| Login |
2012/06/14

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その1


第二次世界大戦中、国土の半分以上がドイツに占領されていたフランスで、ナチスの傀儡となっていたヴィシー政権は、1942年7月16日から17日にかけて、パリ首都圏で大量のユダヤ人を検挙しました。

もちろん、彼らを待っていたのは強制収容所での虐殺...。

Rafle du Vélodrome d'Hiver(冬季競輪場の一斉検挙)ないしRafle du Vél' d'Hiv(ヴェル・ディーヴの一斉検挙)と呼ばれる出来事です。

フランス現代史の中で、アルジェリア問題と共に汚点となっています。先月、期せずして、これをとりあげたフランス映画を2本見る機会がありました。

ブログに書き始めていたのですが、手におえないほど大きな問題なので中断。でも、しばらくすると調べたことを忘れてしまいそうなので、書けることだけメモして日記にしておくことにしました。

見たのは、次の2本の映画です:
La Rafle
黄色い星の子供たち

生き残った400人の証言をもとに再現
Elle s'appelait Sarah
サラの鍵

ベストセラーとなった
タチアナ・ド・ロネの小説を映画化
※DVD画像をクリックするとストーリーを読めます。

「黄色い星の子供たち(仏題は「一斉検挙」)はフランスのテレビで放映されていたものを途中から、「サラの鍵(仏題は「彼女はサラという名だった」)の方はパリから東京に向かう飛行機の中で見る、という悪条件での視聴でした。

フランス人には知名度が高いであろうユダヤ人の一斉検挙について、私は何も知りませんでした。映画をしっかりと見ることもできなかったので、パリ市内にあった室内競輪場で何がおきたのかを調べてみました。


ヴィシー政権下の出来事

ヴィシー政権には暗いイメージの嫌悪感を持っていました。

友達がヴィシーに留学したとき、美しい温泉保養地の町だから遊びに来るように誘われたのも、拒否。

なぜか、足も踏み入れたくない町だったのです。

ついでに、ヴィシーのミネラルウォーターにも手が出ない。

中学でも高校でも、現代史の授業はいつも時間がなくなって割愛されていたので、先生の意図的な行為ではないかとさえ思っていました。現代史なんて興味がないので、大学でも授業を受けませんでした。

ですので、いつからヴィシー政権に嫌悪感を持つようになったか分かりません。

ヴィシーの町も一度は見ておかねばと思って、近くまで行ったついでに立ち寄ってみたのは、ずっと後になってからでした。有名なセレスタンの泉は美しい公園になっていて、ヴィシー政権のことなど嘘のようでした...。

ところが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙は、ヴィシー政権下の出来事でした。なんとなく嫌いという程度だったのですが、本当に飛んでもないことをしていたのだと実感。

フランスは特殊な時代でした...。

第二次世界大戦が勃発した翌年、1940年にはパリは陥落。内閣は総辞職し、軍人のペタンを主席とする内閣が誕生します。

ペタン内閣はただちにドイツに降伏。そして休戦条約が結ばれ(6月22日)、そのためにフランスは、パリを含む北部と東部(国土の5分の3)がドイツ占領下におかれ、残りの地域はペタン内閣の統治下に置かれることになります。

国家元首の地位についたペタンは、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立。これがドイツの傀儡となるヴィシー政権(1940~44年)です。同時に、第3共和政(1870~1940)は崩壊しました。

早くも10月には、ユダヤ人迫害法が成立してしまいます。

一方、後のフランス大統領として名を残すドゴール将軍は、休戦協定終結の前にイギリスに亡命し、ロンドンからフランス人たちに対して、対ナチス、対ヴィシー政権を訴えて、レジスタンス運動をおこさせます。


ヴェル・ディーヴの一斉検挙

1942年の一斉検挙は、ナチス・ドイツのVent Printanier(春風)作戦に従って執行されました。ショッキングなのは、ナチスがフランスでユダヤ人を検挙したのではなく、フランス政府が自ら行ったこと。

南仏につくられたドイツへの利得協力をするヴィシー政権(1940~1944年)は、9,000人もの警察官を動員して行し、1942年7月16日と17日に、パリ首都圏で13,152人のユダヤ人が逮捕されました(警察発表数)。

第二次大戦中にフランス国内で行われたホロコーストとしては最大規模のもの。そればかりか、フランス史上でこれほど大規模な一斉検挙が行われたのは、キリスト教の旧教と新教が衝突しておこったサン・バルテルミの虐殺(1572年)以来だとも言われます。

1942年の一斉検挙にかかわる画像を見せている動画です。

バックに流れているシャンソン歌は、ジャン・フェラ(Jean Ferrat)の「Si nous mourons (Lettre d'Ethel Rosenberg à ses enfants)」。

このときの検挙者13,152人のうちわけは、大人 9,037人、子ども 4,215人。大半はドイツの強制終了所に送られて殺されることになります。

これまでフランスで行われていたユダヤ人狩りでは男性が対象だったのですが、このときは女性も子どもも対象になりました。ナチスはユダヤ人なら子どもも捕まえろ、と命令したわけではなかったのに...。

ナチスの命令では、フランス国内にいる2万人余りのユダヤ人を捕まえろというものでした。逃げたり、かくまってもらったりして難を逃れたユダヤ人もかなりいたことになります。

やはり、フランス国籍のユダヤ人は大目に見てもらい、逮捕の対象となったのは東欧やロシアなどの国籍を持つ移民ユダヤ人の家族が対象となっていました。彼らはユダヤ人迫害から逃れ、フランス革命の博愛精神があると信じてフランスに避難してきていたのでしょうに...。
 

ヴェル・ディーブとは?

パリ市内のエッフェル塔に近い場所(15区)に冬季競輪場(Vélodrome d'Hiver)があり(地図)、それをパリの人たちは縮めて「Vél' d'Hivヴェル・ディーヴ)」と呼んでいました。

イヴ・モンタンの曲には「Vél' d'Hiv」と題された陽気なシャンソンがあるので(歌はこちら)、当時のパリっ子たちには親しみがある施設だったのろうと想像します。

そんな平和の象徴のような施設が、ガス室の待合室として使用されたのでした...。

パリ市内とパリ郊外で逮捕されたユダヤ人約12,000人のうち、約8,000人が冬季競輪場に入れられました。

子どもがいない人々は問題がないのでドランシー通過収容所に送り込まれ、子どもと一緒に検挙された人々がヴェル・ディーヴ入れられたようです。

室内競輪場の観客席の数くらいに押し込まれた人々は、それまでに行われたユダヤ人の検挙のときと比較しても酷い待遇を受けました。

寝るのもままならず、水も食べ物も与えられず、トイレも使えないという、非人道的な扱いで数日間拘束されたのです。

すぐ近くに住んでいた人の証言では、初めのうちは叫び声が酷くてたまらなかった、そして、ついに窓は開けられなくなった、と言っていました。臭いが酷くて耐えられなくなったのだそうです。

7月中旬、大変な暑さだったのでしょうね。室内競輪場の屋根は明かりをとるためにガラス張りでしたから、熱気と汚臭は想像以上のものがあったと思います。堪りかねた人の自殺もありました。

もっとも、警察官の中には、自分がしなければならないことに疑問を感じる人もいて、逃亡を大目に見てくれる、というケースもあったそうです。数は少ないですが、逃げ出した生存者たちが語っています。ヴェル・ディーヴに収容されながら生き残ることができた人は数百人いたそうです。

ヴィシー政権はナチスにおべっかをつかおうとユダヤ人を検挙したものの、16歳未満の子どもは引き取れないと拒否されたために、子どもの処分に困ることになりました。

とりあえず、子どもたちを母親から切り離して、子どもたちは地方にある収容所に入れることになります。

ヴェル・ディーヴはおぞましい施設となってしまったという理由よりは、パリ市内で広いスペースをとりすぎたという理由なのでしょう。1959年に解体され、跡地には慰霊のプレートがあります。


Jardin du souvenir à l'emplacement du Vél' d'Hiv

ここで非人間的な待遇で閉じ込められた人々の数は、次のように記されています:

・子ども: 4,115人
・女性:  2,916人
・男性:  1,129人

男性の数が少ないのを不思議に思われますか?

それまでのホロコーストでは男性だけが拉致されていたので、女性や子どもは安全だと信じて、普通の生活を続けていたからです。男性たちは危険を感じて隠れていたから、捕まった人は少なかったのでした。 

最後は「彼らを助けた人々には感謝あれ。通りかかりの人よ、忘れないで!」と結ばれています。

繰り返すべきでない過去は忘れない、これは大事なことだと思います。広島の慰霊碑の「安らかに眠って下さい。 過ちは 繰返しませぬから」よりは好きです。

ヴェル・ディーヴから出されたユダヤ人たちは、家畜のように貨物列車に詰め込まれて運ばれ、アウシュビッツ強制収容所で家畜のように殺されました。
 
ところで、フランスの法律では、フランスで生まれた子には自動的に国籍が与えられます。したがって、この一斉検挙で捕まってガス室に送り込まれた子どものうち、3,000人余りはフランス国籍を持っていたのでした。

戦争というのは残虐なもので、戦火にまみれて殺される市民が出るのは避けられないことですが、敵でもない人々を意図的に殺すという行為は恐ろしいと思います。中世ならいざ知らず、このような残虐行為が20世紀に入った時代に行われたというのは信じ難いことでもあります...。

戦時中にフランスから強制収容所に送られたユダヤ人は合計76,000人。おぞましい1942年の犠牲者は42,000人で、その3分の2近くが、ヴェル・ディーヴの一斉検挙(2日間)で拉致された人々だったそうです。


屈辱的なユダヤの星マーク

映画で見るユダヤ人たちの胸に付けた黄色い星のマークが、やたらに大きいので驚きました。

下は、演劇をテレビドラマにした「Souvenirs d'un vieil enfant(2009年)」の一場面のようですが、マークについての決まりを説明しています。



こういうのを付けさせられるのは、余りにも屈辱的ではないですか?!...

今日これをつけても、挑発者な人だと変な目で見られる程度でしょうが... と、ナレーター役の男性が言っています。

一斉検挙に先立って、1942年7月8日からは、法律によってユダヤ人が公共の場(劇場、レストラン、映画館、市、公園など)に行くことが禁じられています。その8日後の午前4時、突然、一斉検挙が始まったわけです。


フランス政府は、50年余りたってから罪を認めた

ヴェル・ディーヴの一斉検挙はナチスに強制されてやったとして、フランスは長いこと逃げていたようです。

ようやく、1992年、ミッテランは大統領(任期: 1981~95年)として初めてヴェル・ディーヴの跡地にある慰霊のプレートの前に花をささげました。しかし、フランス政府に責任が負わされる事件ではないと主張したので、生存者のユダヤ人たちからの強い批判を浴びています。

1995年に発行された「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」の切手その次に大統領に就任したシラク氏(任期: 1995~2007年)は、1995年、ヴェル・ディーヴの追悼式典で、フランスのユダヤ人虐待に対するフランス政府の責任を認める演説をしました。

事件から50年余り経過していました。

シラク氏は保守派の人間。本来なら、社会党のミッテラン大統領がそれをするべきでした。しかし、ミッテランは頑なに拒否。

ミッテランはド・ゴール政権のときにレジスタンス運動に参加したような人なのに、その前にはヴィシー政権で働いていたということがネックになったのかも知れません。

大したことは何もしなかったと思っていたシラク氏が、フランス政府の非を認めたと知って少なからず驚きました。

でも、ユダヤ人たちの要求が高まってきて、このあたりで認めぜざるをえない状況になったのだろうという気もします。

シラクの演説を聞いてみたら、彼独特のしゃべり方なので(ニュースの映像)、ちっとも感動できないのですが、スピーチの内容そのものはかなり良いです。

ミッテランが拒否しているインタビューと、シラクの演説を並べた動画がありました。



ミッテランはかなり冷たくユダヤ人をあしらっていたのですね。憎しみに過ぎない。憎しみで国を統治することはできない。彼ら(その言い方も冷たい)が望むのは勝手だけれど、100年も待つことになるのではないか、などと言っています。

ところが、ミッテランの任期が満了した春にシラクが大統領になると、彼は夏の式典でフランス政府の非を認める演説をやってのけたのでした。動画の最後に文字がでてきますが、この演説の後にシラクが言ったという言葉です。

「ユダヤ人たちが満足してくれると良いけれど。私にはその以上のことはできないから」


他国の出来事とはいえない...

フランスの警察自らが行ったユダヤ人逮捕は酷かったと思います。

フランス革命のときも、想像を絶する残虐なことをしている国だからな...。

でも、偉そうにフランスの非を咎めるのは遠慮しましょうね。日本軍だって酷いことをたくさんしているのですから。

フランス人の友達から、ドイツは戦争について謝罪したけれど、日本国家は誤っていないから未だに世界から許されていないのだ、と言われたときにはショックでした。

きれいな戦争なんて、絶対にありえないと思う。それに、非人道的な行為は、誤ったから許されるというものでもないとも思う。

でも、1942年の一斉検挙で殺された人たちの遺族は、フランス政府が責任を認めたことで、死者の魂が浮かばれたと考えたのでしょうね...。

― 続く ー


内部リンク:
ヴェル・ディーヴの一斉検挙に関する情報 2012/06/15
目次: 戦争に触れて書いた日記
サン・ジャン・カップ・フェラには、名前に魅かれて行った 2012/01/15


にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へ
にほんブログ村


カテゴリー: 歴史 | Comment (2) | Top
この記事のURL | Rédiger
コメント
この記事へのコメント
このことは世界史の授業で学んだかどうかもほとんど憶えていませんでした。とても書きづらいテーマだったと思います。日本も形は違っても同じ道を通っているので…。
世界レベルでおかしな時代だっと思うけれど、不景気から戦争は始まることが多いのではと思うので、不安の多い現在も、まったく遠い出来事とは思えないですし、忘れてはいけないですね。。
2012/06/17 | URL | chiaki@静岡  [ 編集 ]
Re:
v-22chiaki@静岡さんへ

chiakiさんも不穏な空気を感じられますか...。

こういう大きな問題を中途半端な知識で書くべきではないと思ったのですが、ブログに書くことにすればマジメに資料を読むので入れてしまいました。

フランスにいると戦争犠牲者の慰霊碑が目につき、何かにつけてそこでセレモニーするので、いやおうなしに戦争の悲惨さを実感してしまいます。それに、ニュースも日本のようにゴシップの話題ばかりではないし。日本にいたときには、戦争なんて遠い遠い存在で、戦争がなければ良いとだけノンキに考えていたのとは大違いです。戦争がどんなものであったかを忘れないことが大切なのだ、と思うようになりました。
2012/06/17 | URL | Otium  [ 編集 ]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する