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2013/06/30

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その10


前回の日記「ガロ・ローマ時代の遺跡を見学」で紹介した遺跡を見に行ったのは、ブルゴーニュ地方ヨーヌ県にあるサン・モレ(Saint-Moré)という村でした。

この村には、遺跡があることよりも有名な人がいたのだ、と教えられました。
Père Leleu(ルルー爺さん)という愛称で親しまれた人。

サン・モレ村の説明パネルにも、その人の写真が入っていました。



岸壁にある洞窟に27年間住んだという変人。当時は相当に話題になり、今でもヨーヌ県の有名人として語り継がれているのだそう。

それだけ聞いたので、インターネットでルルー爺さんのことを調べてみたら、かなり出てきました。


モルヴァンの断崖にある洞窟に住んだルルー爺さん(Père Leleu)

ルルー爺さんは、1836年にパリで生まれたと推定されています。比較的豊かな家に生まれ、高校までの教育を受けたのですが、刑務所に入るなど、波乱万丈な人生を送っています。

50歳のときにアンシー・シュール・キュール村(Arcy-sur-Cure)にたどり着き、Ocre(オーカー)の採掘所で土方として働くようになります。

ところがすぐに、オーカーの採掘事業はすたれ、彼は失業者となってしまいます。家賃も払えなくなった彼は、近くのサン・モレ村の断崖に立つ洞窟を住処とし、古代遺跡を発掘する司祭の手伝いを始めます。

断崖にある住処の前でポーズをとっている絵葉書

http://www.cheny.net/plus/st_more_11.html
☆ ルルー爺さんの絵葉書コレクション: Le Père Leleu No.1  No.2

さらに、キュール川に臨んである幾つもの洞窟を案内したり、自分の住処を見せながら彼の人生を語ったりするようになります。絵葉書の販売もする。ついでに、洞窟内で見つけた原始時代の遺物も売ったりする。

結び目をつけた綱を使って崖の階段を登るなどというのはアトラクションともなり、遠くからも彼の隠者のような生活を見学に来る人たちが多くいたのだそう。

サン・モレ村に近いアンシー・シュール・キュール村には、名の知られた洞窟があります。先史時代の絵画が残っているそうで、有名なラスコーの洞窟は今日では一般の人は入れないだけに、ここは貴重な存在なのだそう。今回の旅行で近くまで行きながら洞窟を見学しなかったのを後悔しています。

洞窟に住むというと、酷い生活環境と思ってしまうでしょうが、いちがいにそうとは言えません。洞窟の中は温度が安定しているので、夏は涼しく、冬は暖かいのです。

城巡りで有名なロワール河流域地方では、たやすく彫れる岩なために洞窟の家が川沿いに残っています。現代では、もの好きな人でしょうが、そこにある洞窟の住居を見事に改修して贅沢な住居にしているのです。

でも、ルルー爺さんの洞窟は、ロープで登るような断崖にありました。ホームレスになったから住むようになったという経緯なのかもしれませんが、彼は人里離れた生活が気に入ったのではないかという気もします。

こういう世捨て人のような生活はロマンチックなので人気を集めます。

始めは冷たかった村人たちにも受け入れられ、安泰な生活をしたようです。でも、偏屈な人ではあったのでしょう。お爺さんは、感じの良い人が訪れると、冷えたビールやレモネードをふるまう。でも、感じの悪いお金持ちが来ると、瓶に入れてある生きた毒蛇を見せたりしたのだそう。


ミステリアスな最後

ルルー爺さんを伝説的な人物にしたのは、彼の死に方にもありました。

当時の地元新聞にあった報道を要約すると、こんな感じ:

1913年1月30日の朝、村の食料品店の主人がルルー爺さんの家を訪れると、お爺さんの犬4頭がけたたましく吠えた。お爺さんが出てこないので変に思って洞窟に入ってみると、お爺さんが血だらけになって死んでいるのを発見した。最も可愛がっていた雌犬は、お爺さんの足元にうずくまっていた。後頭部に穴が開いており、脚にも深い傷があった。

村の食料品店は、お爺さんが洞窟で売る飲み物や新聞を提供していたので配達に行ったようです。

ルルー爺さんは享年77歳。

警察は、爺さんが崖の上で小用を足そうとして誤って落ちて大怪我をしたためだ、と発表しました。でも、大けがをした人が断崖をよじ登って洞窟に戻ってから死んだ、というのは奇妙な話し...。

すぐに殺人だと噂がたち、様々な憶測や、つじつまの合わない話しも出ています。伝説となるに相応しい人なので、文学作品にもインスピレーションを与えたりようですが、今日にいたるまでルルー爺さんの死に関する真相は解明されていません。


ルルー(Leleu)という名前

Père Leleuという名前を聞いたときは、あだ名だと思いました。Leleuという名前に、親しみをこめてPère(父さん、じいちゃん)と付けているわけなのですが、 Leleuはオオカミを連想させます。穴ぐらに住んでいた髭もじゃの男性を「オオカミ爺さん」と呼ぶのはごく自然ではないですか?

Leleuを耳で聞くと、Le(定冠詞)とleuに聞こえます。leuはラテン語で狼の意味があるlupusから来ていて、それがフランスでは11世紀に「leu」ないし「lou」になり、さらに現在の単語では「loup(ルー)」という綴りになったのだそう。

「leu」という言葉を知っているのは、「A la queue leu leu(一列に並んで)」という表現があるからです。

これを題名にした歌があって(「La queuleuleu」が正式な題名かもしれない)、大勢で食事した後のダンスタイムで定番の1つになっている曲になっています。

この演奏が始まると、皆が前にいる人の肩に手をかけて並んで歩きだします。すごくバカバカしいダンスなのだけれど、踊りを知らない人も参加できるので、底抜けに楽しい曲。



なぜ一列に並んで行進するのが「A la queue leu leu」なのかと言うと、オオカミは群れをなして移動する習性があるのにちなんでいるのです。「gueue」とは尻尾のこと。オオカミの尻尾の後ろにまたオオカミが並んで歩いている、というイメージでしょうか?

古いことわざに、「C'est à la queue d'un leu qu'on trouve un autre leu.(1匹の狼の尻尾にもう1匹の狼を見つける)」というのがあるのだそう。

でも、ルルー爺さんの「Leleu」というのは本名だったのだそうです。ファーストネームを付けるとPierre-François Leleu。

内部リンク:
【フランスの洞窟】
ラスコー洞窟が見えるすごい映像を発見♪ 2010/09/27
ラ・モット・ティイー城のファブリック 2012/10/30

【トルコの洞窟生活】
カッパドキアにある洞窟教会 2012/03/04
カッパドキアに地下都市があった 2012/03/05
カッパドキアにある洞窟の町 2012/03/06

★ 目次: フランスに結婚に関する風習、夫婦・家族関係、生き方
もしも無人島に住むとしたら、何を持っていく? 2014/12/23

外部リンク:
Le père Leleu fait son nid à Saint-Moré
La « gloire » du père Leleu brisée par une fin tragique
Le Père Leleu
Les grottes de Saint Moré à Saint-Moré
La mort du père Leleu reste un mystère
Grottes d'Arcy-sur-Cure
☆ Wikipédia: Habitat troglodytique
Bézu et la Classe - La queuleuleu


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2013/06/30

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その9


古代の要塞が残っているのを見ようと目指したのは、サン・モレ村(Saint-Moré)。 ブルゴーニュ地方ヨーヌ県にあります。

村に入ってまず目に止まったのは城。



観光客が見学できる城ではないようなので、外から回ってみる。

城の横に公園ができていて、ペタンクを楽しんでいる人たちがいました。



ペタンクが楽しめるように整備されていて、ゲームが終わったときに行けるようなカフェが近くにある。人口200人足らずの小さな村なのに、住み心地が良さそうに見えました。

ゲームを見学しながら村人たちとおしゃべり。でも、私たちの目的地は遺跡です。場所を教えてもらいました。 歩いて行くと坂道を登ることになるのだそうなので、再び車に乗る。


森に入る

うっそうと植物が茂っている森がありました。その中に遺跡があるらしいので、入口に車をおいて歩いて行く。

「森のアスパラガス」と呼ばれる野生植物がたくさん生えていました。



もう食べごろは過ぎてしまって、花になっています。

日本では高級食材になっているらしい。

でも、フランスの田舎で野生のアスパラガスが生えているところでは、いくらでもあります。

キノコのように、フランス人たちが競争で採りに行く食材ではないのは確か!


Le camp de Cora遺跡

しばらく森の中を歩くと、遺跡に行き当たりました。



説明パネルが出ていなかったら、ただの石垣かと思ってしまうところ。

なんでこういうところに石垣があるの? と思ってしまうところは、あちこちで見かけるのです。

何もないところにあった石垣を見たときの日記:
道端で見つけた美しい石 2010/10/05

この地には、新石器時代から人が住んでいた痕跡があるのだそうですが、古代ローマの侵略があった時代には、ローマ街道を作るための防衛基地になったとのこと。その遺跡なわけです。 



この「Le camp de Cora((コラ野営地)」と呼ばれる要塞は、小高い丘の上にあります。112メートル下にはCure川が流れているので、要塞に適していた地形だったらしい。

要塞は囲い込んだ形ではなくて、1面だけ、屏風のようにできていました。2.7メートルの厚さの壁が190メートルに渡ってできおり、見張りの塔が7つあった。要塞の下には2メートルくらいの堀もできていた。この要塞の後ろには25ヘクタールの陣地があって、要塞の壁がない側は自然の地形で守られていた。

なるほど... と思うけど、見たところ、普通に見えてしまう石垣しかない!

「魚の骨」と呼ぶ石の積み方。魚の鱗と言われればそう見える、斜めに積んだ石です。




子どもたちが勉強しに来た時に、楽しみながら見学できる配慮もありました。



上の部分には、目の前に見えるものの説明。下の部分はクイズになっていて、その先に進むと解答が書いてあります。


こういう遺跡を見に来るのは、そういうことに興味がある人たちや子どもたちでしょう。遺跡があるサン・モレ村は、洞窟に住んでいた変人がいたことで有名なのだそうです。

その人のことについては、次の日記で書きます:
洞窟で隠者のような生活した、ヨーヌ県の伝説的な男性の話し

外部リンク(Le camp de Coraについて):
Le camp de Cora
Site archéologique de Cora
☆ Wikipédia: Camp antique de Cora

ブログ内リンク:
★ 目次: 春の旬野菜 / アスパラ
★ 目次: ブルゴーニュの歴史


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2013/06/29

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その8


ヴェズレーのすぐ近くにあるサン・ペール村(Saint-Père)に、Fontaines Salées(塩分を含んだ泉)という観光スポットがあります。

1934年から発掘が行われていて、ヨーロッパでも珍しいと言われるう古代遺跡。でも、古代遺跡などというのは、草むらに何かが見える程度という感じがして行く気にはならないでいたのですが、何もなくてもともと、という気持ちで入場してみました。



ここは何だったという説明を読まないと何だか分らない遺跡ではあったのですが、2つの理由ですっかり気に入りました。

第1は、モルヴァン自然公園として草むらが残されていて、野生の花が咲き乱れていたこと。遺跡の前に入れたのは、大好きな野生のランです。

第2は、管理人の男性が、ここにある井戸の掃除をしているのに立ち会えたこと。


紀元前2,300年ころ、新石器時代、ここで水を汲みとる井戸がありました。紀元前1,500年から100年ころにかけては、泉の水から塩を取り出す。ここの地下水は、塩化ナトリウムが含まれたミネラルウオーターなのだそう。

古代ローマ文化の影響を受ける時代になると、温泉場として利用されます。 遺跡のパネルでは、こんな風な施設だったと説明していました。



その後、湯治場は衰退し、西暦4世紀には廃墟にすぎなくなりました。ところが14世紀には、近くにあるヴェズレーの修道院の塩貯蔵庫ができ、村人たちが水を汲みに来ることは禁止になります。17世紀から大々的に修復されますが、18世紀には王家が使用禁止令が出ます(塩の税金をとれないから?)。

そして1934年、中世の歌に歌われていることから学者が忘れ去られていたこの遺跡を発見し、発掘が開始。


新石器時代の井戸の掃除

井戸があって、ポンプから水をくみ取って飲めるところがありました。怖いのでゴクリとは飲まないで、なめてみたのですが、確かにしょっぱい。

入場券を売ってくれた人が、少ししたら古代の井戸を掃除すると言っていたので、それを待ちました。バキュームの装置で井戸の水を抜くようです。



音も凄まじかったですが、見る見るうちに水が減っていきました。



この後が見もの! 中央に、樫の木をくりぬいて作った樽のようなものが埋め込まれているのが出てくるのです。

樽が露出してきました♪



http://www.saint-pere.fr/tourisme/fontaines-salees-historique.htm

この後に行った博物館には、掘り出した樽が展示されていました(右の画像)。

このような樫の樽で作った井戸が19あったそうですが、そのうちの14は今でも使える状態で残っています。

掃除をしているのとは別のところにある井戸の説明書きを見ると、直径80cm、高さ1.2mの底なしの樽。

年輪から木齢を計算すると、紀元前2238年に倒された木なのだそう。少なくとも紀元前700年まで使われた、とありました。

4,000年以上前の樫で作った樽。そんなに長いこと水につかっていても腐らないものなのですね。

ここの湧いてくる地下水をためて、日干しして塩を作ったのでした。


カエルになれないオタマジャクシ

井戸の水がなくなったら、オタマジャクシがいるのに気がつきました。作業をしている人に、オタマジャクシが干上がってしまう... と声をかけました。

後で知ったのですが、水を完全に抜いてしまうためのではなくて、掃除してから綺麗な水に入れ替える作業だったのでした。だから、一時的に水がなくなってもオタマジャクシは大丈夫だったはず。

でも、作業していた男性は、オタマジャクシを1つ1つ拾って、水が残っている桶の中に入れてくれました。

そして、私に言う...。

この水は微量の放射能が混じっているので、カエルになれない子が多いのですよ...。

ここは花崗岩が基本のモルヴァン地域。花崗岩があるところだと、自然に放射能が多くなる、と聞いたことがあります。

自然に発生する放射能程度なら、日本でもラドン温泉とかあるし、そんな感じで保養地に適しているから古代ローマ占領時代には利用されていたのでしょう。でも、水の中で暮らすオタマジャクシには不幸な環境なのでしょうね...。

管理人の男性は、オタマジャクシを手に乗せて見せてくれました。気持ち悪いと思う方があるかと思うので、小さな写真にしておきます。



並べて私に見せてくれて、「この子は蛙になれそうだな~♪」などと言いながら、違いを見せてくれました。

井戸のお掃除。生えてしまっている水ゴケ(?)なども取り除いていました。



私が蛙になれないオタマジャクシを悲しく思ってしまったのを察してくれたのか、作業が終わると近くにある別の井戸に住むカエルを見せてくれました。



ちゃんと育つと、こんな風になる。
小さなカエルを手にのせて、いとおしそうに撫ぜながら見せてくれました。

自然保護に情熱を燃やしている人なのが伝わってきます。ここの敷地内の芝刈りも彼がしているのだろうと思うのですが、野生のランがあるところはしっかりと残しているのです。ここにランがあるという標識を立てているわけでもないのに、場所を知っているようす。それを指摘したら、嬉しそうな顔をしていました。

私は野生植物に興味があるので、色々な話しを聞かせてくれました。

いつも思うのだけれど、自然が好きで、それに関係した仕事を職業にできる人は幸せそう...。


ここの遺跡とペアになっている博物館が同じ村の教会の横にあったので、そちらにも行ってみました。出土品がたくさん陳列されていて、取り出した井戸の中の樽もあって、小さいながら非常に充実した博物館だったので大満足。でも、館内は撮影禁止だったので写真はありません。

全く有名ではないこの遺跡が気に入ったので、もう1つ、全く有名でない古代遺跡にも行ってみました。

モルヴァンって、不思議な魅力がある地域。ここからもう少し離れたところにあるモルヴァン地域の大きな町オータン(Autun)には、驚くほど立派な古代ローマ時代の遺跡が残っています。

外部リンク:
☆ Wikipédia: Site archéologique des Fontaines Salées
☆ Mairie de Saint-Père: Les Fontaines Salées
☆ Sens et le Sénonais antique et médiévalLes: Fontaines-salées
☆ L'encyclopédie - L'Arbre Celtique: Fontaines Salées

ブログ内リンク:
★ 目次: ブルゴーニュの歴史
★ 目次: 飲料水について書いた記事


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2013/06/28

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その7


前回の日記「ブルゴーニュ地方にあるヴァ―バンのゆかりの地を巡る」に書いたヴォーバンの博物館を出た後、博物館がある村(Saint-Léger-Vauban)にピエール・キ・ヴィール修道院があるので立ち寄ってみました。

この春に訪れたシャトゥリュ城で、昔の城主が土地を寄進した修道院だと聞いてから、この修道院に久しぶりに行ってみたいと思っていたのです。

シャトゥリュ城について書いた日記:
千年前から同じ家系が住むシャトーを、愉快な伯爵の案内で見学 2013/04/25


Abbaye Sainte-Marie de la Pierre-Qui-Vire (ピエール・キ・ヴィール聖マリア修道院)

ここはブルゴーニュ地方の中央、4県にまたがるモルヴァン(Morvan)と呼ばれる山岳地帯。独特の文化がある地域です。

この旅行の滞在先だったヴェズレーもモルヴァン地域に入るのですが、ブルゴーニュ地方でよく見かける風景。ところが、ピエール・キ・ヴィール修道院の方向に向かったら、全く自然の風景が異なってきたので驚きました。

正にモルヴァン! フランス北部にあるブルターニュ地方に来てしまったかと思う雰囲気なのでした。ブルゴーニュ地方では、石は石灰石が普通なのに、ここは花崗岩。生えている植物も少し違います。

ブルターニュのように雨が多い地域なのです。うっそうと木々が茂った森の中に、ピエール・キ・ヴィール修道院がありました。



修道院の敷地に入ったところの道路。僧侶が歩いていたので後ろから撮影しました。


ピエール・キ・ヴィールとは?

変わった大きな石がゴロゴロしています。



修道院の中にある見学自由な博物館に、修道院創設を説明するパネルがありました。1849年、ブルゴーニュ地方ヨーヌ県で生まれた僧侶Jean-Baptiste Muardがこの地を見出し、翌年に修道院を築いたのです。



修道院ができた場所は「Pierre-Qui-Vire(ピエール・キーヴィール)」 という名前が付いています。その名の謂れになった大きな石が、この修道院のシンボル。

パネルには重なった大きな岩が描かれていますが、これが「Pierre-Qui-Vire(ピエール・キーヴィール)」 。「回転する石」という意味です。

不安定に重なっているので、人の力で、臼のように石を回転させることができたのだそう。

でも、現在では石の上に聖母マリア像が乗せられているので、もう石を動かしてみることはできません。

 

銅像など無い方が神秘的で良かったのに、と私は思ってしまいます。 マリア像は美しいとは思わないので(Wikipediaの画像)、余計に残念に思ってしまう...。

でも、石のままだと、メンヒルか何かのようで、ケルト文化の名残りみたいに見えてので、キリスト教風にしたのでしょうね。

こういう例はフランスにはよくあって、そのことは過去の日記でも書いていました:
ブルゴーニュにあるメンヒル 2013/01/03


おどろおどろしい修道院に見えた...

かなり広大な土地を持っている修道院のようです。

修道院の建物を見せる写真が、この修道院の僧侶たちが歌ったアルバムの表紙に使われていました:

Le chant de l'Abbaye de la Pierre-qui-Vire, Aurore de la Joie

Googleマップで修道院の上空写真を見ると、こちら。森の中に埋もれている、という感じです。

ここはベネディクト会の修道院なのだそう。 労働と祈りを両立させる、というのが教えらしい。

回転石がある入口から教会の方にも入れるので、そこまで歩いていきました。

ぎょっとする外観...。



現在見られる建物は、19世紀半ばから20世紀半ばにかけて建築されたました。1871年に建築された教会は、1992年に大きく改築されたのだそう。

何年も前に行ったときは、石と売店しか見なかったかもしれない。あるいは教会も見ていたかな?... 建物を入ってから聖堂に入る前の空間ナルテックスは最近加えたそうなので、以前に見ていた姿とはすっかり変わっていたか可能性もあります。

聖堂に通じる入口には変わったステンドガラス...。



入ってみると、みごとな石造建築物。



写真で見ると、昔に建てられた教会と同じように彫刻があるので違和感がないのですが、実際に見ると、そう古くはないので奇妙な感覚を覚えます。現代に、こんな風に労力を使って建築物ができてしまうのは凄い...。


ピエール・キ・ヴィール修道院を有名にしているのは、出版物とチーズ

キリスト教に関係ない人たちにも、ピエール・キ・ヴィール修道院の名は知られています。

まず有名なのは、ロマネスク建築・美術に関する素晴らしい「Éditions Zodiaque」のシリーズを出版した修道院であること。

僧侶によって1951 年に初めての出版物が出てから、執筆も印刷も修道院の中で行われました。

でも、創設50周年の翌年、2002年にPVC (Publications de La Vie catholique)に売却されてしまいました。実に素晴らしい内容の本ばかりだったのに残念。

現在でも中古本は手に入るようです:
フランスアマゾンでZodiaqueコレクションを検索


もう1つ有名なのは、「ピエール・キ・ヴィール」の名がついたチーズ。修道院の農場(170ヘクタール)で作られるBIO(無農薬、自然農法)のチーズです。

修道院の中にある売店で売っているので少し買ったのですが、写真を撮らないうちに食べ終わってしまいました。地元のレストランで出てきたブルゴーニュチーズの盛り合わせに入っていた写真があるので、それを入れます。



矢印を付けたと、その手前のがピエール・キ・ヴィール。皮が少し黄色くなっているのが特徴。

正直いって、美味しいという評判があるチーズではありません。ちょっと癖があるので好きな人もいるのでしょうが。

食べてみると、この近くにあるエポワス(Époisses)のチーズに少し似ていると感じます。でも、エポワスのようには美味しくない、と思ってしまうのがいけないのかもしれない。

エポワスAOCの方は、ブドウのブランデーを塗って熟成させているので、味が濃いのです。

修道院の売店では、tomme(トーム)というハードタイプのチーズを買いました。ヤギと牛の両方。こちらの方がずっと美味しかったです。

でも、普通にピエール・キ・ヴィールのチーズとして売っているのは、レストランで出たような、カマンベールのような形のチーズの方です(画像)。


一般の人も泊まれる宿泊施設もある

修道院には宿泊施設もあります。下の建物がその入口らしいと思いました。



こちらも、がっしりとした建築物。地元でとれる花崗岩を使っているから、やたらに威圧的に見えてしまうのでしょうけれど...。

宿泊施設の方は20世紀半ばに建てられたのですが、宿泊施設としての法律基準に合わせるため、数年前に大々的に工事されたとのこと。

修道院のサイトを見たら、宿泊施設の利用料金は、利用者の経済状態によって1泊26~40ユーロ(3食付き)とありました。学生は18~25ユーロ。それが払えないような貧しい人は修道僧にご相談ください、とあります。団体で自炊するなら、1人につき1泊8ユーロ。

クリスチャンの人たちって良いですね。病院に入院していたときにお世話になった看護士さんが、夏休みはシャルトル―ズの修道院で過ごしたという手紙を送ってきたことがあったのですが、こんな風に休暇を過ごせる施設があるのだ...。


ともかく、やたらに大きな修道院。後で行った地元のレストランで、森の中にあんなに大きな教会があるのは奇妙だと話したら、返事が返ってきました。

この周辺の教会の中で、冬のミサでも寒くない暖房があるのはここだけなのだそう。それで、かなりの数の信者が集まるのだと言われました。なるほど...。モルヴァンの冬の寒さは厳しいですからね...。

ブログ内リンク:
★ 目次: 宗教建築物に関する記事
★ 目次: 乳製品(チーズ、バター、生クリーム)に関して書いた日記

外部リンク:
☆ Wikipédia: Abbaye Sainte Marie de la Pierre-Qui-Vire
☆ オフィシャルサイト: Abbaye Sainte Marie de la Pierre-qui-Vire
☆ チーズ: Pierre-qui-Vire - Les produits laitiers
モルヴァン地域の市町村一覧
☆ romanes.com: Editions zodiaque


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2013/06/27

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その6


時間がたっぷりある旅行だったので、滞在したヴェズレーの近くでヴォーバンの足跡をたどる、というテーマを作りました。

ヴォーバン(1633~1707年)はルイ14世に53年間仕え、近代的な築城法、いわゆるヴォーバン式要塞を作った人として有名です。彼が設計した、攻め落とすことが不可能な構造の要塞と要塞都市は130カ所あって、そのうち12が世界遺産に登録されているのだそう。

私がヴォーバンの名を初めて聞いたのは、函館の五稜郭のモデルだったからのような気がします。 でも、函館の五稜郭は星形の美しい空間なのに対して、実際にフランスでヴォーバンの要塞を見たら、怖くなるくらいの堅固な姿なので驚きました、

例えば、ブルゴーニュから近いのでよく行く機会がある、世界遺産に登録されているブザンソンの要塞を遠くで見ると、こんな姿 ↓



この要塞を上空から見た姿はWikipediaに入っています: Citadelle de Besançon

ところで、フランス人たちは「ヴォーバン(Vauban)」と呼ぶか、タイトルの「元師」を付けて「Maréchal de Vauban」と呼ぶかだと思うのですが、彼の名前はSébastien Le Prestre de Vauban(セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン)と長ったらしいのでした。


ヴォーバンが所有していたバゾッシュ城

ヴェズレーから10キロくらいのところに、ヴォーバンが所有していた城Château de Bazoches(バゾッシュ城)があります。ヴェズレーからどこか観光スポットに行きたいと思ったとき、最も行きやすいところ。



前回に行ったときの記憶がまだ新しいので、それほど好きでもないバゾッシュ城に行きたいとは思わなかったのですが、一緒に旅行した仲間のうちの2名が行ったことがないので、行くことになりました。



立派なお城です。
ヴォーバンは、この城を1675年に購入しています。

現在のオーナーは観光に力を入れているようで、内部は料金を支払って見学する人をがっかりはさせないように調度品で飾られていました。





ヴォーバンの時代のものが残っているわけではなくて、城のオーナーが集めて、ヴォーバンが住んでいたときの雰囲気を出そうとしているのが分かるので、私はこういう城はあまり好きではない...。

一緒に行った仲間の女性も「この城は好きじゃない」と言っていました。ヴォーバンはフランスの黄金時代を築いたルイ14世時代に活躍した人。こういうのが好きなのは男性たちではないかな?...

壁面に家系図の装飾がある部屋がありました。紋章がエナメル加工でよくできている。



やたらに立派な部屋だと思ったのですが、城のサイトを見たら、貸しホールとして使っているのでした。フランスでは、城を借り切って、夜通し結婚披露宴を開くことがよくあるのです。 ちなみに、ここは60人が座って食事できる150㎡の広間で、貸切り料金は1,300ユーロ(税抜き)。

庭からの眺めは素晴らしかったです。 遠くにヴェズレーの丘が見えました(矢印を入れたところ)。



先日、あちこちから見たヴェズレーの丘の写真を入れたページを作ったのですが、これも入れるべきだったかな...。
永遠の丘ヴェズレーを色々な角度から眺める 2013/06/23


ヴォーバンの墓

城があるバゾッシュ村(Bazoches)にはヴォーバンの墓があるので、その教会にも行ってみました。



教会前にはヴォーバンの銅像が立っています。

教会内部の床にヴォーバンの墓石があって、そこに説明がついているのですが、ちょっと質素..。 説明書きだけが立派でした。

 

この写真を撮ったのは数年前に行ったとき。下に今回撮影した写真を入れます。壁の老朽化を少し修復していたかどうかは記憶なし...。



ヴォーバンの心臓は、祖国の英雄としてパリのオテル・デ・ザンヴァリッドに収められていて、そちらにある墓は立派です。

Vaubaninvalides01 
Les Invalides : Mausolée où est déposé le cœur de Vauban


ヴォーバン博物館

近くの村にヴォーバンの博物館があるので、別の日に行ってみました。

博物館があるのはヴォーバンが生まれた村で、その名もSaint-Léger-Vauban(サン・レジェー・ヴォーバン)。ただし、ヴォーバンが生まれた当時の村の名前はSaint-Léger-de-Fourcheretだったとのこと。 

博物館のポスターが魅力的だったし、別の博物館に行ったときに薦められていたのです.。

でも、こんな酷いミュージアムはないよ! と怒りたくなるくらい、つまらない展示物でした。

そもそも、ヴォーバン時代の所蔵品が1つもないのです。

展示されているのは、写真と文章のパネルばかり。

小さな家を使っているので、それもすぐに見終わってしまう。というか、わざわざ博物館に行って、書いてあるものを読むなんてつまらないではないですか?

来る人は少ないだろうと思います。受付けの女性が鼻をかむ音が館内に響き渡っていました。

2日間の真夏日の後、また寒くなったので風邪をひいてしまったのでしょうね。それにしても、こういう場面にあうと、いつも思うのですが、フランス人って、どうやって、こんな大きな音を出して鼻がかめるのだろう?!...

ビデオの上映があったので、部屋に入ってみました。

これも酷いシロモノ。

滑稽なくらいに安物の昔の衣装を着た男性が、すでに見学したバゾッシュ城でしゃべっているのです。何も新しいことを教えてくれるわけでもなく、全く面白くないけれど、最後まで見ました。

ここはエコミュージアム。郷土の文化を展示するという、非常に良いコンセプトなのですけど、こういう風に、面白みがないところが多すぎるのですよね...。

ヴォーバン城の中で展示しているのだったら、それなりに良かったと思うのですが、城は個人が所有しているので折り合いがつかなかったのでしょうね。

展示するものがなかったら、博物館なんか作るべきではないですよ...。 入場料5ユーロも取るなんて許せない! 他のミュージアムとの組み合わせがあったので、料金は4ユーロだったけれど、それでも高すぎると思う。


アヴァロンの町にもヴォーバン...

この地域では、よほどヴォーバンの出身地であることが誇りのようです。ヴェズレーから近いアヴァロン(Avallon)の町にも、広場にヴォーバンの銅像が立っています。



気にしないで見ていた像なのですが、この日記を書きながら調べていたら、自由の女神像を作った彫刻家オーギュスト・バルトルディ(Auguste Bartholdi)の作品なのだと知りました。

ヴォーバンに関して学べる博物館を探すなら、ヴォーバンの作った要塞都市とか、別のところにちゃんとした展示があるのではないかな?...

私が行ってしまった博物館などに行くより、勉強になる動画を見つけました。

Vauban, le vagabond du roi (Louis XIV, fortifications)


ブログ内リンク:
★ 目次: 城について書いた記事ピックアップ
★ 目次: 宗教建築物に関する記事

外部リンク:
☆ Wikipédia: Sébastien Le Prestre de Vauban
☆ フランス観光開発機構: ヴォーバンの防衛施設群
Bio-bibliographie de Vauban
☆ オフィシャルサイト: Château de Bazoches
Écomusée du Morvan - Maison Vauban


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2013/06/26

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その5


ノーベル賞作家ロマン・ロランRomain Rolland: 1866~1944年)は、ブルゴーニュ出身。

クラムシー町(ブルゴーニュ地方ニエーヴル県)で生まれています。14歳からはパリ市に移り住みますが、1903年から1912年をかけて大作『ジャン・クリストフ』を執筆したあと、また故郷ブルゴーニュに戻っています。

その後、スイスに亡命したりもしますが、1937年にはヴェズレー村(ブルゴーニュ地方ヨーヌ県)にある家を購入。亡くなるまでの日々を「永遠の丘」と呼ばれるヴェズレーで過ごしました。

私が子どもの頃は長編小説がやたらに好きだったので、『ジャン・クリストフ』を読んだ記憶はあるのですが、その他の彼の作品も読んだことがあるかどうか覚えていません。

昔の私はフランスとは無関係だったし、ましてやブルゴーニュなどというのは頭の片隅にもなかったはず。いま読んだら、ブルゴーニュとの関係で興味深く読める作品もあるのではないかと思うのですが...。

例えば、カバレフスキーがオペラにした『コラ・ブルニョン(Colas Breugnon)』は、ロマン・ロランの人生観を表したもので、クラムシーの町が舞台なのだそう。


晩年を過ごしたヴェズレーの家

ロマン・ローランがヴェズレーに住むようになった当時、フランスの半分はドイツに占領されていたので、ヴェズレー村も当然その中に入っていました。

人口を見ると、現在とほとんど変わらず500人くらい。でも、当時は世界遺産の観光地としての賑わいはなかったでしょうから(登録は1979年)、本当の住民だけが住む静かな村だっただろうと想像します。

ロマン・ロランが晩年の7年間を過ごした家は残っていて、 現在ではゼルヴォス美術館(Musée Zervos)になっています。ヴェズレーの丘を登り始めてすぐ、右手にあります。

http://www.vezelaytourisme.com/art221-les-musees 

ミュージアムは、ヴェズレーに居を構えていた美術批評家のChristian Zervos(クリスチャン・ゼルヴォス)がヴェズレー村に遺贈したコレクションを展示しています。

ゼルヴォスが住んでいた家からの眺めの写真を入れた日記:
永遠の丘ヴェズレーを色々な角度から眺める 2013/06/23

ヴェズレー村には昔をほうふつさせる古い家が軒を連ねているのに、ロマン・ロランの家は変に現代風な家構えに修復して、味気ない姿になっています。ここは銀行かと思ってしまう鉄格子のようなドアがついた入口で、全く魅力的に見えない!

いちおう写真は撮っていますが、わざわざ挿入する気にもならないので、Wikipediaに入っている写真をご覧ください。 現代美術のコレクションを入れたミュージアムには価値の高い現代美術の作品が入っているそうなので、泥棒が入れない玄関にしたのでしょうね。

現代美術には興味がない私なので、一度も入ったことがありませんでした。でも、今回の滞在では行ってみることにしていました。ヴェズレーにあるものは何でも見てしまおうと決めていたからです。

とりあえず、丘の上に並ぶ集落の外側の道を散歩したら、目抜き通りとは反対側からロマン・ロランが住んでいた家が見えました。



表通りから見ていたら小さな家の構えだったのですが、奥に広がっていて、かなりの広さがある家なののだと分かりました。この位置だと、緑が広がる大地の眺めも良いはず。

美術館となっているロマン・ロランの家に入場すると、内部では撮影禁止でした。それで、大目に見てくれると言われたテラスに出たときの写真だけ撮影。



テラスの柵から覗き込むと、丘の上にある大聖堂が少し見えました。

このテラスの下にも庭があって、そこに面した道路の向こうにある土地も、ロマン・ロランの死後にはこの家と一緒にパリ大学に寄贈されていました。彼が住んでいた時代には、かなり広い地所の邸宅だったようです。

もしも私がこの邸宅を買えるような身分だったら、このテラスを少し張り出させてサント・マドレーヌ大聖堂を見ながら食事ができるように改造したけれど、ロマン・ロランがしなかったところを見ると、彼は大聖堂を毎日眺めたら幸せを感じるという人ではなかったのだろうと想像しました。調べてみると、彼は宗教には普遍的な考えを持っていたらしい。

ミュージアムは、かなりお金をかけて作ったと見えました。ここまで現代風に修復されてしまうと、ロマン・ロランが静かに暮らした雰囲気を味わえないので、私には残念なので、不平タラタラになってしまうのですけれど...。

ロマン・ロランが住んでいた時期を保存していたのは、書斎と寝室だけしかありませんでした。

でも、窓からの眺めがすばらしく、部屋には見事な暖炉やピアノがあるので、少しは当時をしのばせてくれました。でも、ロマン・ロランだけに惹かれて行った私には物足りない。地下のセラーは広くて素晴らしいので、彼が住んでいたときのままにしておいてくれたら、魅力的な家だったのだろうと想像してみるだけ...。


生家があるクラムシー町

ロマン・ロランが生まれたクラムシー(Clamecy)には、Musée d'art et d'histoire Romain Rollandという、ロマン・ロランの名前を付けたミュージアムがあります。

同じブルゴーニュ地方とはいえ、ヴェズレー村はヨーヌ県(Yonne)であるのに対して、クラムシー市はニエーヴル県(Nièvre)にあります。でも、車で30分くらいで行けてしまう近さなので、今回のヴェズレー滞在中にも2回行っていました。

クラムシーの博物館は、ロマン・ロランの名前は掲げているものの、「芸術と歴史ミュージアム」と名がつけられている通り、こちらもロマン・ロランのためだけの博物館ではありません。

でも、地元ニエーヴルの陶芸や、昔は地元を繁栄させた木材をパリに運ぶ地場産業、故大統領ミッテランのコレクションなども展示しているそうなので、行ってみました。地域の博物館を見学していたら、入場割引券もくれた、というのも理由。
 
クラムシーに行ったときの過去の日記:
フランスの筏(いかだ)師 2008/01/21

ロマン・ロランの生家と彼の祖父の家も使っているミュージアムだと説明があったのことですが、雨が降っていたので外観は眺めずにミュージアムに入りました。近代的な大きな建物で、どこがロマン・ロランの生家だったのか全く分からず。というか、最近になってミュージアムの展示室をリニューアルしたときに、生家の部分は使わないようになったのではないかとも思いました。

ロマン・ロラン関係の展示は、現代的なスペースに、関係するものを少し並べただけという、かなり味気ないものでした。



ロマン・ロランの書斎の再現スペースです。壁には彼が平和主義者であったことを示すためらしく、ガンジーと会っている場面の写真が飾られていました。
 
機能的で、シンプルな書斎...。こういう感じで並べてくれたって、文学作品のインスピレーションが湧くというのは全く体感できません!

日本で出版された書物も展示されていました。読んだことがあるような気もしました...。




墓地のあるブレーヴ村

クラムシーの町から10キロくらいなので、ロマン・ロランの墓地があるブレーヴ村(Brèves)にも足をのばしてみました。ここもニエーヴル県。家族の出身地で、 彼自身も住んだことがある村なのだそうです。

墓地の入口にはロマン・ロランの墓があることを示すプレートがあったのですが、中に入ってみると何処だか分らない。しばし、墓石に書かれている名前を読みながら探しまわりました。

教会の壁のところに、墓石を発見!

 

薄いピンクのバラが墓石を飾っています。ロマン・ ロランは、自分が死んだら、その墓の傍らには日の照る一本のオリーヴの木がほしい、と書いたそうですが、ブルゴーニュではオリーブの木なんかは育ちません...。

仰々しい墓石ではないのが気に入りました。でも、石が汚れていて、文字がかろうじて読める程度...。

 

墓石にシミがついていたのは、今年は雨が多いので石が痛めつけられたのかもしれません。ピカピカの大理石風の墓石は大嫌いなのですが、最近のフランスでは非常に人気があるらしいのは、ツルツルだと風雨に強いからなのだろうな... などと思ったり...。


ロマン・ロランを偲ぶ博物館が欲しかった...

墓がある村の名前に間違いがなかったかをインターネットで検索したら、ロマン・ロランの墓が損傷しているという記事が出てきました。墓石に刻まれている文字が、何者かによって、きっかき傷をつけられているとのこと。ロマン・ロランは反ファシズムの作家だったので、憎む人がいるのでしょうか?...
 
出てきたのは1年前のニュースでした。その記事に入っている写真に見える墓石は灰色で、私が見たものはベージュ色になっているので、その後に損傷を直したのだろうと思います。

それにしても、これだけ世界的に有名で、偉大な作家なのに、故郷でさえロマン・ロランだけのための博物館ができていないのは気の毒になりました。

ジュール・ロワが使っていた当時の姿を残した書斎彼に比べたら、ずっと知名度が低い作家ジュール・ロワ(Jules Roy: 1907~2000年)が残したヴェズレーの家のような博物館があったら良かったのに...。

過去の日記:
ヴェズレーにあるジュール・ロワの家 2013/04/30

ジュール・ロワの方は、自分の書斎をそのままの姿で残し、家は文学者たちの出会いの場とするようにと遺言を残していました。

今回の滞在では、夜にジュール・ロワの家に明かりが灯っているのが見えたのですが、博物館で聞いてみたら、文学者が泊まっていたからだとのこと。そんな風にも利用されているのでした。

ロマン・ロランも、ヴェズレーで済んでいた家をパリ大学に寄贈しているのですが、ジュール・ロワのように文学発展の貢献をする施設にはしなかった。2人の亡くなった時期は半世紀もの差があるので、時代の違いもあるのかな?...

ロマン・ロランは、フランスではどの程度評価されているのだろうか? ロマン・ロランはコスモポリタン。フランスでは、ヴィクトール・ユーゴーなどのような英雄的作家としては認められていないのではないかな?...

祖国で評価されるか、外国での方が評価されるかといのには差があると思うのです、ヴィクトール・ユーゴーなどは、日本では『レ・ミゼラブル』の著者として知られていて、それはベートーベンの代表作は『エリーゼのために』だと言ってのけるくらいに大きな認識の違いだと思う。

ロマン・ロランは日本の方がファンが多いのかも知れない、という気もします。フランスの友人に『ジャン・クリストフ』を読んだと言ったら、あんな長編小説を読んだの? という顔で驚かれたのです。日本人なら誰でも読む小説で、驚くには全く値しないと思うのですけど!

日本アマゾンでロマン・ロランの作品を検索 (人気度順)


今回の旅行で辿った地点:

大きな地図で見る

ブログ内リンク:
ロマン・ロランの生まれた町にある建物 2008/01/17
★ 目次: 文学者・哲学者、映画・テレビドラマに関する記事
★ シリーズ日記目次: 不思議なクラムシーの町 2008/01/16
日本人が来てくれるから賑わうフランスの観光地もある 2006/03/23

外部リンク:
ロマン・ロラン研究所
Association Romain Rolland
Musée Zervos
Musée d’Art et d’Histoire Romain Rolland à Clamecy
Romain Rolland & Claude Tillier à Clamecy
☆ 1945年の映像: Deux hommes sont morts : Romain Rolland et le Colonel Fabien
☆ 島野盛郎/人類愛と芸術に生きたロマン・ロラン: (I)  (Ⅱ)
カバレフスキー:歌劇「コラ=ブルニョン」作品90
ロマン・ロラン『どこから見ても美しい顔』


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2013/06/25

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その4


ヴェズレー村(Vézelay)に到着して丘の頂上に向かう道に車を入れたら、いつになく道路が賑わっている。何がおこっているのか、すぐに分かりました。結婚式です。

セント・マリー・マドレーヌ大聖堂(Basilique Sainte-Marie-Madeleine)であげられるミサに集まった人たちだったのですが、かなりの上層階級らしいことが集まった人たちの服装から推察されました。世界遺産にも登録されている美しいロマネスク様式の教会で式をあげるなんて羨ましい限り。

でも、集まっている人たちが、普通のフランスで見かける結婚式の服装と余りにも違うので、大聖堂前の広場で車を降りてから写真を撮ってみました。



目立つのは、女性たちの帽子!

突拍子もない帽子をかぶるのはイギリス王室の滑稽なファッションだ、とフランス人たちは茶化すのですが、フランス人たちだってやるではないですか?!

こんな派手な人たちが集まる結婚式のミサはどんな風なのか聖堂に入って見学したかったのですが、到着したところだったのでその時間はありませんでした。


ヴェズレーの大聖堂で行われるミサ

クリスチャンではないのですが、せっかくヴェズレーに滞在するので、ある日の夕方、ミサに参加してみました。



普通に見るミサと全く違う!

ヴェズレー村にある男性の修道院の人たちと、女性の修道院の人たちが合同でミサをあげているのでした。男女で分れていて、向かって左側に男性、右側に女性たちが座っていました。

あれ、あれ、昨日の夜、パイプオルガンで「エリーゼのために」なんかを弾いていたチョンマゲのような髪型の男性は僧侶だったのだ...。

そのとき、ドアを閉め始めていた男性が、一番最後に閉める扉を教えてくれながら、ゆっくり聖堂で過ごすようにと言ってくれたのですが、その人も僧侶だった。



ミサの始まりにある沈黙の祈りをささげている場面なのですが、地べたに正座できないからでしょうか、風呂のイスのような形のものを使っているのが気になりました。

イスの足の間に自分の足を入れると、ほぼ正座の形になる。

日本でも正座ができない人が増えたので、専用のイスがあったけれど、もう少し便利そうな形があったのでは?...



さすが日本の道具は工夫に富んでいます。でも、僧侶たちが使っていた木の簡素なイスも魅力的。大聖堂横にある修道院運営のブティックではこのイスを売っていましたが、面白いと思ったもの全てを買っていたらきりがないので、買うのは止めました。

イスなんかを気にしたのはミサの始まりのときだけ。後は、どっぷりミサの雰囲気にひたりました。

普通のミサは司祭さんなどが長々とお話しするのですが、ヴェズレーの大聖堂のミサでは、ほとんど歌ってばかりいるので素晴らしい。時々、楽器の演奏もあります。



マイクを使っていたのですが、音の調節は良く、聖堂の中に自然に音が溶け込んでいました。まるでコンサートを聞いているよう。しかも、周りを見回すと美しい彫刻...。

私が参列したミサに参列していたのは30人くらいでした。

ここはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼路の出発点です。いかにも巡礼者と分かる人たちがたくさんいる村で見かけるのですが、もちろんミサにも参列するのでしょうね。まわりにいた人たちは敬虔な信者であることを感じる熱意を感じました。

ミサが終わるとき、まわりの人たちと抱き合って挨拶したり、握手したり。それは知っていたのでやったのですが、祭壇のある内陣にいた修道僧たちがこちらに歩いてきて、一人ひとりに挨拶を始めたので驚きました。

手を差し伸べるので、握手するのかと思って片手を出したのですが、互いに両手を握り合うのでした。そのとき、次のように言うものらしい。

- (Je vous donne) la paix de dieu.
神の平和(をあなたに与えます)。

シスターたちは優しい笑顔を向けて私の両手を握ってくれました。何だか心が安らいで、嬉しくて、涙が浮かぶほど感動してしまう...。


1日に何度もミサが行われる

ミサが行われる時間が書かれていました。



月曜日はなぜか夕方のミサしかないのですが、その他の日は、朝、昼、晩とあります。

祭壇に近いところに座っていたときは写真撮影を遠慮していたので、その他の日は遠くから見させてもらいました。







祭壇の横に行って、聖体を配る場面を観察しました。この儀式でも、普通のミサとは違うのが気になったのです。



フランスで「hostie(聖体)」と呼ばれる、海老せんのような形をした食べ物が配られます。昔は聖職者から直接口に入れてもらっていたのが、最近は自分の手で受けてから口に入れるようになったのだと聞いていました。

これをもらうのは信者であることが条件なのだと言われていたので、私が大聖堂のミサに参列してみたときには出て行くのを遠慮していました。

聖体が配られるのは普通のミサと同じ。でも、ここでは「キリストの血」と言ってミサをあげる人が飲む聖杯を4つ用意していたのが変わっていました。参列していた僧侶たちの何人かがそれを飲んだのですが、その後、聖杯を持って参列者にも飲ませていたのでした。

さすが、子どもにはすすめていませんでした。中に入っているのは白ワインのはずですから。

もう1つ、普通の教会と異なっていることがありました。ミサが終わったとき、献金のカゴが回ってこなかったのです。


参加者が多いのは、昼と晩のミサ。朝7時からのミサのときに行ってみたら、参列している信者は2人かいませんでした。



普通の教会のミサだったら、司祭さんはお説教する張合いがなくて困るでしょうが、ここでは修道院の人たちが自分たちのためにミサをしているので構わないのでしょうね。

ヴェズレーに住んでいると、修道院の人たちとも顔見知りになってしまうようです。私がたった1週間滞在しただけでも、顔を覚えてしまう人たちが何人もいましたので。

ヴェズレーの大聖堂は、修道院の人たちが管理しているのです。早朝の掃除機を使ったお掃除、開聞のドアの開け閉め、観光客を案内するガイド、大聖堂横のブティックでも働いているので、話しをすることもありました。

満ち足りた表情をしていて、とても優しい人たちでした。強い信仰心がなければできない生活だけれど、いいな... と思いました。しかも、何度見ても飽きない、こんな美しい聖堂が生活の場だなんて羨ましい。

ブログ内リンク:
★ 目次: フランスで感じるキリスト教文化
★ 目次: 宗教建築物に関する記事
★ 目次: サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に関する日記
★ 目次: フランスに結婚に関する風習、夫婦・家族関係

外部リンク:
Sainte Marie-Madeleine La basilique de Vézelay


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2013/06/24

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その3


ロマネスク建築が好きなので、地元ブルゴーニュ地方にあるヴェズレーのサント・マリーマドレーヌ大聖堂(Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay)には頻繁に訪れます。

でも、大聖堂の前に立つと、世界遺産にも登録されている大聖堂なのに、何とかならないのかならないのかな?... と、いつも思ってしまう。 



正面入口の大きなティンパヌムは、19世紀にヴィオレ・ル・デュクが大聖堂が修復されたときに作られたものなので醜い彫刻なのは仕方がないにしても、壁面をきれいにする予算がどこかから出ないのだろうか?,,,

それでも、知らなかったらどうということがない、この宗教建造物の中に入ったら、ロマネスク建築の傑作の世界が広がっているといのは、かえって感動を与えるかもしれない...。

今回はヴェズレーに滞在して時間があるので、この大聖堂の中にある彫刻を1つ1つ見るぞ~ とはりきりました。数年前に大聖堂の中で買った彫刻を説明する小冊子と小型望遠鏡を持って、朝早く、まだ観光客たちが来ていない時間を選んで行きました。

でも、フランス語でchapiteauと呼ばれる柱頭彫刻は100くらいあります。さらに、大聖堂を入ったところにある ティンパヌムが3つあって、その彫刻の部分についての説明は50項目余りあります。

柱頭彫刻は3面になっているので、1つの彫刻を見るのにも時間がかかります。1日で彫刻を丹念に眺めるのは無理。小冊子片手の彫刻鑑賞は、3回に分けて、つまり3日かけて行いました。根気があったら、もっと時間をかけたのですけれど...。見るたびに新しい発見がある。ヴェズレー村で暮らしていとしても、10年かけても鑑賞しきれないだろうと思いました。



詳細に見ると面白い

彫刻の意味を解読する小冊子の説明は興味深かったです。なんでこんな怪物がいるのかと思う彫刻も、意味を知ると、なるほど、と思う。

キリスト教の予備知識がなくても、そんな画面なのだろうと想像できるものはあります。 例えば、こちら。


Adam et Ève  (祭壇から見て右側 Bas-côté nord

裸の男女がいて、木に蛇らしきものがからまっている。アダムとイヴだと想像できますよね?

ところが、イヴが手にしているのはリンゴではなくて、ブドウの房という説明でした。ここブルゴーニュはワインの産地なので、そうなったのだろうとのこと。

このアダムとイヴは、大聖堂の彫刻の中でも最も古く、カロリング朝のものではないかという説明でした。その頃にはブドウを栽培していたでしょうね。

過去の日記: ★ ローマ帝国のプロブス皇帝とフランスワインの関係 2011/08/06

それにしても、ブドウにしては実が大きすぎませんか?

でも、「ブドウを食べる2人の男」と説明されている彫刻が全く別のところにあって、そちらの実も巨大なのです。


Deux hommes mangeant du raisin (拝廊 Narthex)

右の人は後ろに棒を持っているので何か意味がありそうなのですが、説明はありませんでした。


途中までしか彫刻していない!

柱頭彫刻を眺めるときは、いつも美しいものに目がいくのですが、じっくり見ていたら、変なのもあることに気がつきました。



写真の左側の彫刻です。
向かって右と正面の中央まで彫刻があって、残りの半分と左面は石のまま。上の部分の丸も、何か彫る予定だったのではないかと思えます。つまり、ここで仕事を止めてしまったということ?

石に彫刻をするのは大変なので、この部分を彫刻してから柱にのせるのだろうと思っていたのですが、柱を作ってしまってから彫刻していた、ということなのかな?....


最も有名な彫刻

ヴェズレー大聖堂の柱頭彫刻で代表的なのは「神秘の粉挽き機」の彫刻です。数ある柱頭彫刻の中で、何か1つだけ選ぶとしたら、たいていこれになるはず。


Le moulin mystique (祭壇から見て左側 , Bas-côté  sud)

この写真を入れた過去の日記:
ヴェズレーの聖マリー・マドレーヌ聖堂 (世界遺産) 2013/04/29

意味が分からなくても、美しさに目を奪われる彫刻...。 私もヴェズレーの大聖堂を訪れると、必ず、この彫刻は眺めます。

この彫刻の解釈では、旧約聖書から新約聖書への移りを示す、とされています。左側にいる短い衣を着て靴を履いている人物(モーゼ)が小麦の粒を臼に入れている。その臼には十字架を象徴する車輪が見えて、それがキリストを意味している。右側にいる人(聖パウロ)は、裸足だけれどゆったりとしたトガを着て、臼を通って小麦粉になったものを受け取っている。

大きな画像はWikipediaに入っている画像でご覧ください。望遠鏡を使わないと見えないような細部まで見ることができます。

殻がついた小麦の粒を見ても、中身が分からない。キリストという臼を通って小麦粉になったら分かりやすい教えになった、ということのようです。言われてみれば、なるほど... と思うのですが、どうしてそう解釈できるのだろう?...


貧者と富者のテーマ

彫刻は、全く違った場所に続きの画面があることを発見しました。

下は、始まりの部分の彫刻。


Le festin du riche (祭壇から見て右側 Bas-côté nord)

中央では、赤紫色の麻でできた服を着た金持ちが贅沢な食事をしています。
色の説明まであるのは奇妙ですが、今日見るロマネスク彫刻とは違って、当時は彩色が施されていたが普通でした。

左の画面では、貧しいラザロが食事のおこぼれを期待して家の前にいます。ラザロは潰瘍に病んでいて、犬がそれをなめています。

そのお話しの続きは、かなり離れた場所にありました。いつも眺めていた「神秘の粉ひき機」の隣(上に入れた写真にも一部が写っています)。今までに見ていたとしても、何の意味かは分からなかった...。


La mort du pauvre Lazare et celle du riche (祭壇から見て左側 , Bas-côté  sud)

金持ちの家の前でうずくまっていた貧しいラザロは死を迎える。左側の部分がそれで、2人の天使が後光で彼を包む。次の画面が右に続き、金持ちは女性に囲まれてベッドで死を迎えている。

金持ちの死では、蛇が彼の富にむさぼりつき、2人の悪魔が彼の魂をつまみ出している。

話しは右に続き、天国の木々の下でアブラハムがラザロの魂を懐に受け入れている。

聖堂にある彫刻は、ほとんどは聖書から来ていて、それが教えを示すものだったのでしょうね。この彫刻に関しては、最後の審判?

聖書を暗記するほど読んでいる人たちは、彫刻を見ただけで意味が分かるのでしょうね。
ルカによる福音書第16章

ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

この 貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。



気になっていた花の模様がここにあった!

ヴェズレーの大聖堂に入って彫刻を眺めだしたとたんに、びっくりするものに出合いました。



今までは全く気にもしなかった、4つの花弁がある模様。

先日書いた日記で、友人が遺産相続した家にあった彫刻にあった意味ありげな模様なのです。

そのことを書いた日記:
屋根裏部屋にあった古めかしい彫刻の解読を試みる 2013/06/12



ロマネスク美術ではよく見られる模様だと書いている人もあったのですが、ヴァズレーの大聖堂では、両側の側廊の壁面の上が、全てこの模様だったのです。

どこかで見た模様だとは感じていたのですが、ヴェズレー大聖堂にはこんなにたくさんあったとは!

ロマネスク美術の柄の1つだと書いていたサイトでは、これがスミレの花だと言っていました。スミレなのかな?,,, そう思いながら観察していたら、8つの花弁の中に同じ模様が入っているものもありました。



Tympan sud

こうなると、8枚の花弁があるのは何の花なのか気になってくるのですが、もうきりがないからやめようっと!



大聖堂の博物館

ヴェズレーのサント・マリー・マドレーヌ大聖堂の中には博物館があります。この大聖堂を19世紀にヴィオレ・ル・デュク(Eugène Viollet-le-Duc)が修復したときに保存した12世紀の彫刻などが収められています。

ちなみに、歴史的記念物総監であったメリメがヴェズレーの大聖堂修復のために抜擢したヴィオレ・ル・デュクは、当時26歳の無名の建築家でした。

前々から行きたかったのですが、入館できたのは今回が初めて。なにしろ、観光客が多い週末や夏などにしかオープンしていない。そういう時期は避けて行っているので、行ったときにはいつも閉まっていたのでした。

Musée de l'Oeuvre Viollet-le-Duc」という名なのですが、人に来て欲しいとは思っていないのではないかと疑ってしまう変な博物館。

オープンしていないときが多い他に、場所も隠れているのです。大聖堂の正面に向かって、建物の外側を右手に歩いて行くとあるのですが、「ここにあるはずだ」と確信していないと見えないです!

大聖堂の中で見る彫刻は高いところにあるのでよく見えないのですが、ここは目が届く距離、触ってしまえるほど近くに陳列されていたのです。



望遠鏡を使うと柱頭彫刻もよく見えたのですが、たくさんある彫刻の1つ1つを望遠鏡で見るのは疲れるので、途中で放棄していました。

近くで見ると、こんなに繊細に石を彫り込んでいたのかと驚きます。





大聖堂にある彫刻は、修復時に作った模造も入っています。

下は、本物の方。もっとも、非常に高いところにあるので、肉眼ではほとんど見えないのでコピーでも構わないと思ってしまいます。


Médaillon de l'église

左手に小さな教会、右手に軍機を持って、冠をかぶって、でんと座っていますが女性です。周りに書いてあるラテン語の意味は「今や煙ですすけ、後には美しくなる」。

1120年に大聖堂の火災があり、現在見るロマネスク様式の身廊が建てられたときのものではないかと言われているのだそう。Cantique des Cantiques(ヘブライ聖書の一遍?)の中に、教会を象徴する妻が「私は黒いが美しい」という文章にまつわっているのではないかとのこと。


小さな博物館なのですが、憧れの彫刻をまじかに見れたのは感激。またヴェズレーに行ったとき、ここがオープンしていたら入ってしまうと思います。


DRDA : L'héritage de Viollet-le-Duc


ブログ内リンク:
★ 目次: 宗教建築物に関する記事
★ 目次: フランスで感じるキリスト教文化
★ 目次: サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に関する日記
ヴィオレ・ル・デュクが修復したピエールフォン城 2010/05/12
★ 目次: 画家、彫刻家、建築家の足跡を追って

外部リンク:
☆ art-roman.net: Vézelay
☆ L’Art Roman Bourguignon: Basilique de Vézelay
La basilique de Vézelay, les chapiteaux - J'y suis, j'y reste
サント・マドレーヌ・バジリカ聖堂 (ヴェズレー)
☆ サント・マドレーヌ・バジリカ聖堂: (1) 外観/拝廊 編  (2) 身廊/側廊 編
Musée Viollet-le-Duc - Vézelay
MUSÉE DE L’OEUVRE, VIOLLET-LE-DUC
☆ INHA: VIOLLET-LE-DUC, Eugène-Emmanuel


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2013/06/23

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その2


「フランスの最も美しい村」協会に入っているヴェズレー村(Vézelay)は、スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の起点。小高い丘の上に大聖堂を頂いくヴェズレーの丘は、フランスでは「Colline éternelle永遠の丘)」と呼ばれています。

遠くからやってきた巡礼者たちは、丘が見えると喜んだのでしょうね。

丘の麓まで来ても、そこから大聖堂のある頂上まで登るのは結構大変なのですけど。この度の旅行では、丘のほぼ頂上にある家に滞在したので、下まで歩いて降りて行くのは良いにしても、帰りのことを考えると、できるだけ丘の中腹くらいまでの散歩にとどめるようにしていました!

ヴェズレー村は、「ヴェズレーの大聖堂と丘(Basilique et colline de Vézelay)」という名でユネスコの世界遺産に登録されています。

アヴァロンの町からヴェズレーに入って見えてくるのは、この姿。 丘の頂上に大聖堂の尖塔が見えます。



もう少し近づくと、聖マリー・マドレーヌ大聖堂がくっきりと見えてきます。



ヴェズレー村はかなり広いのでした。丘の上にある観光スポットの大聖堂をいただく丘がヴェズレー村かと思っていたのですが、周辺にある幾つもの集落がヴェズレー村となっていました。

ヴェズレー村の人口は500人近く。でも、観光客相手の店のオーナーは周辺に住んでいる人たちが多い。村にあるレストランの人の話しだと、丘の上に住んでいる実際の住人は、修道院に住む人たちを入れても100人くらいではないかと言っていました。男性の修道院と、女性の修道院があって、住民に数えられた人たちは30人くらいを占めるのではないかな?...



丘の手前がヒナゲシの花で真っ赤になっている風景もありました。栽培しているのではないかと思ってしまう量ですが、ヒナゲシは雑草のはずなのです。 これも気に入った風景。天気が悪くて、ヒナゲシの赤い鮮やかさは欠けていましたが。


ヴェズレーの丘にはロマン・ローラン(Romain Rolland)が晩年を過ごした家(1937~1944年)がMusée Zervosとしてミュージアムになっているのですが、ここにはギリシャ出身の美術評論家・文筆家のクリスチャン・ゼルヴォス(Christian Zervos)のコレクションが展示されています。そのゼルヴォスが住んでいたのは(1930~1970年)、ヴェズレーの丘を望むLa Goulotteという名の集落でした。

その家の前からの眺めです。
ここもヴェズレー村なのですが、見事にヴェズレーの丘に並ぶ家並みが見えました。




遠くから眺める

今回はヴェズレーに7泊したので、あちこちから丘を眺めてみました。大聖堂が大好きなのですが、丘そのものも好き。「永遠の丘」と呼ぶのに相応しい姿なのです。

ヴェズレーからどこかに行くときによく通ったのはサン・ペール村(Saint-Père)。有名シェフが経営するホテル・レストランL'Espéranceがあることで知られている村です。Saint-Père-sous-Vézelayという村(ヴェズレーの下にあるサン・ペールの意味)というのが村の名前だと思っていたのですが、それは以前の呼び名なのだそう。

シェフは以前は3つ星だったのですが、今は2つ星。私は、レストランに1回行って食事したことがあるただけ。ホテルの客室からは木立に隠れてしまって見えないのではないかと、いつも前を通る度に気になっていました。 ヴェズレーの目と鼻の先に高額を払って泊まりながら、永遠の丘が見えなかったら残念ではないですか?

川辺に出てみたら、永遠の丘が見えました。


Saint-Père

でも、家並みは木立に隠れてしまって大聖堂があるのが確認できる程度。 この見え方はつまらない...。


ヴェズレーの永遠の丘は、かなり離れても見えました。



永遠の丘が見えるようにイスを並べていたカップル。休暇中でしょうね。


最も気に入った場所

素晴らしい眺めを見つけました。ヴェズレー村から車で5分くらいで行けてしまえるところにあるAsquins村の外れです。

Asquins

ヴェズレーの丘には霧がかかって、雲海に大聖堂だけが浮かぶ丘というのがイメージなので、それが見たくて、朝6時頃からドライブしたのでした。

夏なので霧は少ない。この日起きたときには、窓から雲海が見えたので絶交のチャンスと思って出かけることにしたのですが、コーヒーなんか飲んでいるうちに消えていってしまったようなのでした。

それでも少し、丘に霧が流れてきたので満足♪

ところでAsquins村。普通はアスカンと発音するのだと思うのですが、この村に住んでいるお爺さんと知り合いになったのですが、「アーカン」と言っていました。地元の人はそう発音するのかな?

牧場には牛がいて、ブドウ畑も広がっているという絶景地。

こんなところにブドウ畑があるのに驚いたのですが、日本にもアスカン村のワインが輸出されていると知って2度びっくり。

ヴェズレーの周辺では昔からワインが醸造されていたのですが、しばらく途絶えて、最近になって復活したのです。

昔はワインの醸造が盛んだったのだろうと思います。昔にヴェズレーの丘で大火事があったときには、放水する水が足りないのでワインを撒いて火を食い止めたという有名な話もあります。

「ヴェズレー」の名を付けられるのは白ワインだけなのだ、と今回教えられました。赤の方は、ただの「ブルゴーニュ」としか呼べないのだそう。

ヴェズレーの白ワインは何度か飲みましたが、ちょっと癖があって、私は苦手なのですが、その癖が好きな人がいるのかもしれない。

ともかく、ブドウ畑と牧場が広がっている風景は大好き。この地点でヴェズレーの丘を眺めて1時間くらい過ごしてしまいました。


大きな地図で見る


追記
他にも別の角度から見たヴェズレーの丘の写真を入れた日記をに入れました:
ブルゴーニュ地方にあるヴァ―バンのゆかりの地を巡る 2013/06/27
ピクニックに最適な場所は川のほとり 2013/07/01

ブログ内リンク:
★ 目次: サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に関する日記
★ 目次: フランスの美しい村々について書いた記事
★ 目次: ワインなどアルコール飲料に関するテーマ

外部リンク:
☆ UNESCO: Basilique et colline de Vézelay


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2013/06/22

シリーズ記事目次 【ヴェズレー8日間滞在記】 目次へ
その1


ヴェズレー村(Vézelay)にある大聖堂では、夏至日の正午に聖堂の中に「光の道(Chemin de lumière)」ができると聞いたのはいつのことだったか?... ブルゴーニュ地方にあるので日帰りできるくらいに近いのですが、今年になって、やっと見に行く機会が訪れました。 大聖堂に近いところにある家に1週間滞在。

世界遺産にも登録されているヴェズレーの大聖堂の名前は、Basilique Sainte Marie-Madeleine。日本語では「サント=マドレーヌ大聖堂」とするのが一般的なようでした。フランス語の名称では、聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)」を祭るバジリカだと分かります。なぜ日本では「マドレーヌ」だけになってしまったのかな?...

夏至点(太陽の赤緯が最大となる点)は、今年は6月21日(月)。光の道ができるのは太陽時計で正午なので、普通の時計とは2時間の時差があります。光の道を見るには午後2時から3時ころが良い、という情報がありました。


夏至の3日前(6月18日)

もちろん太陽が照っていなければ、聖堂の中に光が差し込むはずはない。 夏至日を待たずに行ってみたら、光の道はできていました♪ 感激...。


2013年6月18日 14時2分撮影

南側にある窓から光が差し込んで、narthex(ナルテックス、キリスト教聖堂の正面入り口の拝廊) からchœur (祭壇のある内陣)へと光の道ができました。 光の環は9つ。

教会の祭壇があるのは、特別な例外を除いてメッカの方向、つまり東と決まっています。


2013年6月18日 14時20分撮影

調べることもなく、ここも祭壇は東の方向を示していました。

この光の道に導かれて歩けば、メッカにたどり着く?... カトリック信者にとっては特別な意味を持つものなのだろうと、初めて気がつきました!

見に来た人はまばらで、おごそか...。
また見に来れるか分らないので、写真を撮りまくりました。


光の道ができる構造は?

祭壇のテーブルの上にまで光があがってとまったら見事なのに、内陣の手前で道はストップしていました。 


2013年6月18日 14時19分撮影 

上と反対側、つまり内陣の、立ち入り禁止の手前に立って見たところから見た写真も入れます。


2013年6月18日 14時9分撮影

南側の上の窓(写真左手)から日が差し込んでいます。

実は、私は大きな勘違いをしていました。聖堂の中央にある通路に点々と光が落ちている写真を見て、西側(写真中央)の上に見える窓や、扉から祭壇の方向に日が差し込む構造になっているのかと思ったのです。

上にある窓から光が差し込むわけなのでした。とすると、点々と光ができるのも当然なのでした!



夏至の正午、つまり太陽の赤緯が最大となる点に、この窓から光が入り込む構造にしたというのは凄い!

でも、上の窓は修復で下の部分が少し削られたので、正午とは少しずれるようになったらしい。 しかも夏時間があるので、フランスの時計は太陽時計と2時間のずれがあります。今年は6月21日の午後2時15分ころがピークだと言われていました。

ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂では、月日によって太陽の光は下の図のように差し込むのだそう。「21 juin」とあるのが夏至の日の光線です。

http://cadrans-solaires.scg.ulaval.ca/v08-08-04/pdf/4-4-vezelay-cs.pdf

夏至日の光に工夫があるなら、冬至日にも何かがあるのか気になりました。「21 décembre」と書いてあるのが冬至で、この角度からだと柱頭彫刻を照らしだすようです。こちらとか、こちらに画像が入っていました。思い出せば、柱頭彫刻がやたらに良く見えるときがあったけ...。

変哲もない窓から差し込む光は、光の道では窓の形とは違って丸くなっていました。 光線の具合がパーフェクトだと、丸の形も小さくなるような気がします。

ひょっとして、イスが作る影も変わっているのかと思って眺めてみる。



近くに並んでいるイスなのに、影の形が微妙に違う。でも、これが丸い光を作るのと関係しているのかどうかは、私には分りません...。


夏至の日(6月21日)

いよいよ、夏至日の到来。でも、天気予報は曇天か雨となっていました。

少し早く見てしまったからどうでも良いや、という気分で行ってみると、この日に光の道を見ようと待ち受ける人たちがたくさん来ていました。

日本だったら足の踏み場もなくなるほどの観光スポットになってしまうでしょうが、さすがフランス。しかも、観光バスが押しかける時間でもないので、混雑というほどではない。

でも、聖堂に入ってみたら、いつもにはない緊張感が漂っていました。

やっぱりね、と思ったのはプロのカメラマンが交通整理(?)をしていたこと。聖堂の後ろ正面に踏み台を設置していたのですが、その視界を遮る場所にいた人たちに声をかけて、どくように促していました。



白いジャケットを着ているのが、その人。何人かプロのカメラマンがいたら、みんなで交通整理ができたでしょうが、彼は1人。あっちに行ったり、こっちに行ったりで、自分はプロなのだからどけ、と声をかけていました。

皆だって写真を撮りたくて来ているのであって、商売で写真を撮るのだから優先しろ、という道理は通らないと思うのですけど。それに、カメラマンの口調は横柄なので、怒っている人たちもいました。

カメラマンの仕事というのは大変だろうなと思う。ただ、上手に写真を撮れる技術があるだけではプロにはなれないと思うのですよね。人物の写真を撮る場合には、うまく気持ちを和ませて自然な笑顔を作らせたりとかもある。

野生動物の写真を撮る専門などというのは、根気と体力。戦場に行くには命がけだけれど、プロ魂を満足させる。邪魔な人たちがたくさんいる場面で写真を撮るのは、最も難しいのではないか、などと思ってしまいました。

光の道ができるところには、みなさん並んで座っていました。ふ~っと、ぼんやりとした光が差し込む瞬間もあって、みんなのため息が聞こえてくるような...。


左: 14時9分撮影  |  右: 14時10分撮影

せっかく皆さんいらしたけど、この日はアンラッキーだったと思いますね...。

この光の中を歩くと縁起が良い、というのもあるのだそうですが、こんなに人が多いと、みなさん遠慮していました。

しばし光が差し込むのを待っていたので、来ていた人たちとおしゃべりしました。フランス西部から来た人たちは、前日に素晴らしい光の道を見たといって、デジカメに入っていた写真を見せてくれました。

横柄にみんなをどかしたプロのカメラマンへの批判が話題になりました。「パリジャンのカメラマン」と呼ぶ人がいたので、「わざわざパリから来たと言っていたの?」と私は質問。

あの威張りくさった口調がいかにもパリジャンという感じだからそう呼んだだけなのだそう。



この日は晴天ではないと分かっていたので、他にはプロのカメラマンは来ようとしなかったのではないでしょうか? そもそも、ポスターなどで見る見事な光の道の写真だって、夏至の日に撮影したのだかどうかなんて、見る人には分らないですよ...。

もう時間が過ぎたから光の道はできないだろうと諦めたらしく、カメラマンは今度は電話をかけまくっていました。普通の人だと、教会の中で電話するなんて不謹慎なので、絶対に遠慮するのですけどね...。 




夏至の翌日(6月22日)

夏至の翌日の午後、大聖堂の横にある博物館で、修復時にとりはずした彫刻の数々に見惚れていたのですが、外は晴れているらしい。

飛び出して、また光の道を見に行きました。翌日というだけなのに、見学者は激減。信者の人たちは光の道を歩くのだと学んだので、私も歩いてみました。


2013年6月22日 14時48分撮影

結局のところ、夏至の日に見なければ意味がないという信仰心でもない限り、前後の時期に光の道を見るのが一番ではないかと思いました。

来年、2014年の夏至は6月21日で、土曜日になるので、もっと人出が多いのではないかとのこと。見にいらっしゃる方があったら、前後の日にゆっくりと鑑賞されることをお勧めします。夏至の前後の時期なら、1ヵ月くらい光の道が見えるのだそう。ただし、太陽が高く上る時間でないといけないでしょうね。

追記:
この翌年、夏至の1週間後に行ったときも光の道を見ることができました。
そのときの日記:
ヴェズレーの教会で、コミュニオンの予行練習が行われていた 2014/06/18

ブログ内リンク:
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外部リンク:
La cathédrale de Vézelay et la gnomonique
☆ Wikipedia: 至点


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