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2012/06/18

シリーズ記事 【ヴィシー政権下、1942年のユダヤ人一斉検挙】 目次へ
その5


フランスでホロコーストの犠牲になったユダヤ人は77,320人。第二次世界大戦勃発時(1939年)にフランスにいたユダヤ人の22.1%に相当する、とありました。

つまり、8割近いユダヤ人は虐殺から逃れることができたことになります。

白い眼で見るフランス人もあれば、ユダヤ人を救おうとした善良な市民やレジスタンス運動家もいたのでした。ナチスに占領された時代のフランスでは、ユダヤ人をかくまったことがバレたら死刑だったわけですから、勇気ある行動でした...。


パリ・マレー地区にあるホロコースト資料館

「サラの鍵」の映画の中では、主人公のジャーナリストがサラの行方を探って資料館を訪ねていました。Mémorial de la SHOAH(ホロコースト記念館)というものではなかったかと思います。今でもユダヤ人が多く住んでいるパリのマレー地区にあります。

☆ オフィシャルサイト: Mémorial de la SHOAH - Musée, centre de documentation juive contemporaine
☆ Wikipédia:
Mémorial de la Shoah
ホロコースト記念館~Memorial de la Shoah

立派な施設のようです。パリの主だったミュージアムはどこも見学したと思っていたのですが、ここは存在さえ知りませんでした。

迫害にあったユダヤ人の名前を刻んだ記念碑の近くに、助けた人々の名を刻んだ碑(Le Mur des Justes)もあります。

1963年以来、エルサレムにあるヤド・ヴァシェム が、毎年、ホロコーストの時代にユダヤ人を助けた非ユダヤ人に「Justes parmi les nations(諸国民の中の正義の人)」というタイトルを与えているのだそう。イスラエル政府は授与の決まりも作っていて、助けたことに物質的な見返りとしてもらった人は正義の人にはなれません。

ホロコーストから助ける方法には、次のようなものがありました:

・人の目に触れないように、自宅ないし宗教上の施設などにかくまう。
・偽の身分証明書や洗礼証明書を入手して、ユダヤ人であることをカモフラージュしてあげる。
・安全な外国に行けるよう、国境越えを手伝ってあげる。
・一時的に(戦争が終わるまで)、ユダヤ人の子どもを養子して救う。

子どもを養子にしてかくまう、という方法があったのは思い浮かんでいませんでした。フランス人は、不幸な子どもを引き取るのが伝統的に好きだな、と感じます。フランスにいたユダヤ人の子どもは、85%が迫害を免れたそうです。


タンレーの町で見たもの

数年前に、クイズにするつもりで撮影したのに忘れていた写真があったのを、このシリーズを書きながら思い出しました。ブルゴーニュ地方の中で、パリに近い方にあるタンレー(Tanlay)の町を散歩していたときです。

「これ、何だかわかる?」
フランス人が指さしたのは、勝手口のような木戸でした。



これを見て、何だかわかりますか?


ドアに何か書いてあるのがヒントかな、と思いますよね?



こう書いてあります。
ABRI
20 PLACES

これをGoogleの自動翻訳で英語にさせても「SHELTER 20 PLACES」と出てくるので、クイズにはならないと思ってやめていたのかな?...

難しいフランス語ではないので、私も意味は分かったのですが...
でも、避難所って、なに?...

ユダヤ人迫害があった戦時中のフランスでは、こう書かれた入口があちこちにあったそうなのです。ここの門をくぐれば、20人分のベッドがありますよ、ということ。

こんなものは必要なくなってから消してしまっているのに、ここは残っているから珍しい、と、友達自身が驚いていたのでした。戦争を知っている世代ではないので、映画で見たのだろうと思います。

駆け込み寺のような役割を果たしていたのでしょう。

ヴェル・ディヴ事件の生存者が話しているのをインターネットで幾つも聞いたのですが、警察が何をしそうかという情報はかなり入手できたようです。この一斉検挙では、女性、高齢者、子どもは検挙されないと思って普通に生活していたから大量に捕まってしまったのでした。

でも、こんな文字を門につけたら、ここにユダヤ人が隠れていますよ、という目印になって、逆効果ではないですか?... ユダヤ人検挙が始まるという情報が流れたとき、非難所を作って、満員になったら文字を消したのかな?

この入口について、誰かインターネットで説明していないかと探してみたのですが、何も見つかりませんでした。

これを書きながら、この家の人が、いたずらか、思うところあってか、こういう表示を木戸に書いたのではないかと思えてきました。だって、戦後70年近くたったら、こんな風に文字が読めるほど残っているはずはないではないですか?!

クイズのイントロとして用意した加工写真を入れておきます。

7年前の3月のこと。
運河が凍っていました。





3月初め、凍てつく寒さの中でユダヤ人をかくまう家を見て、しんみりとした日の私でした。


ユダヤ人迫害が顕著だった国は?

ホロコースト百科事典では、国別に、犠牲者の数と、1939年時点で国内にいたユダヤ人の人口に占める割合を出しているそうです(フランス語のデータ)。

フランスでは22%が犠牲になっていました。そういう数値は、現場ドイツが一番高いのだろうと思ったのですが、そうでもないのでした(25%)。

ポーランドなどは、犠牲者は300万人もいて、戦前にいたユダヤ人の90.9%に相当するなどという、とんでもない比率でした。東欧諸国が多いというのは、なんとなく納得するのですが、ギリシャは86.6%。どうしてなのだろう?...

ドイツではユダヤ人迫害が戦前から始まっていたので、かなりの人たちが国外に脱出していたそうです。1933年から1939年の間に、ドイツとオーストリアから国外に逃れたユダヤ人は推定35万人。でも、せっかく逃げたのに、その国がドイツに占領されてしまったという不幸もあった...。

― 続く ―



追記1:

 
新版 六千人の命のビザ
別の日記でいただいたコメントで、日本にも戦時中にユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはら ちうね)さんという方がいらしたのを思い出しました。

リトアニアの日本領事館に勤めていた彼は、ユダヤ人の惨状に同情し、日本政府の命令にも屈せず6,000くらいのビザを出して難民を救ったといわれます。

上にも入れたホロコースト百科事典のデータを見ると、リトアニアの犠牲者は14.3万人で、大戦勃発前にいたユダヤ人の85.1%に相当していました。

そんなに犠牲者が出ていたとは...。調べてみると、リトアニアではホロコーストが凄まじかったと分かりました。

上のデータから単純にリトアニアで助かったユダヤ人の数を出してみたら、生き残ったユダヤ人の4人に1人が杉原氏からビザをもらって助かったことになります。ユダヤ人でない難民も助けてもらっているので、割合を低くしても、5人に1人とかいう数字になるのではないでしょうか? すごいことです...。

信念に忠実に生きられる人生って、素晴らしいな...。


追記2:

私のブログを見てくれている友達が、パリの市庁舎ではヴェル・ディブにまつわる展示会「C'étaient des enfants」をしていると教えてくれました。今年は、あの一斉検挙の70周年にあたるからなのだそうです。10月27日までしているそうなので、それまでにパリに行くことがあったら覗いてみようかな。


追記3:

ビザ発行は杉原大使が独断でしたことではないというコメントをいただき、背景を調べてみました。浮上してきたのは、大日本帝国もユダヤ人の経済力を利用しようとしていたこと。

ショア記憶財団のサイトに、満州へのユダヤ難民移住計に関して 48ページのレポートがあったので、それをもとに書き加えて表にしてみました。

1931年日本は満洲事変を契機に満洲全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国
1932年ヒットラー、首相に就任(翌年に国家元首となる)
1934年鮎川義介が「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題した論文を発表する。
1935年ナチスのユダヤ人迫害が始まる。
1936年日独防共協定締結。ドイツは上海にユダヤ人を送り込むことを検討。
1937年日中戦争が勃発。当時、上海には4,700人のユダヤ人がいた。
1938年日本はユダヤ人の満州移住計画を練り上げ、ユダヤ人難民に対する政策を決定する。
在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」と題された計画書が編纂され、翌年には「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題して政府の承認を受けた。

※この計画は、のちにアメリカ人のマーヴィン・トケイヤーが記した報告書で「Fugu Plan(河豚プラン)」と呼ばれる。ユダヤ人を扱うことを毒を持つ危険な魚フグに例えた命名である。
ゲシュタボはユダヤ人を上海に送り込むことを考慮に入れる。
1939年ドイツ軍はポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦勃発
日本はユダヤ人に対していかなる差別もしない、と公式に発表。
459人のユダヤ人を乗せた船(Usamaro)が到着。
杉原千畝氏、リトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられる。
1940年7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニア(ソ連占領下にあった)に逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到し、杉原千畝大使はビザを発行するようになる。
※ 杉原大使のビザ発給を非難する 8月16日付の本省からの電信が公表されている。
8月29日、リトアニアのカウナス領事館は閉鎖。それまでの間に、杉原大使はユダヤ人約6,000人に対して2カ月の通過ビザを発行した。
9月27日、日独伊三国軍事同盟の締結。
1941年上海には新たに4,000人の難民が到着している。神戸の難民は上海に連れてこられている。
日本は宣戦布告。
ドイツはアメリカに宣戦布告し、ユダヤ人はもはやドイツを離れることができなくなる。
1942年日本は上海の虹口区にゲットーをつくることを認める。
1943年日本でユダヤ人排斥デモ。赤十字は虹口区の状況が深刻であると報告書に書いている。
1944年上海のユダヤ人は約24,000人。虹口区のゲットーでは経済的余裕がある者は脱出。
杉原千畝、勲五等瑞宝章を受章。
1945年
第二次世界大戦の終戦。
1949年にかけて、上海のユダヤ人はアメリカ、イスラエル、オーストラリア、カナダなどに行く。 しかし30%はドイツ、オーストリアに戻っている。
1947年杉原千畝、外務省退官。
1949年中華人民共和国設立
1985年杉原千畝、イスラエル政府より日本人として初めてヤド・ヴァシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。

外交というのには裏があるものですから、杉原大使が日本政府に逆らってユダヤ人を救った英雄だと思い込むのは問題があるかもしれない、という気もしてきました...。
 
よくも調べない書いたことを参考にされてしまうと困るので、杉原千畝氏についての記述は削除しようと思ったのですが、自分用のメモとして残しておきます。

正確なことをお知りになりたい方は、専門書をお読みくださるようにお願い申し上げます。


日本のユダヤ人政策1931‐1945―外交史料館文書「ユダヤ人問題」から

日本占領下の「上海ユダヤ人ゲットー」―「避難」と「監視」の狭間で


内部リンク:
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厳しい寒さも、そろそろ終わり? 2012/02/15
総目次: テーマおよび連続記事ピックアップ

外部リンク:
☆ 岐阜県八百津町: 杉原千畝記念館
杉原千畝領事に助けられ日本を通過した一ユダヤ人、レオン・ランチャートさん
☆ Wikipedia: 河豚計画
☆ Fondation de la Shoah: Naissance de Shanghai la juive
『河豚計画』だって....!
☆ Wikipedia: 杉原千畝
☆ YouTube: グッとくるいい話 杉原千畝


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コメント
この記事へのコメント
読んでいて、おかしな箇所があったので訂正していただきたく、メッセージを残します。

杉原さんは、日本政府の命令に背いたわけではありません。
日本政府の許可があって、ユダヤの人々を逃がすことができたのです。
だから日本国内にユダヤの人々が逃げて来たのですよ。
そして米国など他の国に移り住みました。

杉原さんが、独断でやったのは間違いです。

独国と当時の日本政府は、同盟国だったから、日本政府が許可出すはずがないと思ってらっしゃってるのか分かりませんが、それは違いますよ。
2013/12/02 | URL | 名無し  [ 編集 ]
Re:
v-22 名無しさんへ

いくらビザを取得して日本に来ても、日本政府が杉原大使が勝手に発行したビザだと本当に反対していたなら入国を拒絶することはできたはずなので、奇妙だとは思っておりました。そんなに大量にビザを発行していたら目立ちますから、すり抜けていたとは思えません。

それでも、政府が杉原大使に送ったビザ発行を非難する文書が公開されているし、杉原夫人の証言もあるので納得できませんでした。「日本政府の許可があって、ユダヤの人々を逃がすことができた」という根拠を教えてくださいとお願いしたかったのですが、それも厚かましいと思って自分で調べてみました。

「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という計画書(通称、河豚計画)」の存在がすぐに見つかりました。日独防共協定の後は、この計画を推し進めることは決定的に難しくなったでしょうが、杉原大使がビザを発行していたのは協定締結の直前なのでした。となると、いちおう政府は文書で反対と書き残しておきながら、内密では黙認、悪意にとれば後押ししていた可能性も十分あると思いました。杉原大使が日本政府とつるんでいたとまでは思いたくないし、彼としては人道的な気持ちでやっただろうという気持ちは変わらないのではありますが。

教えてくださったことに深く感謝します! もともと、シロかクロかを振り分ける見方には懐疑心を持ってみるべきだと思っている私なのですが、安全神話を信じるような単純さが根底に根強くあるのだろうと深く反省しました。でも、ユダヤ人排斥という非人道的な行為は日本人には無縁だと愚かにも思い込んでいたことが間違いだったと知ったのは、かなりのショックでもあります…。

書いたことを全面的に直してしまうのは気がとがめるので、書いた表現を少し変えました。
2013/12/02 | URL | Otium  [ 編集 ]
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