい。そう思って、妙に安心しました。

それから、私の当たらない予感などは忘れていたのですが、また、日本は変だ、と感じるようになりました。

経済発展とかいうことを最も大切なことにすると、それで苦しむ人がいるのなんか、どうでも良いということになるらしい。普通に考えたら、これからの世の中を生きていく子どもたちに、ほんの少しでも危険がないように守ってあげようとするのが自然な感情だと思うのだけれど、「だいじょうぶ」という名のもとに犠牲にしてしまう...。

国は方針を出せば、それを国民に信じさせて、したいようにできてしまうのではないか? あれは酷かったと思うのは、後で考えて出てくる判断に過ぎないのではないか?...

ヴェル・ディヴ事件の場合は、当時のフランスで、ナチスの傀儡となった政権が警察官を動員したユダヤ人の迫害でした。もちろん、政府がすることに抵抗して、レジスタンス運動をする人たちはいました。でも、今でこそ英雄と称えられる彼らは、テロリストと呼ばれて、抹殺の対象にされたのでした...。

レストランで隣のテーブルに座ったお爺さんとおしゃべりしたことがありました。若いときにはレジスタンス運動を運動をしていたのだそう。

「仲間はみな死んで、私だけが生き残っています。若気のいたりでしたよ。レジスタンスなんかすれば狙われますから、わざわざ死のうとしたようなものです」

そんな話しを初対面の私たちにするところ、よほど頭から離れない過去なのだろうと思いました。

暴力をふるうと明確な事実として歴史にも残りますが、見えない力で犠牲者を生み出す行為は、もっと怖いと思う...。


なぜ、今のフランスで?

ヴェル・ディブの一斉検挙について集めた情報は、多くなりすぎたので1ページにまとめました。
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15

そこで、まず時代の流れを書き出したのは、いつごろからフランスで、この事件がクローズアップされたのかを見たかったからです。

戦後しばらくの間、フランスは高度成長期で、昔のことなど取り上げる気運はなかったように感じます。それに影が差しだすと、いつの時代でも現れてくる傾向で、反省の時代になります。

1974年、ヴェル・ディヴ事件を主要テーマにした映画が公開されていました。

Les Guichets du Louvre」という作品。

その後、ユダヤ人迫害に反対する人たちの運動は大きくなり、ついに1995年、大統領に就任したシラクは、ナチス占領下のフランスで行われたユダヤ人迫害は政府に責任がある、と認める演説をしています。

しかし、この事件を一般の人々が注目するようになったのは、2007年ころではないかという気がします。

2007年3月に出版された小説『サラの鍵』はベストセラーになりました。

同じ年の春、パリ市庁舎では「フランスから強制収容所に送られた11,400人の子どもたち」展を開いています。
※犠牲になった18才未満の子どもたちのうち、6,100人はパリに住んでいた子どもたちでした。

2010年、広報活動に力を入れた映画『黄色い星の子供たち』が公開され、同じ年には『サラの鍵』も映画化されています。

このあたりで、フランス人たちのヴェル・ディヴ事件への関心は、一挙に高まったのではないでしょうか? それ以前にこの事件をテーマにして出されていた出版物や映画は、どれも再販されているのです。アマゾンを覗いてみると、ほとんどの作品が高い評価を得ていました。

鶏が先か、卵が先かの話しでしょう。でも私は、2007年から現在にいたるまでの時期のフランスで、一斉検挙というものが他人事ではないという感覚がフランス人たちに生まれてきていたからではないか、という気がしました。


一斉検挙(rafle)が好きなサルコジ大統領

ベストセラーになった『サラの鍵』が出版されたのは2007年だと知って、あれっと思いました。

サルコジが大統領になったのが2007年の春なのです。5年の任期が満了したのは今年の春で、大統領選に立候補したものの再選することはできませんでした。

彼はユダヤ系ハンガリー人の移民2世です。ユダヤ人迫害を逃れてフランスに来たというよりは、ハンガリーでナチスに加担したこと明るみに出ていずらくなったために国外脱出をした、と言う情報もあります。彼自身が移民なわけなのですが、移民を目の敵にするということにかけては異常なものを感じました。

大統領に就任した当初から非難を浴びることをたくさんしていて、その後もアンチ・サルコジのアレルギー症状は高まっていたので、僅かの差で敗れたのは非常に意外でした。 ヴィシー政権も、今のフランスでは歴史上の汚点という見方がされていましたが、当時は熱狂的な支持者も多かったのですよね...。

大統領に当選できたのは極右支持者たちの票を集めたおかげだったので、大統領に就任してからは治安維持のためと称して警察の権力を増大させました。

彼が言うところの、社会の「クズ」を一掃するのに生きがいを見出したようです。

登場した彼のイメージは、ケルヒャー(仏語ではKärcher: カシェール)で表現されました。彼自身が、貧民街のグレた若者たちを一掃するには、これが良いと言ったから流行語になったのです。

ケルヒャーとは、ドイツのメーカーの名前です。

石壁などをきれいにしたりするのに重宝なので、フランスでは自宅で持っている人も珍しくはない、おなじみの道具。

この高圧洗浄機がどんなに威力があるかは、こちらのビデオ(sarkozy au karcher)をご覧ください。サルコジをケルヒャーで抹殺しい人が作った動画だと思います。

大統領になる前、サルコジが務めていた役職の中で目立つのは内務大臣(2002/05/07~2004/03/30、2005/06/02~2007/03/02)。警察を動員して治安整備をする腕は鍛えられていました。

移民の中でも標的にされたのはアラブ系の人たち。アラブ諸国がテロリストを送り込んでこないのが不思議なほど、ひどいことをしていました。

さらに、ロマの国外追放を強行したときには、完全にヒットラーのイメージになったと思いました。こういうときこそ欧州連合が威力を発揮してブレーキをかけてくれるのを期待したのですが、なんとなくEUの反対は消えていきました。


パリ警視庁前に勢ぞろいしていた警備車両

大統領となってバックで守ってくれるというので、警察は目に見えて横暴になりました。

私は田舎にいるので、地方警察官の中には酷い人種差別をする人がいると聞く程度でしたが、パリに行くと警察官やパトカーがやたらに目立つので異様でした。

パリでは、下のような騒ぎが珍しくないのです。
こんな感じ ↓ パトカーの音がうるさくてたまらないので、すぐに動画を止めてくださいね。



これは、パリ市内の学校に孫を迎えに来た中国系の男性(不法滞在者)を逮捕しに来た事件。

マフィアでもない中国人男性を捕まえる警察のやり方が余りにも酷いので、みんなが行動をおこして騒ぎになったようです。出迎えに来ていた父兄や子どもたちがいるのに、警察は催涙弾を投げたり、暴力をふるったりしたことが問題になりました。

学校を警察官が襲撃するという事件は多発していました。子どもたちがおびえてしまう、と先生たちが怒っています。「一斉検挙(rafle)」という言葉を使って、見たことを動画で報告している人たちがいました。

例えば、こちら(2008年11月):
☆ Dailymotion: Rafle en Sarkozye : comme pendant l'occupation
「サルコジの一斉検挙: まるで占領下」という題をつけています。

これは、職業学校のクラスに、警察犬を連れた地方警察官(ポリスとは違って、こちらは軍人です)がいきなり入ってきて、教室にいた中学生たち全員の身体検査を始めた、と学校の先生が報告しています。

校長が麻薬を持っている生徒がいる、と警察に密告したためにおきたらしい。それにしても、やり方がひどすぎる。教室に入ってきた警察官たちは「ボンジュール」とも言わず、何をしに来たのかも説明せずに始めた、と先生は怒っています。警察官16人と警察犬2匹で、教室の中は騒然となり、子どもたちはおびえたのだそう。

こういうことがあると、フランス人は黙っていませんから、デモもあります。この5年間、パリに住むのは大変だったろうな...。

パリ在住日本人のブログでは、サルコジが大統領をつとめた期間を「警察統治恐怖政治の5年間」と表現していらっしゃいました:
いまさらですが、仏大統領選挙について


フランス人になっている移民家族も抹殺したい?

「パスポートが欲しいなら、あなたが日本人であることを証明しなさい」
そう言われたら、どうしますか?

2、3年前、友達が「まいった、まいった」と途方にくれているので、どうしたのかと聞いたら、役場で何かの手続きをしようとしたとき、「フランス人であることを証明しなさい」と言われたのだそうです。

彼女の両親はイタリアから来た移民なのですが、フランスで生まれたので、そのままフランス国籍を獲得していました。イタリアに行ったのも1回か2回しかないので、フランス人以外の何ものでもないと思って60年生きてきたので、途方にくれたそうです。

フランス人には身分証明書がありますし、出生証明書もあるのですが、それでは十分ではないのだそう。

このシリーズを書きながら、『サラの鍵』の作者(タチアナ・ド・ロネ)について調べていたら、彼女も私の友達と同じ目にあっていたと知って驚きました。

私の友達の場合は田舎の役場なので、法律には詳しくない人が担当しただけのことだろうと思っていたのですが、移民の人たちの中には同じトラブルがおきたケースがたくさん出たのだそうです。
 
ド・ロネは、自分の作品のロケが行われるアメリカに行くので、パスポートを更新するためにパリの市役所に行ったら、国籍の証明を求められたのだそう。

係員の説明は、こうだったそうです。
新しい法律で、フランス人の両親を持ち、フランスで生まれていても、両親が外国で生まれている場合には、本当にフランス人であるかどうか証明しなければならない。

彼女の父はフランス人だけれどモーリシャス島で生まれていて、イギリス人だった母は結婚によってフランス国籍を獲得したのがネック。前回の更新(1996年)では問題がなかったのに、2009年の新法律(Décret n° 2009-561 du 19 mai 2009)で、彼女は今まで「本当のフランス人」ではなかったことになっていたのでした。

パスポートを出してもらうために必要なフランス国籍の証明をとるには、2世代まで遡って記述する膨大な書類を作らなければならないのだそう。それには2カ月くらいかかるので、彼女はアメリカでのロケを見に行くの無理だ、と言っていた時期のニュースを読みました。

それにしても、フランス政府によるユダヤ人迫害を扱った作家が国籍はく奪されるとは、なんと皮肉なこと!

― 続く ―



同一テーマに関する内部リンク:
フランス人の博愛精神は薄れてきている? 2010/11/05
5月革命を連想してしまう最近のフランス 2010/10/20
目次: 戦争に触れて書いた日記

外部リンク:
ロマの人々をトラムに乗せて追放した。思い出すことは・・・
Drogues : faut-il envoyer la police dans les collèges ?
Auch. La descente de gendarmes émeut à l'école des Métiers
Tatiana de Rosnay rejoint les radiés de la Nation


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2012/06/18

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その5


フランスでホロコーストの犠牲になったユダヤ人は77,320人。第二次世界大戦勃発時(1939年)にフランスにいたユダヤ人の22.1%に相当する、とありました。

つまり、8割近いユダヤ人は虐殺から逃れることができたことになります。

白い眼で見るフランス人もあれば、ユダヤ人を救おうとした善良な市民やレジスタンス運動家もいたのでした。ナチスに占領された時代のフランスでは、ユダヤ人をかくまったことがバレたら死刑だったわけですから、勇気ある行動でした...。


パリ・マレー地区にあるホロコースト資料館

「サラの鍵」の映画の中では、主人公のジャーナリストがサラの行方を探って資料館を訪ねていました。Mémorial de la SHOAH(ホロコースト記念館)というものではなかったかと思います。今でもユダヤ人が多く住んでいるパリのマレー地区にあります。

☆ オフィシャルサイト: Mémorial de la SHOAH - Musée, centre de documentation juive contemporaine
☆ Wikipédia:
Mémorial de la Shoah
ホロコースト記念館~Memorial de la Shoah

立派な施設のようです。パリの主だったミュージアムはどこも見学したと思っていたのですが、ここは存在さえ知りませんでした。

迫害にあったユダヤ人の名前を刻んだ記念碑の近くに、助けた人々の名を刻んだ碑(Le Mur des Justes)もあります。

1963年以来、エルサレムにあるヤド・ヴァシェム が、毎年、ホロコーストの時代にユダヤ人を助けた非ユダヤ人に「Justes parmi les nations(諸国民の中の正義の人)」というタイトルを与えているのだそう。イスラエル政府は授与の決まりも作っていて、助けたことに物質的な見返りとしてもらった人は正義の人にはなれません。

ホロコーストから助ける方法には、次のようなものがありました:

・人の目に触れないように、自宅ないし宗教上の施設などにかくまう。
・偽の身分証明書や洗礼証明書を入手して、ユダヤ人であることをカモフラージュしてあげる。
・安全な外国に行けるよう、国境越えを手伝ってあげる。
・一時的に(戦争が終わるまで)、ユダヤ人の子どもを養子して救う。

子どもを養子にしてかくまう、という方法があったのは思い浮かんでいませんでした。フランス人は、不幸な子どもを引き取るのが伝統的に好きだな、と感じます。フランスにいたユダヤ人の子どもは、85%が迫害を免れたそうです。


タンレーの町で見たもの

数年前に、クイズにするつもりで撮影したのに忘れていた写真があったのを、このシリーズを書きながら思い出しました。ブルゴーニュ地方の中で、パリに近い方にあるタンレー(Tanlay)の町を散歩していたときです。

「これ、何だかわかる?」
フランス人が指さしたのは、勝手口のような木戸でした。



これを見て、何だかわかりますか?


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2012/06/17

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その4


前回の日記(フランス映画『黄色い星の子供たち(La Rafle)』)に続いて、同じく1942年におきたヴェル・ディーヴの一斉検挙(この事件について書いた日記)を扱い、さらに同じく2010年に公開された映画について書きます。

映画「サラの鍵(Elle s'appelait Sarah)」

サラの鍵 [DVD]Elle s'appelait Sarah
日本公開: 1011年フランス公開: 2010年


タチアナ・ド・ロネが、2006年に出版した小説「サラの鍵Elle s'appelait Sarah)」を映画化したものです。

2009年末で発行数200万部というベストセラーでした。

英語版では、映画も小説も「Sarah's Key」。

この小説は英語で書いたのだそうです。タチアナ・ド・ロネはイギリス人の家系で、完璧なバイリンガルなのです。

その後に出たフランス語版は、翻訳者によって訳されたのだそう。

なぜ彼女がフランス語で書きなおさずに翻訳させたのか、またフランス語版の題名が「彼女の名はサラだった」となったのか、不思議です...。

邦題は英語の題名からとっているのですね。ユダヤ人の少女サラが持っていた鍵が重要な役割を果たしているので、こちらの題名の方が良いとも思えます。

映画『サラの鍵』公式サイト
☆  Movie Walker: サラの鍵
☆ Goo映画: サラの鍵
☆ 監督・キャスト(写真付き): Casting Elle s'appelait Sarah(AlloCin�・)




この映画は、飛行機の中という悪条件で見ました。ビデオ画面は小さいし、騒音で良く聞こえない。それでも感動を与えられた映画でした。

命を救ってあげようとする行為だったのに、仲良しの弟を殺してしまった少女サラ。その苦しみが痛いほど伝わってきました。

ユダヤ人迫害という問題を抜きにしてもありうる話しだし、サスペンスもあって、良くできたストーリーです。

ヴェル・ディヴの一斉検挙という事件とサラについて取材する主人公のアメリカ人ジャーナリストの女性が、自分の生き方まで変えていくというのも並行して進行します。でも、私はサラの悲劇の方ばかりを見てしまいました。

「サラの鍵」予告編:


2本立てで映画の抜粋を見せる動画:
1.
2.



監督はジル・パケ=ブレネール(Gilles Paquet-Brenner)

ジル・パケ=ブレネール(Gilles Paquet-Brenner)監督にはユダヤ系のルーツがあり、迫害で命を落とした親族も何人かいるそうです。ユダヤ系ドイツ人の音楽家だった祖父は、フランス人たちに密告されたために強制収容所で死んでいます。小説を読んで、これを映画化したいと強く願ったのだそう。

監督が最も難しいと思ったシーンの一つは、子どもたちが両親と切り離されて電車に乗せられる場面だったそうです。撮影開始の数日前、この場面を体験した生存者のAnnette Muller(1991年に出版されたLa petite fille du Vel'd'Hiv'の著者)に会っていたためのプレッシャーもありました。



監督は語っています。
映画を見た人々が、自分にも関係することだ、と受け取ってくれる映画になっていることを期待する。


原作者はタチアナ・ド・ロネ(Tatiana de Rosnay)

彼女は小説の主人公であるジャーナリストのジュリアのように、ヴェル・ディーヴの一斉検挙について知りたいとのめり込んだようです。

インスピレーションを受けたのは『La Mémoire des murs(2003年)』を書いていたとき。ヴェル・ディヴの跡地に行ってみて、大きなショックを受けたのだそうです。余りにも寂しげな道で、そばには内務省の別館があるのも強いショックを受けた。

それから、フランス人にはよく知られていないこの事件について調べ始め、そのときの自分の驚きと心情を主人公のジャーナリストであるジュリアに重ねて書いたそうです。サラは娘さんの姿から。

タチアナ・ド・ロネが「サラの鍵」を書きたいと思った動機などを語る:

Tatiana de Rosnay: "Elle s'appelait Sarah" et le Vel' d'Hiv'

ポケット版が出版されるときのタチアナ・ド・ロネ:


☆ タチアナ・ド・ロネが作家になった経緯を語る: Tatiana de Rosnay : comment j'ai été publiée ?(動画)

彼女についての情報を眺めていたら、びっくりするようなエピソードがありました。次の次の日記で書こうとしているテーマにつながるので、後日ご紹介することにします。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙を扱った2つの映画

「黄色い星の子供たち」は事実をもとにして作られたのですが、「サラの鍵」の方はフィクション。 それなのに、フィクションの方が現実に即して描かれたような印象を受けました。

両方の映画がテーマとしてヴェル・ディーヴ事件についても、「サラの鍵」の方が迫害を受けたユダヤ人たちの苦しみが伝わってきました。

私の感想は一般的ではない可能性もあるので、データを並べて比較してみます。

映画の題名黄色い星の子供たちサラの鍵
入場者数258万人82万人
製作費2,000万 ユーロ1,000万 ユーロ
受賞   セザール賞(主演女優賞)
評価(5点満点):
 マスコミ
 観客

2.8
3.6

3.3
3.9
映画初公開日2010/10/102010/10/13
出所:AlloCiné  Cinéma (2012/06/19現在)

製作費も倍だし、映画公開PRも大々的にしたと思える「黄色い星の子供たち」は、入場者数が「サラの鍵」の3倍くらいになっています。でも、評判としては「サラの鍵」の方が上を行っているようです。

追記:
タチアナ・ド・ロネがパスポートを更新できなかった経緯について:
最近のフランスでは「一斉検挙」が流行っていた 2012/06/19


― 続く ―




内部リンク:
フランス映画『黄色い星の子供たち(La Rafle)』 2010/11/06
ナチス占領下のフランスを描いた映画「さよなら子供たち」 2010/11/06
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
★ 目次: 戦争に触れて書いた日記
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
総目次: テーマおよび連続記事ピックアップ

外部リンク:
『サラの鍵』ジル・パケ=ブレネール監督が語るホロコーストとその思い


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2012/06/16

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その3


ナチスの傀儡となったヴィシー政権(1940~44年)のもとでおきた、フランス現代史の汚点「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」と呼ばれる出来事を扱った映画を見たことを書いています。

どんな出来事であるかを書いた日記:
ヴェル・ディーヴの一斉検挙(1942年) 2012/06/14


映画「黄色い星の子供たち(La Rafle)」

2週間くらいの間をおいただけで、偶然にもこのテーマを扱った映画を2本見たのですが、始めに見たのは実話からストーリーを作った映画の方でした。


黄色い星の子供たち [DVD]

La Rafle - edition simple
日本公開: 1011年フランス公開: 2010年

フランス語の題名は「La Rafle(一斉検挙)」。これでは刑事モノの映画と誤解されてしまうからでしょうか、邦題は「黄色い星の子供たち」となっています。

「黄色い星」とは、ユダヤ人であることが一目でわかるように胸に付けさせられたマークなのですが、日本人にそれが連想できるのかな?... 「子ども」も付け加えてしまったわけですが、子どもに焦点が当てられたお話しなので良しとしましょう。 お見事な命名だと思います。

「黄色い星の子供たち」という映画が良いと言われて、見たいと思っていました。でも、フランスのテレビで上演されるのを待つつもりだったので、気長に構えていました。

ところが、映画の名前を聞いてから1カ月くらいしかたたないときのこと。テレビで流されていた映画を見ていたら、そのうち、これが「黄色い星の子供たち」ではないかと思えてきました。フランス語の題名は邦題と全く違うので結び付けられなかったのです。 映画を見終わってからインターネットで調べて初めて、見たいと思っていた映画だったと確認できました。

従って、途中から、しかも席を立ったりもしながら鑑賞した映画なので、記憶をたどって粗筋を書くことなどできません。でも、パリの平和な風景から見たので、見損なった部分は少なかっただろうとは思います。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙(1942年)を扱った映画

ヴィシー政権がしたホロコーストの中では最大規模の事件がテーマとなっています。フランス人の警察官が動員され、パリ首都圏に住むユダヤ人家庭に不意打ちをかけて、2日間で13,000人も検挙してしまいました。

子どものない夫婦や単身者は、ドイツの強制収容所に送りこめるので、とりあえずユダヤ人収容所に連行。子どもの処分に困ったので、親子連れをとりあえずパリ市内の冬季競輪場(ヴェル・ディーヴ)に押し込めました。観客席を埋めてしまうほどの人数が連行されたのですが、その約半分は子どもでした(4,115人)。

ヴィシー政権が自らユダヤ人迫害をしたこと、女性や高齢者だけではなく子どもたちまで犠牲にしたこと、ヴェル・ディーヴでの待遇は酷いものであったことで、フランスの現代史の汚点となる事件でした。

「黄色い星の子供たち」は、このときに検挙されながらも生き延びた人々の証言を集めて構成した映画です。

あちこちのサイトに映画のあらすじが出ているので、私が下手にまとめるのは省略します。

映画『黄色い星の子供たち』公式サイト
☆ CINEMA TOPICS ONLINE: 黄色い星の子供たち
☆ 監督・キャスト(写真付き): Casting La Rafle(AlloCiné)



「黄色い星の子供たち」予告編:



3本立てで抜粋を見せている動画:
1.
2.
3.



映画のモデルになった男性

「黄色い星の子どもたち」にはジョー・ヴァイスマンという名で男の子が登場しているのですが、モデルとなった実在人物がいます。

彼の名はJoseph Weismann(1931年~)。

ファーストネームを男の子の愛称にしただけなのですね。

ヴァイスマン氏は、ヴェル・ディーヴを出された後にBeaune-la-Rolandeの一時強制収容所に送られ、アウシュビッツに送られる運命にあったのですが、2人の警察官に助けられて脱走に成功しました。

2011年9月、つまり映画公開の翌年に、彼は『Après la rafle(一斉検挙の後)』と題した本を出しています。

出版にあたってのインタビューの動画がありました:



来日もしていらした。
ユダヤ人収容所からの脱出・生存者が東京でトークセッション


ドキュメンタリー映画ではない

正直いって、私には、心に焼き付いて何日もそのことを考えてしまう、というような映画ではありませんでした。

ヴェル・ディーヴの一斉検挙については、この映画で知ったのでショックは受けました。でも、映画は現実を少し軽くしていて、本当はもっと残虐なものだったのではないかという疑問を持ちました。

その2週間後くらい後に見た、同じ事件を扱った映画「サラの鍵」の方が私には衝撃的でした。こういう非人道的な行為が、どれほど子どもの心を傷つけるものであるかが伝わってきたからです。

それで、ヴェル・ディーヴの一斉検挙がどんなものであったのか調べたい気持ちになりました。

上に動画を入れた、男の子のモデルとなり、映画製作でも助言者となったヴァイスマン氏のインタビューでは、冒頭で、「黄色い星の子供たち」は現実に忠実かとインタビューされています。

「観客と証人の両方になることはできないので、非常に難しい問題です」と答えています。「証人としては一字一句間違えないで事実を伝えて欲しい。でも、映画は映画です」。

ヴァイスマン氏が日本で、「私は収容所で遊んだ記憶はない」と発言している点に注目しました。

映画では、子どもたちの無邪気な姿と、現実の悲惨さをクローズアップするため、無邪気な姿の方を強調しているのを感じました。

その対比は感動的です。始まりの部分で、昔のパリを髣髴とさせる道路(モンマルトルの一角でセットを作ることを住人たちが協力してくれたので実現したらしい)で、子どもたちが平和に遊んでいる場面は美しかったです。

でも、何がおこっているのか、これからどうなるのか分からない無邪気な子どもでも、極端な恐怖におびえていたはずではないですか?

映画を見たあと、ウェブでヴェル・ディーヴ生存者たちや、近くに住んでいて目撃した人たちが語っている動画をたくさん見ました。

子供たちは泣き叫んでばかりいて、誰もが下痢で汚れた姿になっており、無邪気に遊んだりしているのは見なかったと、収容所の近くに住んでいた女性が言っていました。子どもたちは行ったり来たりウロウロしているばかりなので奇妙で、それが何とも可哀そうだった、そんな状態でいるのなら死んでしまった方が救われたのではないかとも思った、と語っていました。

ユダヤ人たちを助けたフランス人が大勢いたというのは、でっちあげではない事実なのは確かです。助けた人たちに感謝するために名前を書いて保存してあるところもありますので(Le Mur des Justes)。映画に出てくるのが、生存者が語るエピソードと同じというのが幾つもありました。

でも、映画の中でに登場した赤十字の看護婦が、私にはなんとなく白々しく見えてしまいました。もっと感動を与える役になれたはずなのに...。

というわけで、この映画にはそれほど満足しなかったので、私が間違っているのだろうかと、フランスでの批評を見てみました。悪くはないですが、マスコミの全部がもろ手を挙げて褒めているわけではないですね。かなり厳しい批判もありました。

この映画の残念な点として、この映画を見ても、何か知らなかったことを学べるわけではないというのを挙げているものがありました。

確かに、私などはヴェル・ディーヴ事件を知らなかったので色々学んだわけですが、少なくとも大統領が政府の非を認めた10数年前からは大きく取り上げられているはずなので、フランスの人たちが見たら、そうなるかもしれない。映画には何か新しい主張があるわけでもないし、新事実を出しているわけでもない...。

私にも、インターネットの動画で見た、証人の人たちが話すことや、テレビのドキュメンタリー番組の方が興味深かったです。これらは、このシリーズ日記の情報リンクとしてURLを記録しました。

この映画は、登場人物を白か黒かに塗り分けてしまっている、という批判もありました。こういう異常な空気の中では、人々の感情はもっと複雑だったろうに、という意見。私もそう思うな...。その点、次に書く映画「サラの鍵」の方が見事です。


映画の制作風景

この映画の監督・脚本はローズ・ボッシュ(Rose Bosch)。
彼女がどのように映画を製作したかを語っている動画がありました(日本でも「Making-of」と呼びますか?):



映画では、解体されて残ってはいないパリの室内競輪場(ヴェル・ディーヴと呼ばれた)の場面が圧巻なのですが、4分の1のサイズでセットにして再現しているのですね。コンピュータで現実感を出すというテクニックも面白い。

この動画で見る監督は、かなり押し出しの強そうな女性ですね...。

今年の春、ビデオの販売促進をしなければならないのに、彼女は失言をしてしまったらしい。

「この映画を見て泣かない人は普通じゃない」という発言。今どきの甘ったれた子か、残酷なのが好きな人か... と、どんな人が泣かないかを列挙しているのですが、最後に挙げたことが問題になっていました。無感情な人、つまりヒットラーみたい人。

私などは、 テレビをつけたときに泣いている人がいたら、何がおこっているのかも分からずにもらい泣きしてしまうほど涙もろいです。でも、どんなに辛いことがあっても泣かない人はいますよ~! ヒットラーなんかに例えるのは少しいきすぎです。泣かなかった人が傷ついてしまうではないですか?! それに、映画におちどがあるかもしれないのに、そう言ってしまうのは傲慢でもあります。

ブログで彼女の長い発言をのせ、この映画を貶し、監督はナルシストだ、などと書いたブログがあったのが失言を広く知られることになったのか、彼女はその問題ページが入っているブログサイトを相手に、問題記事を取り下げ、誰が書いているのか公開しろと訴えたそうです。ブログサイトに対しては、記事取り下げるまでは1日あたり千ユーロ(約10万円)を要求して裁判をおこしたとのこと。
 
勝手に発言を一字一句のせてしまったのは著作権法で罰せる根拠があるかもしれない。でも、それ以外については、そんなに酷いことは言っていません。でも、そう言われても仕方がないという事実をつかれると、よけいに腹立たしいものになるでしょうね...。

ドメインを持ったサイトなら誰かを追跡できるのですが、それができないから問題ブログが入っているサイトを攻撃したわけです。大手ブログサイトなら裁判もできるますが、ろくな弁護士しか雇えない個人だったら負けますよ...。怖い話しですね。

彼女の発言については、あちこちのフランス語ページで取り上げられているのですが、リンクを入れないでおきます。日本にまで広めたヤツがいる、と攻撃されたらたまりませんから!

ともかく、上に入れた動画で監督のお話しを聞いて、この映画は心理描写を出すより、いま流行りの、スペクタクルとして視覚に訴える映画づくりだったかな... という感じを受けました。

映画のプロモーションも、かなりなものだったようです(私は知らなかったのだけれど)。映画公開に際しては、視聴率の高いテレビ局が2時間の特集番組を組んでいました。


蛇足:

ブログに入れる映画の動画を探していたら、60年前の名作、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」が出てきました。

あれは名作でしたね...。白黒映画時代のフランスでは、本当に良い映画を作っていた。フランス文学は複雑に揺れる心理の描写が優れているから好きなのですが(『クレーヴの奥方』以来の伝統?)、映画もその伝統を受け継いでいたと感じます。

最後はぷっつりと切れて、その先にどう展開するのか全く分からないので終わりになるというフランス映画の伝統は続いているように思いますが。

「禁じられた遊び」は心に刻みついて離れない映画でしたが、ストーリーはうろ覚えなのに気がつきました。私がヴェル・ディーヴ事件について検索していて出てきたということは、この映画もユダヤ人迫害に関係していたのだろうか?

Wikipediaの記事「禁じられた遊び」を読んでも分かりません。

インターネットにのっている映画を眺めて思い出そうとしたら、こんなのが出てきました:



映像をカットしたり早回しにしたりしているので、16分の動画の中に思い出の場面が次々と出てきます。オロオロと泣けてきました。

でも、この動画は、映画のハイライトをつないだだけで作ったのかな? ...

私の記憶では、ポーレットが「ミッシェ~ル! ミッシェール!」と叫ぶ場面で、なんともやるせない気分にさせられたところで映画が終わっていました。でも、この動画では、これはミッシェルらしき男の子が、ポーレットらしき女の子にお話しを悲しいお話しを聞かせるということになっていました。

そうだったら救われるのですが、映画ではどうだったのでしょう? ご存じの方があったら、教えてくださると嬉しいです。


次回は、ヴェル・ディーヴを扱った、もう一つの映画「サラの鍵」について書きます。

― 続く ―




内部リンク:
ナチス占領下のフランスを描いた映画「さよなら子供たち」 2010/11/06
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
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2012/06/15

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その2


ヴェル・ディブの一斉検挙に関して、インターネットで集められる情報を探し出して読んだので、そのリンクを残しておきます。



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2012/06/14

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その1


第二次世界大戦中、国土の半分以上がドイツに占領されていたフランスで、ナチスの傀儡となっていたヴィシー政権は、1942年7月16日から17日にかけて、パリ首都圏で大量のユダヤ人を検挙しました。

もちろん、彼らを待っていたのは強制収容所での虐殺...。

Rafle du Vélodrome d'Hiver(冬季競輪場の一斉検挙)ないしRafle du Vél' d'Hiv(ヴェル・ディーヴの一斉検挙)と呼ばれる出来事です。

フランス現代史の中で、アルジェリア問題と共に汚点となっています。先月、期せずして、これをとりあげたフランス映画を2本見る機会がありました。

ブログに書き始めていたのですが、手におえないほど大きな問題なので中断。でも、しばらくすると調べたことを忘れてしまいそうなので、書けることだけメモして日記にしておくことにしました。

見たのは、次の2本の映画です:
La Rafle
黄色い星の子供たち

生き残った400人の証言をもとに再現
Elle s'appelait Sarah
サラの鍵

ベストセラーとなった
タチアナ・ド・ロネの小説を映画化
※DVD画像をクリックするとストーリーを読めます。

「黄色い星の子供たち(仏題は「一斉検挙」)はフランスのテレビで放映されていたものを途中から、「サラの鍵(仏題は「彼女はサラという名だった」)の方はパリから東京に向かう飛行機の中で見る、という悪条件での視聴でした。

フランス人には知名度が高いであろうユダヤ人の一斉検挙について、私は何も知りませんでした。映画をしっかりと見ることもできなかったので、パリ市内にあった室内競輪場で何がおきたのかを調べてみました。


ヴィシー政権下の出来事

ヴィシー政権には暗いイメージの嫌悪感を持っていました。

友達がヴィシーに留学したとき、美しい温泉保養地の町だから遊びに来るように誘われたのも、拒否。

なぜか、足も踏み入れたくない町だったのです。

ついでに、ヴィシーのミネラルウォーターにも手が出ない。

中学でも高校でも、現代史の授業はいつも時間がなくなって割愛されていたので、先生の意図的な行為ではないかとさえ思っていました。現代史なんて興味がないので、大学でも授業を受けませんでした。

ですので、いつからヴィシー政権に嫌悪感を持つようになったか分かりません。

ヴィシーの町も一度は見ておかねばと思って、近くまで行ったついでに立ち寄ってみたのは、ずっと後になってからでした。有名なセレスタンの泉は美しい公園になっていて、ヴィシー政権のことなど嘘のようでした...。

ところが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙は、ヴィシー政権下の出来事でした。なんとなく嫌いという程度だったのですが、本当に飛んでもないことをしていたのだと実感。

フランスは特殊な時代でした...。

第二次世界大戦が勃発した翌年、1940年にはパリは陥落。内閣は総辞職し、軍人のペタンを主席とする内閣が誕生します。

ペタン内閣はただちにドイツに降伏。そして休戦条約が結ばれ(6月22日)、そのためにフランスは、パリを含む北部と東部(国土の5分の3)がドイツ占領下におかれ、残りの地域はペタン内閣の統治下に置かれることになります。

国家元首の地位についたペタンは、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立。これがドイツの傀儡となるヴィシー政権(1940~44年)です。同時に、第3共和政(1870~1940)は崩壊しました。

早くも10月には、ユダヤ人迫害法が成立してしまいます。

一方、後のフランス大統領として名を残すドゴール将軍は、休戦協定終結の前にイギリスに亡命し、ロンドンからフランス人たちに対して、対ナチス、対ヴィシー政権を訴えて、レジスタンス運動をおこさせます。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙

1942年の一斉検挙は、ナチス・ドイツのVent Printanier(春風)作戦に従って執行されました。ショッキングなのは、ナチスがフランスでユダヤ人を検挙したのではなく、フランス政府が自ら行ったこと。

南仏につくられたドイツへの利得協力をするヴィシー政権(1940~1944年)は、9,000人もの警察官を動員して行し、1942年7月16日と17日に、パリ首都圏で13,152人のユダヤ人が逮捕されました(警察発表数)。

第二次大戦中にフランス国内で行われたホロコーストとしては最大規模のもの。そればかりか、フランス史上でこれほど大規模な一斉検挙が行われたのは、キリスト教の旧教と新教が衝突しておこったサン・バルテルミの虐殺(1572年)以来だとも言われます。

1942年の一斉検挙にかかわる画像を見せている動画です。

バックに流れているシャンソン歌は、ジャン・フェラ(Jean Ferrat)の「Si nous mourons (Lettre d'Ethel Rosenberg à ses enfants)」。

このときの検挙者13,152人のうちわけは、大人 9,037人、子ども 4,215人。大半はドイツの強制終了所に送られて殺されることになります。

これまでフランスで行われていたユダヤ人狩りでは男性が対象だったのですが、このときは女性も子どもも対象になりました。ナチスはユダヤ人なら子どもも捕まえろ、と命令したわけではなかったのに...。

ナチスの命令では、フランス国内にいる2万人余りのユダヤ人を捕まえろというものでした。逃げたり、かくまってもらったりして難を逃れたユダヤ人もかなりいたことになります。

やはり、フランス国籍のユダヤ人は大目に見てもらい、逮捕の対象となったのは東欧やロシアなどの国籍を持つ移民ユダヤ人の家族が対象となっていました。彼らはユダヤ人迫害から逃れ、フランス革命の博愛精神があると信じてフランスに避難してきていたのでしょうに...。
 

ヴェル・ディーブとは?

パリ市内のエッフェル塔に近い場所(15区)に冬季競輪場(Vélodrome d'Hiver)があり(地図)、それをパリの人たちは縮めて「Vél' d'Hivヴェル・ディーヴ)」と呼んでいました。

イヴ・モンタンの曲には「Vél' d'Hiv」と題された陽気なシャンソンがあるので(歌はこちら)、当時のパリっ子たちには親しみがある施設だったのろうと想像します。

そんな平和の象徴のような施設が、ガス室の待合室として使用されたのでした...。

パリ市内とパリ郊外で逮捕されたユダヤ人約12,000人のうち、約8,000人が冬季競輪場に入れられました。

子どもがいない人々は問題がないのでドランシー通過収容所に送り込まれ、子どもと一緒に検挙された人々がヴェル・ディーヴ入れられたようです。

室内競輪場の観客席の数くらいに押し込まれた人々は、それまでに行われたユダヤ人の検挙のときと比較しても酷い待遇を受けました。

寝るのもままならず、水も食べ物も与えられず、トイレも使えないという、非人道的な扱いで数日間拘束されたのです。

すぐ近くに住んでいた人の証言では、初めのうちは叫び声が酷くてたまらなかった、そして、ついに窓は開けられなくなった、と言っていました。臭いが酷くて耐えられなくなったのだそうです。

7月中旬、大変な暑さだったのでしょうね。室内競輪場の屋根は明かりをとるためにガラス張りでしたから、熱気と汚臭は想像以上のものがあったと思います。堪りかねた人の自殺もありました。

もっとも、警察官の中には、自分がしなければならないことに疑問を感じる人もいて、逃亡を大目に見てくれる、というケースもあったそうです。数は少ないですが、逃げ出した生存者たちが語っています。ヴェル・ディーヴに収容されながら生き残ることができた人は数百人いたそうです。

ヴィシー政権はナチスにおべっかをつかおうとユダヤ人を検挙したものの、16歳未満の子どもは引き取れないと拒否されたために、子どもの処分に困ることになりました。

とりあえず、子どもたちを母親から切り離して、子どもたちは地方にある収容所に入れることになります。

ヴェル・ディーヴはおぞましい施設となってしまったという理由よりは、パリ市内で広いスペースをとりすぎたという理由なのでしょう。1959年に解体され、跡地には慰霊のプレートがあります。


Jardin du souvenir à l'emplacement du Vél' d'Hiv

ここで非人間的な待遇で閉じ込められた人々の数は、次のように記されています:

・子ども: 4,115人
・女性:  2,916人
・男性:  1,129人

男性の数が少ないのを不思議に思われますか?

それまでのホロコーストでは男性だけが拉致されていたので、女性や子どもは安全だと信じて、普通の生活を続けていたからです。男性たちは危険を感じて隠れていたから、捕まった人は少なかったのでした。 

最後は「彼らを助けた人々には感謝あれ。通りかかりの人よ、忘れないで!」と結ばれています。

繰り返すべきでない過去は忘れない、これは大事なことだと思います。広島の慰霊碑の「安らかに眠って下さい。 過ちは 繰返しませぬから」よりは好きです。

ヴェル・ディーヴから出されたユダヤ人たちは、家畜のように貨物列車に詰め込まれて運ばれ、アウシュビッツ強制収容所で家畜のように殺されました。
 
ところで、フランスの法律では、フランスで生まれた子には自動的に国籍が与えられます。したがって、この一斉検挙で捕まってガス室に送り込まれた子どものうち、3,000人余りはフランス国籍を持っていたのでした。

戦争というのは残虐なもので、戦火にまみれて殺される市民が出るのは避けられないことですが、敵でもない人々を意図的に殺すという行為は恐ろしいと思います。中世ならいざ知らず、このような残虐行為が20世紀に入った時代に行われたというのは信じ難いことでもあります...。

戦時中にフランスから強制収容所に送られたユダヤ人は合計76,000人。おぞましい1942年の犠牲者は42,000人で、その3分の2近くが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙(2日間)で拉致された人々だったそうです。


屈辱的なユダヤの星マーク

映画で見るユダヤ人たちの胸に付けた黄色い星のマークが、やたらに大きいので驚きました。

下は、演劇をテレビドラマにした「Souvenirs d'un vieil enfant(2009年)」の一場面のようですが、マークについての決まりを説明しています。



こういうのを付けさせられるのは、余りにも屈辱的ではないですか?!...

今日これをつけても、挑発者な人だと変な目で見られる程度でしょうが... と、ナレーター役の男性が言っています。

一斉検挙に先立って、1942年7月8日からは、法律によってユダヤ人が公共の場(劇場、レストラン、映画館、市、公園など)に行くことが禁じられています。その8日後の午前4時、突然、一斉検挙が始まったわけです。


フランス政府は、50年余りたってから罪を認めた

ヴェル・ディーヴの一斉検挙はナチスに強制されてやったとして、フランスは長いこと逃げていたようです。

ようやく、1992年、ミッテランは大統領(任期: 1981~95年)として初めてヴェル・ディーヴの跡地にある慰霊のプレートの前に花をささげました。しかし、フランス政府に責任が負わされる事件ではないと主張したので、生存者のユダヤ人たちからの強い批判を浴びています。

1995年に発行された「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」の切手その次に大統領に就任したシラク氏(任期: 1995~2007年)は、1995年、ヴェル・ディーヴの追悼式典で、フランスのユダヤ人虐待に対するフランス政府の責任を認める演説をしました。

事件から50年余り経過していました。

シラク氏は保守派の人間。本来なら、社会党のミッテラン大統領がそれをするべきでした。しかし、ミッテランは頑なに拒否。

ミッテランはド・ゴール政権のときにレジスタンス運動に参加したような人なのに、その前にはヴィシー政権で働いていたということがネックになったのかも知れません。

大したことは何もしなかったと思っていたシラク氏が、フランス政府の非を認めたと知って少なからず驚きました。

でも、ユダヤ人たちの要求が高まってきて、このあたりで認めぜざるをえない状況になったのだろうという気もします。

シラクの演説を聞いてみたら、彼独特のしゃべり方なので(ニュースの映像)、ちっとも感動できないのですが、スピーチの内容そのものはかなり良いです。

ミッテランが拒否しているインタビューと、シラクの演説を並べた動画がありました。



ミッテランはかなり冷たくユダヤ人をあしらっていたのですね。憎しみに過ぎない。憎しみで国を統治することはできない。彼ら(その言い方も冷たい)が望むのは勝手だけれど、100年も待つことになるのではないか、などと言っています。

ところが、ミッテランの任期が満了した春にシラクが大統領になると、彼は夏の式典でフランス政府の非を認める演説をやってのけたのでした。動画の最後に文字がでてきますが、この演説の後にシラクが言ったという言葉です。

「ユダヤ人たちが満足してくれると良いけれど。私にはその以上のことはできないから」


他国の出来事とはいえない...

フランスの警察自らが行ったユダヤ人逮捕は酷かったと思います。

フランス革命のときも、想像を絶する残虐なことをしている国だからな...。

でも、偉そうにフランスの非を咎めるのは遠慮しましょうね。日本軍だって酷いことをたくさんしているのですから。

フランス人の友達から、ドイツは戦争について謝罪したけれど、日本国家は誤っていないから未だに世界から許されていないのだ、と言われたときにはショックでした。

きれいな戦争なんて、絶対にありえないと思う。それに、非人道的な行為は、誤ったから許されるというものでもないとも思う。

でも、1942年の一斉検挙で殺された人たちの遺族は、フランス政府が責任を認めたことで、死者の魂が浮かばれたと考えたのでしょうね...。

― 続く ー


内部リンク:
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
目次: 戦争に触れて書いた日記
サン・ジャン・カップ・フェラには、名前に魅かれて行った 2012/01/15


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この記事のURL | Rédiger
2012/06/13
世界中が右翼化しているような、不穏な空気を私が感じるようになったのは、何年前からだったのか?...

先月、考えさせられる映画を見ました。

第二次世界大戦中、ドイツと同盟関係にあったフランス政府が1942年に行った非人道的なユダヤ人大量検挙(ヴェルディヴの一斉検挙: Rafle du Vel' d'Hiv)をテーマにした映画です。



同テーマを扱った偶然にも2本続けて見て、この出来事に興味を持ち、時間があるときに調べながら日記を書きました。

私には知識ゼロの分野。しかも、調べれば情報がいくらでも出てくるので、まとめるのに難航...。

以下が書いた日記の目次です。



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