| Login |
2013/12/14
前回の日記で、フランスには「セリエcellier)」と呼ばれる食料・ワインの貯蔵倉について書いたのですが、それで思い出したものがありました。レストランになっていたセリエです。

そのセリエにまつわる歴史について調べていたら、きりがないほど広がってきてしまいました。時代的背景もあるし、地理的なものもあるので複雑...。でも、面白い発見もあったので、把握したことをメモしておきます。


シャンパーニュ地方にあるクレルヴォー修道院のセリエ 

思い出したセリエは、シャンパーニュ地方のBar-sur-Aube(バール・シュール・オーブ市)にあります。それをつかったレストランの名前も、Cellier Aux Moines(僧侶たちのセリエ)。

みごとなゴシック様式の貯蔵倉で、12世紀の建造物でした。



あまりにも立派なセリエなのですが、ここはシトー会の重要拠点であったクレルヴォー修道院(Abbaye de Clairvaux)が建てたものなのでした。この修道院は、カトリックの歴史では重要人物となっているクレルヴォーのベルナルドゥスBernard de Clairvaux)によって、1115年に建立されました。

人里離れた場所にある修道院は、生産したものを売るために大きな町に拠点を持つ必要がありました。シャンパーニュ地方には12世紀から、ヨーロッパ中の物産が集まるシャンパーニュ太市と呼ばれる4つの市があり、その1つがクレルヴォー修道院から15キロほどと近い場所にあるバール・シュール・オーブの市でした。

そこでクレルヴォー修道院は、この町にある教会のそばに「小さなクレルヴォー(Petit Clairvaux)」と呼ぶ地区を整備したのでした。レストランとなったセリエは、そこにあります。

14世紀から15世紀にかけてあった百年戦争のときには、クレルヴォー修道院の僧侶たちはそこに避難して、écorcheurs(百年戦争期に各地を荒らし回った盗賊団)から逃れることもできたそうです。


シャンパーニュ地方オーブ県のブドウ栽培者がおこした暴動 

上に入れたレストランの写真で、天井のアーチに文字が書き込まれているのに気づかれたでしょうか?



この地域のブドウ栽培者たちがおこした暴動のなごりだったのです。

1911年、シャンパンの生産地では「Révolte des vignerons(ブドウ栽培者の暴動)」と呼ばれる騒ぎがありました。そのときのデモ参加者たちが集会に使ったセリエだったのです。熱気が漂うなか、彼らは思いを書き込んだのでしょう。

レストランの壁には、暴動のときの写真が何枚か飾ってありました。



これはレストランになったセリエのものかな?... ワインの樽がたくさんおいてあるのが見えます。


なぜオーブ県で、ワイン醸造者たちが暴動をおこしたのか

現在のシャンパン産地の地図を見ると、生産地域が大きく2つの地域からなっているのが分かります。北にあるのは、シャンパンのメッカともいえるランスやエペルネーがある地域。そこから飛んで北の方、ブルゴーニュ地方と接するところにオーブ県の生産地域があります。

シャンパーニュ地方のワイン地図とシャンパンの種類

事件は、その飛び火したみたいにできているオーブのブドウではシャンパンではないことになりそうになったときにおきました。レストランとなったセリエがあるのはオーブ県にあるバール・シュール・オーブ町で、現在のシャンパン生産地ではコート・デ・バール(Côte des Bar)と呼ばれる地域の中心地の1つとなっています。


1911 en Champagne :
Chronique d'une révolution
19世紀末から、フランスの農産物は本物と偽物を区別しようという動きがでてきました。その動きの中で、オーブ地域でとれるブドウでつくったものはシャンパンとは呼べないという法律ができてしまいました(1908年)。

害虫フィロキセラがフランス中のブドウ畑に壊滅的な被害をもたらしたあと、ブドウの木を植え直して、これから昔のようにブドウの生産ができると明るい見通しができていた時期。それなのに、この地域のブドウではシャンパンを作ることはまかりならぬ、というおふれがでてしまったわけです。
 
オーブのブドウ栽培者たちは、その法律を
撤回するように要求して反乱をおこしたのでした。
 
当時のオーブ県のブドウ栽培者は、かなり貧困だったようです。まだ機械化されていない時代なので農作業は過酷でしたが、ブドウ栽培だけでは生計がなりたたないほど畑の面積が小さな農家ばかりだったのです。シャンパンのメッカであるランスやエペルネーのあるマルヌ県では高い評価があるシャンパンを作って潤っていましたが、オーブ県では原料のワインをマルヌ県のネゴシアン(ワインを買ってブレンドする仲買人)に供給するだけなので収益性は低い。

彼らは生活に困窮していたので、もう何も失うものはない、という覚悟があったから立ち上がったと言います。デモのときにシンボルとして手に持ったのは、fousseux (binetteのこと)というブドウ畑を耕す尖がった小さな鍬(くわ)でした。

それでも、暴動がおきた当時、オーブ地域には20,000ヘクタールのブドウ畑があったそうです。現在のAOCシャンパンの品質保証を持つブドウ畑の面積は34,000ヘクタールですから、除外できないくらいに広い面積ではありませんか。

1911年のことなので暴動がおきた当時の映像は見つからなかったのですが、事件を伝える写真や新聞を見せながら、どのような暴動だったかを見せるビデオは幾つか見つかりました。事件から100年たった年には、この暴動を思い出す様々なイベントが地元ではおこなわれていたようです。


La révolte des vignerons en 1911 : les dates clés


新聞の代わりをした絵葉書

調べてみると、当時の写真が色々と出てきました。
Discours de Cheq 9 avril 1911
Gaston Cheq haranguant la foule
Place de l'Hôtel de ville, Troyes
1911/04/09
Bataillon de fer 9 avril 1911
Le « bataillon de fer » de Bergères et sa cantinière

上に入れたのは、Wikipediaの該当ページに入っていて、コピーライトがない画像です。

オーブのワイン醸造者がおこした暴動事件に関する絵葉書は、380種類も見つかっているのだそう。反乱に批判的なものはごく少なかったようです。

絵葉書コレクターが語っていることで、1つ学びました。

テレビニュースなどを見ることなどできなかった時代には、色々な出来事を報道する絵葉書がたくさんできていたのだそうです。新聞や雑誌の代わりに出来事を知らせる手段になるので、人々がニュースを伝えるために買って知人に送ったのでした。

もう新聞があった時代のはずですが、今でもフランス人は日本人ほどには新聞をとっていません。20世紀初めならなおさらで、絵葉書ニュースに人気があったのかもしれない。

この夏に、20世紀初めに洞窟に住んでいた変わったお爺さんの話しを書いたのですが(こちら)、このときに調べていたら、やたらに当時の絵葉書がたくさん出てきたので、奇妙に思っていた私なのです。絵葉書を作って売る商売が存在していたのでしょうね。そうでなければ、ロープをつたって登るようなところまで行って撮影するはずがない。

日本でも、テレビや雑誌の代わりになる絵葉書が作られたのでしょうか? ちらりと探してみたら紹介しているサイトが出てきたりはしましたが、昔の絵葉書を売っているのを私は日本で出会ったことがないように思います。

フランスの古い絵葉書の多さはすごいです。観光地でも何でもない市町村の絵葉書もたくさんあります。コレクターのほかにも、自分が住んでいる古い家や、住んでいる地域が昔はどうだったか知りたい人が買うので、需要があるようです。

ノミの市などでたくさん古い絵葉書を売っているだけではなくて、インターネットでも検索して購入できるサイトが幾つもあります。かなり高価なものもあるので、古い絵葉書をフランス人は好きなようです。


レストランに飾ってあった絵葉書で気に入ったのは、こちら:



デモをしながらボトルで杯をあげているのが面白い。左上にあるのは、デモをする人たちが首から下げていた丸い紙に書かれていたスローガン。自分たちは過去も現在も未来もシャンパーニュ人だ、と強調しています。痛ましいではないですか?!


シャンパンの歴史

ブドウ栽培者の暴動を追っていたらゴチャゴチャしてきたので、シャンパーニュの歴史を表にして整理してみました。

1~4世紀:シャンパーニュ地方でブドウが生産されるようになる。
496年:クロヴィスがシャンパーニュ地方のランス(マルヌ県)で国王の戴冠式を行い、その後の歴代フランス国王はランスで戴冠式をおこなった。そのため、シャンパーニュのワインは「王様のワイン」というステータスを持つことになる。
9世紀:シャンパーニュ地方で生産されるワインは、vins de la Montagne(山のワイン)、vins de la Rivière(川のワイン)と呼ばれる。
15世紀:百年戦争で荒廃したブドウ畑が復興する。
17世紀:シャンパーニュ地方には伝統的に「Tocane d’Aÿ」と呼ばれる発泡性ワインがあったが、実際に成功をおさめるようになったのは1675年ころ。Aÿはマルヌ県エペルネー郡にある。
17世紀末、Hautvillers(マルヌ県エペルネー郡)の修道院で僧侶ドン・ペリニョン(Dom Pérignon)は、シャンパンの製造法を完成させる。
シャンパーニュ地方で生産されるワインは、vins de Champagne(シャンパーニュのワイン)と呼ばれるようになる。
17世紀末から発泡酒シャンパンが貴族たちの間でもてはやされる。
19世紀初頭:シャンパンは世界的に有名になる。
1887年シャンパン大手メーカーは、シャンパーニュ地方で生産されたワインだけに対してChampagne(仏語でシャンパンのこと)という言葉を使えることを裁判で勝ち取る。ここでいうシャンパーニュ地方とは、アンシャンレジーム下での州を指す。

この年を最後に赤シャンパンは禁止となる。
1890年頃:害虫フィロキセラの被害がシャンパーニュ地方のブドウ畑におよぶ。
1905年:シャンパーニュの生産者たちは、シャンパーニュ地方で収穫したブドウ使って、同地域で醸造したものだけをシャンパンと呼ぶように、農業省に要求する。
1907年:南仏のラングドック地方でブドウ栽培者が暴動をおこす(Révolte des vignerons du Languedoc)。生産過剰や輸入ワインの増加により、地域のワインを売りさばけなくなったことが原因。
1908年シャンパンの生産地を規制するデクレがでる(Décret du 17 décembre 1908)。マルヌ県(Châlons-en-Champagne郡、Reims郡、 Épernay郡の全域。およびVitry-le-François郡の一部)およびエーヌ県(Château-Thierry郡とSoissons郡の一部)を生産地とする(15,000ヘクタール)。

シャンパーニュ・アルデンヌ地方のオーブ県は、歴史的にも経済的にもシャンパン産地に含まれるとして申請していたが認められず、オーブ地区で生産されるブドウで作ったものはシャンパンではないとされた。
時代的背景:20世紀初頭の時代的背景:
フランスは、普仏戦争の敗北からナショナリズムが高揚した第3共和制(1870~1940年)にあった。
ドレフェス事件(1894年)、政教分離(1905年)などがあり、社会の中で人々の対立が生まれ時代である。社会主義や労働者運動が盛んになり、組合が発展している。
第1次世界大戦(1914~1918年)が勃発する前の不穏な時期であるが、19世紀末から戦争勃発まではベルエポックと呼ばれて都市の消費文化が栄えた時代である。しかし、資本主義が横臥をふるった時代で、国の富みの7割が、人口2.5%の富裕者の手に握られていた。

暴動がおきる直前のシャンパーニュ地方:
マルヌ県: 1907年から1910年にかけて天候に恵まれずにブドウ収穫量が少なかった。ワイン仲買業者は買値を高くするかわりに、1908年の規制でシャンパンの産地には入っていないオーブ県などからワインの買い付けをした。マルヌ県のブドウ栽培者は不正業者が「よそ者のワイン」を仕入れると表現して怒る。

オーブ県: 1910年のオーブ県内ワイン生産量は3,073ヘクトリットル(前年は55,997hℓ)と少なく、それでなくても貧しいブドウ栽培者たちを窮地におとしめた。
1911年Révolte des vignerons de la Champagne(シャンパーニュ地方のブドウ栽培者暴動)がおこる。

マルヌ県のブドウ栽培者暴動
4月11日、元老院は不正行為の抑圧をするために、ただちに法律案を出すように政府に要請する発案を可決した。そこでは、フランスを分裂させてしまう原産地に対する規制を維持していなかった。これはブドウ栽培者の怒りをかう。同日の夜、マルヌ県のDamery、Dizy、Ayでは、オーブ県からワインを買いつけている、あるいはそう疑われる仲買業者のセラーや建物が荒らされた。翌日から暴動はマルヌ県内でエスカレートする。大きな破壊行為になったが、奇跡的に死者や重症の怪我人は出ていない。

オーブ県のブドウ栽培者暴動: 
1月、ブドウ栽培者組合を組織し、政府から調査委員会をつくることの認可を獲得する。
2月、1908年のデクレは税制法によって補われて徹底される。Gaston Checqの指揮のもと、「Ligue de défense des vignerons de l'Aube(オーブ県ブドウ栽培者擁護団」が創設される。
3月、ブドウ畑の審査委員会が視察してオーブ県を擁護する結論を出したが、政府は無効とする。 閣僚評議会議長がシャンパンの生産地限定ができたことに肯定的な発言したことがオーブのブドウ栽培者の怒りをかる。
デモ、税金不払い運動がおこり、議員が辞職したために県庁所在地のトロワ市も含めた県内の125の市町村議会が閉鎖されてしまう。
4月、バール・シュール・オーブ市とトロワ市で鍬を手にした大規模なデモ行進が行われる。バール県の県庁所在地トロワでのデモでは、市町村から集まった2万人近い人々が参加。 
6月、マルヌとオーブの対立を鎮めるデクレがでる(Décret du 7 juin 1911)。1908年のデクレには含まれなかったオーブ県、オート・マルヌ県にある市町村も含まれたが、オーブのブドウ栽培者には罠もあった。晴れてマルヌ県のネゴシアンにワインを売れるようになり、ネゴシアンはシャンパンの名「Champagne」として売ることができる。しかし、オーブのブドウ栽培者が自分でシャンパンをつくると、ラベルにはBasse ChampagneないしChampagne deuxième zoneと、ランクさがったシャンパンであることを明記しなければならないのだ。

オーブ県の不名誉を撤回する見直しは1913年にしか行われておらず、さらに戦争が始まって中断する。
1914~
1918年
第一次世界大戦
終戦後、オーブ地区をシャンパンの産地として認める動きが復活する。
1927年シャンパンを生産できる市町村が規定される。オーブ県および1908年で除外されていた地域も、条件付きでシャンパンの産地として正式に認められる。伝統的な製法でつくること、原産地、アペラシオン、ブドウの品種が条件。
シャンパンを生産できるブドウ畑の面積は35,280ヘクタールとなり、1911年の暴動に決着がついた。
1935年:農林省管轄の組織としてINAOが設立され、AOC(Appellation d’Origine Contrôlée、原産地呼称統制)の認定・運用にあたるようになる。ワインの原産地や製造過程を規定する法律であるが、後に様々な農産物に品質保証のAOCが与えられるようになる。
1936年シャンパンはAOCを獲得する。



結局、王様のワイン、シャンパンの産地として発展したマルヌ県が、その名誉を独占してシャンパンの産地を自分のところだけにしようとしたのに対して、オーブ県が割り込めるかどうかという内部分裂だったように見えました。


オーブの英雄ガストン・シェック

20世紀のフランスでは、ワイン醸造者たちがおこした「Révolte(レヴォルト)」と呼ばれる暴動が2回おこっています。

※ révolteには、反乱、反逆、暴動、一揆、憤慨の意味があります。この類いの単語は色々ありますが、révolteは規模の大小に関係なく使われる言葉だそうです。でも、レボルーション(革命)を連想させるので物騒な単語に聞こえます。

もう1つのワイン醸造者の抵抗運動としては、蜂起の理由はシャンパーニュ地方とは全くことなりますが、少し前に南仏のランドックで起こっています(1907年)。そのときには死者も出たりしたので、それに比べればシャンパーニュの暴動は穏やかなものだったと言われています。

オーブ地区のワイン醸造者の暴動を指揮したGaston Cheq(ガストン・シェック)が、理性的で、穏やかにオーブで生産されるワインをシャンパンと認めよという要求を当局に説得できるようにデモを導いたとして評価されています。

Bataillon de fer 9 avril 1911 
Le bataillon de fer de Bergères et sa cantinière

ガストン・シェックはワイン醸造に関係していた人ではなく、保険業を営む社会党員でした。バール・シュール・オーブで生まれ、その町で亡くなった人。町には彼の銅像やプレートが掲げられており、地域を救った英雄とされているようです。


  
シャンパンの歴史について書かれた書籍もありましたが、読まないで書いていることをお知らせしておきます。しっかり把握なさりたい方は、専門家が書いたものを参考になさってくださいね。

シャンパン歴史物語 ―その栄光と受難『』には、このオーブ県の暴動についても書かれているそうです。

でも、インターネットで調べただけでも、読み切れないほどたくさん出てきてしまった...。

オーブのブドウ栽培者がおこした暴動をおっていたら、この出来事の背景には深いものがありました。シャンパンというのはミステリアスなところがあるのですが、このオーブ県の存在もそう。

オーブ県はシャンパンを買うためによく行く地域です。ブルゴーニュ地方り隣接しているので行きやすいこと、マルヌ県のより安く美味しいシャンパンがあるのが理由。安くて、かなり質の高いシャンパンがあるので、お気に入りを作ってしまいました。

でも、調べていたら、知らなかったことが色々でてきました。オーブ県に買い付けに行ったとき応対してくれるワイナリーの人たちが、マルヌ県のランスやエペルネーのあたりと違って親しみが持てると感じていたのですが、その理由も見えてきました。

オーブがマルヌに排斥されそうになった理由は、ただ地理的なことだけでもなかったのでした。1927年にマルヌ県と同様にシャンパンを作る権利を得たのですが、その道のりは長かったのでした。

 シリーズ記事: 百年前、なぜシャンパンの産地で暴動がおきたの? 【目次


外部リンク
【1911年のブドウ栽培者の暴動】
La Champagne viticole, banc d’essai de la délimitation (1903-1927)
Histoire du Champagne  XXe siècle  Révolution vigneronne
Folklore de Champagne N°67: 1911 La révolte dans le Barséquanais – une grande année dans le vignoble aubois
☆ INA動画:
"Evénement du Siècle" : La Révolte des vignerons AUBOIS en 1911
☆ INA動画:
La Révolte des Vignerons
☆ YouTube:
Terres de l'Aube -- Les 100 ans de la révolte des vignerons 
☆ Wikipédia:
Révolte des vignerons de la Champagne en 1911
Révolte des vignerons 1911
☆ Troyes:
La révolte des vignerons 
☆ Wikipédia:
Gaston Cheq
絵葉書検索: Cartes postales des Archives de l'Aube  「revolte 1911」と入れれば出てくる
Hymne des vignerons champenois de l'Aube 

【その他】
Les grandes dates de l'histoire du vignoble et de l'appellation Champagne
☆ Wikipédia:
Révolte des vignerons du Languedoc en 1907

【バール・シュール・オーブ市のセリエ関係】
☆ Abbaye de clairvaux:
Présence dans la côte des bar
聖ベルナールとクレルヴォー修道院

内部リンク
クイズの答え (1): 見上げていたものは何か?2010/02/11 18世紀のシャンパン


にほんブログ村 海外生活ブログ フランス情報へにほんブログ村にほんブログ村 トラコミュ フランスのお酒 (ワインなど)へ
フランスのお酒 (ワインなど)



コメント
この記事へのコメント
今回も興味深く拝読しました。

もともとロマネスク美術が好きなので、シトー派のベルナールによるクレルボー修道院のことや、オーブ地方のシャンパーニュのことなど面白かったです。
ランス近辺には1度行ったことがあるのですが、次回はトロワ辺りを中心に訪問したくなりました。

2つの地域のシャンパーニュにまつわる違い、次回の日記も楽しみにしています。
2013/12/14 | URL | かてきん  [ 編集 ]
Re:
v-22 かてきんさん

自分の頭の中を整理するためにダラダラとメモしたのに読んでくださったと聞いて嬉しいです。

ロマネスク美術もお好きでしたか。好きなものに共通点がありますね...。

クレルヴォー修道院は重度の犯罪者が入る刑務所になってしまっているのですが、歴史的建造物の部分は見学できます。近くを通ったときに何度か入口から入った通行ができる部分には立ち寄っているものの、見学時間に合わなかったりして、まだ内部の見学をしていないことを思い出しました。

>次回はトロワ辺りを中心に訪問したくなりました。
⇒ 実は、シャンパーニュ地方には見学する価値がある歴史的建造物が乏しいので、積極的には観光をしていません。ブルゴーニュ南部などはロマネスク教会やお城だらけだし、何度同じところに行っても感激するので、それに比べると... と思ってしまって、用事があって行ったついでに観光するというパターンがほとんどでした。

トロワの近くでは、シャウルス村の教会が素晴らしいのでびっくりしました。博物館にはいくらでも芸術作品がありますが、やはり置くべきところに置いてあると感動を与えます。
日記でも書いていました:
http://otium.blog96.fc2.com/blog-entry-1386.html

もしお酒を召し上がれるなら、夏にオーブ県で行われるシャンパンのイベントに合わせて行かれたら? ブルゴーニュの雰囲気に似ていて楽しいです。
2013/12/14 | URL | Otium  [ 編集 ]
いや〜セリエから始まった詳しいシャンパン解説、堪能しております。また、Otiumさんの心の在りかもほの見えて、楽しい限りです。ポストカードのことですが、日本で同じような働きをしたのが「錦絵」です。明治初期の函館や横浜に建てられた西欧建築は錦絵となって地方に伝搬し、器用な地方の大工たちが見様見まねで西洋建築を建てていったようです。一つの西洋建築に百種類もの錦絵が描かれたこともあるとか。また、当時の建築業界で「洋行」したときのお土産は「アルバム」と相場が決まっていたそうです。アルバムとは当時の有名建築や話題建築の写真を沢山貼り込んだ商品としてのアルバムで、その写真にあるデザインを首っ引きでコピーしたようです。もちろんアルバムには建築以外の種類もあり・・・・などは大人気だったようです。
2013/12/18 | URL | をやぢ  [ 編集 ]
私もシャンパーニュ地方は見るべきものがないような印象で、シャンパーニュにもあまり興味がなかったのですが、ランスとエペルネー近辺のみひょんなことで立ち寄ったのでした。
ランスは大聖堂にも寄りましたが、サンレミ教会のほうが、少しですがロマネスクの名残りがあり私は好きでした。

オーブ県でのfete、行きたいのですが月末から月初めなので、この期間は忙しいサラリーマンとしてはちょっと難しいなあ、と感じました。残念。

シャウルスの彫刻群、美術のセミナーで習ったことがあります。一度は見たいと思っていて興味があるので、そのうち、チーズのシャウルスつながりで(でもシャウルスでは造られていないのですよね、残念)訪問してみようかな、と思っています。

いろいろなご提案、ありがとうございます。
2013/12/18 | URL | かてきん  [ 編集 ]
Re:
v-22 をやぢさんへ

読んでくださっているとはどうもありがとうございます♪ シャンパンは冷たくて美味しければ良い程度にしか思っていないのですが、謎が多いので、つい興味を持ってしまうようです。調べていたら、次々と知らなかったことが分ってくるので、ここのところはまっております。

>ポストカードのことですが、日本で同じような働きをしたのが「錦絵」です。
⇒ 気がつけば、そういう働きがあったでしょうね。逆に、写真が登場する前のフランスでは、そういう役割をするものが存在したのだろうかと思ってしまいました。

建築物の錦絵とか、お土産になったとかのお話し、とても興味深いですね。

革命前のフランスの城で、盛大なパーティーをして来客を滞在させたとき、城を鮮明に描いたものを本にしてお土産に持たせたという話しを思い出しました。あれはアルバムですね。シャンティーイ城の複製本を見ると、建物や庭園の絵ばかりで、旅の楽しみを見せる旅行記念のお土産とは違うのでした。旅行から帰った招待客はそれを人に見せるでしょうから、見事な城だというのが広まるという効果があったのだろうと思いました。

>明治初期の函館や横浜に建てられた西欧建築は錦絵となって地方に伝搬し、器用な地方の大工たちが見様見まねで西洋建築を建てていったようです。
⇒ 実は、絵を見ただけ建てたのかもしれないけれど、それは無理だろうと思った城がブルゴーニュにあります。でも、建てられてしまうのですね。
そのことを書いたのは、こちら:
http://otium.blog96.fc2.com/blog-entry-1689.html

>・・・・などは大人気だったようです。
⇒ あれのことではないかと思うのですが、フランスでは浮世絵イコールそれと思っている人が多いので参ってしまいます。初めて本物を見たのはパリの浮世絵特別展の1コーナーで、たくさん展示されていたし、想像以上にどぎついのでびっくりしました。日本の美術館では飾らないのではないかと思って調べてみたら、いま大英博物館では170枚の特別展が開かれているらしい。それを巡回展にして日本に出そうとしたら、引き受ける美術館がなかったような…。
2013/12/18 | URL | Otium  [ 編集 ]
まあ西欧に渡った「あれ」は当時の日本では普通に入手できたでしょうから、洋行帰りの人気「アルバム」は西洋夫人の(泰西名画風のポーズをつけた)ヌード写真集ですね。日本の「あれ」に比べれば実に可愛いものです。しかし、見たこともない白人婦女子のリアルなヌード写真は明治男子にとっては大変な衝撃だったようです。
ところで、現代のように沢山の図面を描くようになったのは近代建築以降であって、それ以前は建築図面は絵画に近いものでした。現に多くの明治建築は平面図と立面図だけで建築されています。建築は音楽に例えられますが、音楽でコード進行とテーマ、ブリッジ(サビ)があればアドリブ演奏ができるのと同じく、意匠のテーマと構造方式、素材が決まれば絵図面程度でも建築することができます。もちろん、大工の腕が良いことが前提ですが・・・錦絵を見ただけでも充分に建築できたと考えられます。また、構造や意匠の確認のためにも精密な建築模型が多数造られたようです。この模型製作については指し物師や鋳物の砂型を造る木型師が活躍したというのも面白いところです。
2013/12/18 | URL | をやぢ  [ 編集 ]
Re:
v-22 かてきんさんへ

>ランスは大聖堂にも寄りましたが、サンレミ教会のほうが、少しですがロマネスクの名残りがあり私は好きでした。
⇒ Basilique Saint-Remiですね。少しだけ写真がアルバムに入っていたのですが、記憶が定かではありません。YouTubeで動画を見たら、とても見どころがある教会のようだったのに。ゆっくりする時間がなかったのかもしれません。この次にランスに行ったら訪れたいと思いました。

>シャウルスの彫刻群、美術のセミナーで習ったことがあります。
⇒ 有名なところでしたか。

>シャウルスでは造られていないのですよね、残念
⇒ カマンベール村も激減したので(1軒だけあったかな、紹介されて行きました)、シャウルスもそうか~ かと思ったのですが、40年間なかったあと、1995年に1軒できたようです:
http://www.fromageriedemussy.com/

シャウルスはひどく不味いのがあるので避ける傾向にあるのですが(美味しいのは、驚くほど美味しい)、サイトを見たら、工場生産が進んだために村からチーズ農家が姿を消したとあったので、あの味の差の大きさが理解できました。シャウルスの製造者は7カ所しかなく、そのうち2カ所だけが農家。それであれだけ出回っているということは、工場の規模が想像できます。だからあんなに不味いのがあるのだ...。
2013/12/18 | URL | Otium  [ 編集 ]
Re:
v-22 をやぢさんへ

>明治男子にとっては大変な衝撃だったようです。
⇒ なるほど...。それに、明治初期だと、通関でチェックされることもなかったかもしれませんね。終戦直後にフランスに留学した先生が、出発前にお世話になった人たちに何を土産に欲しいかと聞いたら、みんなそれをご所望なさるので、オランダまで買いに行ったと話していたのを思い出しました。通関では、政府給費留学生だったために持っていた特別なパスポートを水戸黄門よろしく掲げて、荷物検査なしで通してもらった、と言って笑っていました。

>意匠のテーマと構造方式、素材が決まれば絵図面程度でも建築することができます。///// 構造や意匠の確認のためにも精密な建築模型が多数造られたようです。
⇒ なるほど~。とんでもない構造の建築物でも、模型を作ってみたら骨組みをどうすれば良いか分かるわけですね。思ってもみませんでした。ありがとうございます。
2013/12/18 | URL | Otium  [ 編集 ]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する